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第2話「仁さん」

大変なことになった。








ミツキの家に誘われたのだ。




ことの次第はこうだ。



今日の放課後、洋平はいつもより早めに部室へ行った。



中に入ると、ミツキがすでに来ていて、窓際で雑誌を読んでいた。



洋平は緊張した。しかしそれを隠すよう、やや明るい声で話しかけた。



「川本さん、今日は早いんやね」



「うん、六限目の授業がすぐに終わったけん」



そのあと、二人でしばらくの間、とりとめのないことを話した。



入部したばかりの頃は、恥ずかしくて声をかけることすらできなかったが、いまはこうして雑談できるくらいにはなった。心臓の鼓動はあいかわらず速いが。



ふと、思いついたかのように、ミツキが言った。



「麻見君ってさ、演劇部に入ったってことは、やっぱり芝居が好きなん?」



「うん、まあ、それなりに」



本当はたいして興味がない。



「だったらさ、あさっての日曜日、わたしん家においでや。面白い芝居のビデオ見せたげるわ」



「え?」



洋平は目を丸くした。



「麻見君、日曜日、あいてる?」



「あ、うん」少し口ごもる「あいてるけど」



「それじゃあ、決まりやね。来てくれるやろ?」



「うん」



素早い話の展開にとまどいながらも、なんとかうなずいた。



二人は、待ち合わせの時間と場所を話しあった。そして、日曜日の朝十一時に、神社の前で待ち合わせることにした。



やがて、他の部員達もやってきて、その日の練習が始まった。



屋上で発声練習をする部員達をながめながら、洋平は頭の中でえらいことになったと大声をあげた。なんだか落ちつかなくなり、意味もなく手をにぎったりひらいたりした。まわりに誰もいなかったら、おそらく、わーっと叫びながら走りだしていただろう。それくらい動揺していた。



女の子の家に遊びに行く。



それも、惚れた女の子の家に。



そういう経験のない洋平の人生にとって、それは革命的な大事件であった。



藤沢が心配そうに声をかけてきた。



「麻見君、なんか様子がおかしいで。どうかしたん?」



「いや、別に、なんでも、ないですよ」



「なんか息が荒いで。風邪ひいたんとちゃう?」



「大丈夫、大丈夫ですよ。ほら、このとおり」



洋平はその場で、くねくねと踊ってみせた。藤沢は、ますます心配そうな顔つきになった。





練習が終わったあと、洋平は三田村を便所にひっぱりこんで、この出来事を興奮しながら語った。三田村には、ミツキのことを何度か相談したことがあったのだ。



「ほう、よかったやないか」



三田村が素直にそう言ってくれたので、洋平はますます有頂天になった。



日曜日がやってきた。



洋平は午前五時に目をさました。



風呂に入ってしっかりと体を洗った。朝食をとり、いつもより多めに歯磨き粉を使って葉をみがいた。そして、昨晩に厳選しておいた洋服を身につけた。



これで準備は万端だ。



しかしまだ午前七時。約束の十一時まで、まだだいぶ時間がある。



とりあえず、また風呂に入った。めずらしく早起きしたので、少し眠い。湯船につかりながら、洋平は、ミツキに会ったとき、どんな感じであいさつをすればかっこいいかを、一生懸命に考えた。



「うーむ」



「…………」





考えているうちに、風呂で寝てしまった。



目覚めると、時計の針は十二時をさしていた。



「うぎゃあ」



洋平は青くなった。大急ぎで着替えて、つんのめりながら家を飛び出した。



自転車に乗り、全力でペダルをこぎながら、馬鹿阿呆糞間抜けと何度も自分をののしった。風呂からあがって、ろくに体をふかずに着替えたので、厳選した洋服はびちょびちょになっていた。



神社に着くと、ミツキは石階段に座って待っていた。



「ごめん悪かったすまん申し訳ない」



洋平は自転車から降りると、息を切らしながらあやまった。



ミツキはきょとんとしながら聞いた。



「何であやまるん?」



「え?いや、だっておれ、遅刻したから」



ミツキは腕時計を見た。



「あ、ほんまや。もう十二時過ぎてるやん」ミツキは笑った。「ずっと雲見とったけん、気づかんかったわ」



「雲?」



「うん、ほら、あそこ」山の方を指さす。「あのへんの雲の形、ええ感じなことない?」



どのへんの雲の形がええ感じなのかはわからなかったが、洋平はうなずいておいた。



「十一時にここ来てから、おもしろくてずっとあの雲見てたんよ。まさか一時間以上もたっとったなんて思わんかったわ」



洋平は、何と言えばいいのかわからなかった。



「ほな行こか」



そう言って立ち上がると、ミツキは石階段を駆けのぼりはじめた。



「ちょっと、どこ行くんで?」



「え?わたしん家に決まってるやん」



「そっちには神社しかないで」



「うん」ミツキは立ち止まってふりむいた。「わたしん家、神社なんよ」



ミツキの家は、神社の裏にある木造の住宅だった。



玄関から中に入ると、落ち葉のような匂いがした。



板張りの廊下を進み、ミツキの部屋に案内された。



ミツキの部屋は、地味な六畳間だった。家具はどれも色あせており、畳も少しいたんでいる。まるでお年寄りの部屋だ。



しかしどんなに地味でも、ここはミツキが生活している場所なのだ。



洋平は緊張しながら足を踏み入れた。



「もう、お昼やけん、おなかすいたやろ。なんか食べ物持ってくるけん、ちょっと待っててな」



そう言ってミツキは部屋から出ていった。



ため息をついて、洋平は窓際に座った。



窓の外を見ると、物干し竿に、たくさんの皮をむいた柿が、ひもで結ばれ、吊るされていた。干し柿用の柿だ。一月になると、実がしぼみ、色が黒ずんで、濃い甘さの干し柿ができあがる。



洋平の家でも、干し柿は作られていた。正月になると、できあがった干し柿は、おせち料理といっしょに食卓に出されるのだ。



ミツキの家では、どうしてるんやろか?



そんなことを考えたとき、段ボール箱をかかえたミツキが部屋にもどってきた。



「こんなものしかないんやけど、ええかな?」



そう言って、洋平の前に箱を置いた。その中には、いろんな種類の菓子パンが入っていた。



「ええよ、ありがとう」



洋平は、箱の中からクリームパンを手にとった。ミツキは、少し迷ってから、ジャムパンを手にとった。袋を破り、ふたりでもしゃもしゃとそれを食べた。



「昨日言ってた、芝居のビデオって、どんなんな?」



二個目のパンにかぶりつきながら洋平が聞くと、ミツキはジャムパンを口にくわえたまま立ち上がり、本棚から一本のビデオテープを抜き出した。



「ほえあえ」



「ちゃんと食べてからしゃべり」



ミツキはジャムパンをのみこんだ。



「これはね、昨年の文化祭で、仁さんがやった一人芝居を撮ったものなんよ」



「部長が?」



思わぬ名前が出てきたものだ。



「わたし、中三のときに、その文化祭でそれ見たんやけどね。とにかくすごいんよ」



満腹になるまで菓子パンを食べたあと、ふたりはさっそくビデオを見ることにした。



テレビの上に置かれたビデオデッキにテープをさしこみ、ミツキは再生ボタンを押した。







唐突にざわめき声が流れると同時に、テレビ画面に体育館の舞台が映った。



画面下のほうに、観客らしき頭の影がちらちら見える。



体育館の電灯が消されて、画面は真っ暗になった。



ざわめき声が、静まってゆく。



芝居が始まるのだ。





舞台の中心に、照明が当てられた。



そこには、学生服を着た仁さんが立っていた。



ゆっくりと顔をあげて、仁さんは落ち着いた口調でつぶやいた。



「好きなひとができた」



その表情は純朴な少年といった感じで、普段の部員達をどなりちらしている仁さんとは、まるで別人だった。



はにかみながら、仁さんはつづけた。



「今年の春、ぼくは高校生になった。青春への期待と不安で、胸が高鳴っている。あれは、四月の中頃のことだった。登校中に、川沿いの道を歩いていると、橋の上にひとりの女性が立っているのを見つけた」



仁さんは遠くを見るような目つきになった。まるで視線の先に、その女性が本当にいるかのようだった。



「きれいなひとだった」



ため息まじりにつぶやく。



「年齢は、たぶん二十歳くらいだ。腰までのびた長い髪、切れ長の瞳、すらりとした鼻に、小さな唇。ぼくは思わず足を止めて、しばらくの間見とれていた。次の日の朝も、そのまた次の日の朝も、その女性は橋の上に立っていた。彼女を見るたびに、ぼくの体は燃えるように熱くなった」



仁さんは身ぶり手ぶりをくわえながら、見知らぬ女性に恋をする女性を演じていった。



芝居が展開するにつれて、洋平は画面に映る人間が仁さんであることを忘れていった。



そして仁さんが演じる少年に同情して、胸がしめつけられるような思いを味わった。



やがて少年が勇気を出して女性に話しかけるシーンになると、思わず身をのりだしてしまった。



何もない空間にむかって、仁さんは緊張した面持ちで頭をさげた。



しかし洋平には、その何もない空間に美しい女性の姿が見えるような気がした。



「おはようございます。あの、ぼくは、え?あ、はい、そうです。駅前の高校の生徒です。一年生です、はい。えっと、よくここですれちがいますよね。散歩ですか?え?橋の上から見える町の風景が好き?あ、そうなんですか。それで毎朝、ここに来てるんですね。ああ、確かにここからだと、朝日に照らされた建物が、なんだかきれいに見えますね。何度も通っているのに、ぜんぜん気がつかなかった。え?ぼくの名前ですか?ぼくは」



そういった台詞まわしで、仁さんは少年と女性の会話を表現した。



その後、少年と女性は毎朝橋の上で話をするようになる。学校のこと、仕事のこと、好きな音楽のこと、好きな本のことなど、いろんなことを楽しく語りあう。少年の想いはふつふつと大きくなってゆく。そんな日々が、一ヶ月程つづく。



そして少年は、女性に恋文を渡すことをついに決意する。



恋文の封筒をポケットにおさめて、仁さんは女性を待つ少年を演じた。



落ち着きのない足取りでその場を歩きまわり、何回も腕時計に目を落とす。時々まわりを見渡す。



中学生だった頃、告白のために女の子が来るのを待っていた自分も、あんなふうだったことを思い出して、洋平はなごやかな気分になった。



はっとした表情になって、仁さんは顔をあげた。そしてポケットに手をそえた。女性がやってきたのだ。



洋平は、つい拳をにぎってしまった。



仁さんは、頬を紅潮させながら封筒をとりだした。



「おはようございます。あの、これ」



急に仁さんは言葉につまった。



そのまま数秒沈黙する。



「え?」



表情が一転して暗くなる。



「引っ越す?」



封筒が、手からすべり落ちた。



「イタリア?イタリアに引っ越すんですか。いつ?」



声がうわずっている。



「明日?それで、今日、ぼくにお別れを言いに?」



仁さんはしばらくの間ぼうぜんとしていたが、突然、え?と声をあげて足元を見た。



そこには、封筒が落ちている。



「あ、これは」



あわてて拾い、くしゃくしゃにしながらポケットにつっこんだ。



「これは、その、何でもないんです。はい、何でもないんです。何でもないんです」



さみしそうに笑いながら、くりかえした。



「何でも、ないんです」



そこで照明がゆっくりと消えて、仁さんの姿は闇に溶けていった。






長い沈黙のあとに拍手が鳴りひびいた。




芝居が終わったのだ。





ミツキがビデオデッキの停止ボタンを押した。そして、ビデオテープを巻きもどしながら聞いた。



「どやった?」



洋平は我にかえった。まだ意識の半分が、芝居の世界の中にいた。



「うん」ため息をついてから、つぶやく。「悲しい話やったけど、なんかすごかったわ」





「そやろ?」ミツキがうれしそうに笑う。「わたしもこれを見たとき、めっちゃ感動したんよ。演じてるのは仁さんひとりやのに、すぐ側に女のひとが立ってるみたいやったやろ?それがすごい不思議で、でも違和感はまったくないんよね」



「わかる、わかる。おれもそう思た」



「それに、気付いた?仁さん、女のひとと話してるシーンの間、ずっと視線の角度を一定に保ってたんよ。まるで、そこに女のひとの顔があるかのようにね。そんな細かい演技の積み重ねで、観客に女のひとの姿をうまく想像させてたってわけ。わたし、これ見て、すぐ演劇部入ろうって決めたんよ。他の部員のひと達も、何人かは同じ理由で入部したんやと思う」



巻きもどしが終わると、ミツキはビデオデッキからテープを取り出した。ケースにしまって、本棚にもどす。



洋平はふと浮かんだ疑問を口にした。



「それにしても、なんで一人芝居なんやろ?他の部員はどうしてたん?」



「部員はおらんかったんよ」



「え?」



「去年の文化祭のとき、演劇部はまだできてなかったの。さっき見た芝居は、一般生徒の自主発表として、仁さんがひとりでやったんやて。まあ、照明は友達に手伝ってもらったけど、それ以外の台本や演出を考えたんは、仁さんひとりだけ。演劇部ができたんは、文化祭のあと。あの芝居を見て感動した当時の一年生、つまり、いまの二年生のひと達が、仁さんを誘っていっしょに作ったんよ。つまり仁さんは、演劇部の創立者ってわけ」



「すごいひとなんやの」



ミツキは強くうなずいた。



「わたしね、仁さんにすごく憧れてるんよ。仁さんみたいに、いい演技ができるようになりたい。本気でそう思とる」



それを聞いて、洋平は仁さんに嫉妬した。



まさか、川本は仁さんのことが。



そんな不安を感じた。

しかしその思考は、ミツキの次の一言で一時停止した。




「ねえ、これからどうする?」



「え?」



その瞬間、いま自分はミツキとふたりきりであることを思いきり意識してしまい、洋平の頭は急激に沸騰した。



「昼ごはんは食べたし、ビデオは見たし。えっと、まだ一時半やね。何かやりたいことある?」



「いや、とくにないけど」




「そっか、どうしよ?」



そこでふたりの会話はとぎれた。

なんとなく、互いに見つめあう。

洋平は顔を赤らめてすぐに目をそらした。

それでもミツキは洋平を直視しつづけていた。

そよ風がふき、カーテンが小さくゆれた。神社の境内の方から、子供の遊ぶ声がかすかに聞こえてくる。洋平は指をもてあそびながら、せわしなく部屋を見わたした。



沈黙はしばらくつづいた。



「ねえ」



ミツキが口をひらいたとき、洋平はとつぜん立ち上がり、



「おれ帰るわ」



と言って早足で部屋から出た。ミツキがあわてて追いかけてきた。



「どしたんでいきなり?」



「ごめん。用事思いだしたんよ」



「用事って何な?」



「いや、親父の畑仕事をな、その、とにかく急用なんよ」



洋平は何度もあやまりながら家を出た。



そして急いで神社の境内を通り、石段を二段飛ばしで降りていった。ミツキが、ちょっとちょっと、と言いながらついてきた。



「芝居のビデオおもしろかったわ。今日はありがと。それじゃ」



その言葉を最後に、洋平は自転車に乗って走り出した。数回ペダルをこいだところで振り向いてみると、ミツキが納得いかないといった表情でこちらをにらんでいた。それにむかって小さく手をふってから、洋平は前に向きなおった。



そのまま十分程走り、人気のない田んぼ道にはいったところで、洋平は自転車を止めた。



「何やっとんでおれは」



ハンドルに頬をのせて、うめいた。

ミツキとふたりきりという緊張感に耐えられなくなって、嘘をついて逃げてしまった。まったく情けない男だ。



「こんな機会めったにないのに」



自己嫌悪に包まれて、洋平は頭を抱えた。










「どや、川本との関係は進んだんか?」



翌日の放課後、部室で会った途端、三田村がいきなり聞いてきた。洋平が素直に昨日のことを話すと、あきれた顔で、情けないのうと言われた。



「おまえそんな調子やと、一生告白できんなるぞ」



返す言葉がなかった。



ミツキは昨日のことを気にしていないのか、部室で会うと、ふつうにあいさつをしてくれた。洋平も、内心の緊張をおさえながら、ふつうにあいさつを返した。



屋上での練習中、洋平はいつものようにミツキを観察していた。すると、ミツキが何度も仁さんに、演技についての質問をしていることに気がついた。

昨日の不安がよみがえってきた。

洋平は、隣で座って文庫本を読んでいる藤沢に声をかけた。




「藤沢先輩」



「ん?」文庫本をとじて、藤沢は顔をあげた。「何?」



「先輩は、部長のこと、どう思います?」



「どう思うって?」



「恋愛の対象として、どうかなと」



「は?」困惑した表情になる。「なんでいきなりそんなこと聞くん?」



「いや、その、ふと思っただけでとくに意味はないんすけど」



「うーん、そやね。女子部員には人気あるみたいやで。しっかりしていて、男らしいけんね。もてるのも無理ないやろ」



「そうですか」洋平の声は暗くなる。「藤沢先輩も部長のことを?」



藤沢は平然と首を横にふった。



「わたしは、ああいうのは、あんまりタイプやないけん」



「へえ、じゃあ、どんなのがいいんですか?」



「それは」

と言いかけて、藤沢は口をとじた。そしてなぜか洋平を見て顔を赤くした。

そのとき、仁さんの大声が屋上にひびきわたった。



「よし、これから、おれがいま思いついた特別練習をおこなう」




それを聞くと、部員達の顔がいっせいに青くなった。



「あ、仁さん、おれ風邪気味やけん、早退するわ」



そう言って走り出そうとした、三田村の腕を素早くつかむと、仁さんは有無を言わさぬ口調でどなった。



「それじゃあ、みんな、いまから商店街に行くで」





部員達は荷物をまとめると、ならんで校舎を出た。なんか遠足みたいやな、と洋平は思った。

歩いている間、部員達は処刑を待つ囚人のような顔をしていた。



「特別練習って何なんですか?」



洋平は前を歩く三田村に聞いた。



「見りゃわかる」



三田村は力無くつぶやいた。





ちょうど夕方なので、商店街は晩御飯の材料を買うおばさん達でごったがえしていた。

店のオヤジの威勢のいい掛け声や、世間話をするおばさん達の笑い声が、あたりを飛び交っている。



部員達は、商店街の真ん中あたりで足を止めた。

突然あらわれた高校生の集団に、おばさんや店員達はけげんな目をむけた。

仁さんはその様子を見て、満足そうな笑みをうかべながら言った。



「いまからひとりずつ、ここで何かやれ。そしてまわりのひと達を楽しませろ。うまく楽しませることができたやつは今日はもう帰ってもええ。できなかったやつは、できるまでずっとここにおれ。逃げるやつは退部じゃ。よし、始め」



洋平は絶句した。



そんなむちゃなことに、部員達がしたがうわけないと思った。

しかし、部員達は誰も文句を言わなかった。さっき逃げようとしていた三田村も、反発の姿勢をまったく見せなかった。



「それじゃ、わたしが最初にやります」



明るい声をあげながら、ミツキが前に出た。洋平はおどろいて、



「マジでやるんか」



とつぶやいた。



それを聞いて、ミツキは、まあ見ててよ、というふうに笑うと、大きく息を吸い、なんと、演歌を歌いはじめた。坂本冬美の「夜桜お七」だ。



まわりのおばさん達が騒ぎはじめた。部員達も目を見開いている。



ミツキの歌はコブシがきいていて、とてもうまかった。



歌がすすむにつれて、騒ぎ声がゆっくりと静まっていった。まわりを見渡すと、おばさん達はうっとりとした表情になって、ミツキの歌声に聞き惚れていた。



歌が終わると、すぐに拍手が鳴りひびいた。



ミツキは照れたように頭をかきながらおじぎをした。



「よし、川本は合格じゃ。帰ってもええで」



仁さんがそう言うと、ミツキは、



「じゃあ、みなさん、お先に」



と言って、元気よく走り去っていった。



ミツキの演歌がうけたのを見て、腹をくくったらしく、他の部員達もひとりずつ、いろいろな芸を始めた。



あるひとは、宙返りや倒立といった体操を見せ、またあるひとは、簡単な手品をやってみせた。三田村が、何を考えたのかはわからないが、ズボンを脱ごうとして仁さんに殴られていた。



裏方である洋平と藤沢は、少しはなれた所からその様子をながめていた。



「みんな、ようやりますね」



洋平が感心してつぶやいた。藤沢は、側にある自動販売機で買った缶ジュースを飲みながら言った。



「前回の特別練習よりはまともやからね」



「え?前にもこんな練習があったんですか?」



「仁さんはね、時々今日みたいに、特別練習をいきなり考えだして、みんなにそれをやらせるんよ」



「その前回の特別練習っていうのは、どんなんだったんですか?」



「それがね」藤沢は小さく笑った。「ナンパ」



「はあ?」洋平は眉をひそめた。「なんですかそれ?演劇とぜんぜん関係ないやないですか」



「やっぱりそう思う?」




「そう思うって、当たり前ですよ。ナンパして演技がうまくなるわけないじゃないですか」




「でもね、勇気をだしてナンパをすれば、度胸がついて、舞台の上で緊張することが少なくなるし、何の前準備もなしに異性を口説ければ、アドリブがきくようになって、演技の役に立つんよ」




「じゃあ、部員のみんなは、その、ナンパを?」




「うん。深夜までかかったけど、なんとか全員やりとげたわ。人間やればできるもんやね」



信じられない話だ。それじゃあ、ミツキもナンパをしというのか。なんだか複雑な気分だ。



「辞退したひとはいなかったんですか?」



「うん」藤沢は缶ジュースを飲みほした。「みんな、仁さんのことを信頼しとるけん」



日がだいぶ沈み、あたりが薄暗くなってきた。



いくつかの店が、シャッターを閉めはじめている。



見物人の数がだんだんと少なくなってきた。



部員達のほとんどは、まわりのひと達をなんとか楽しませることができたので、すでに帰宅していた。

残りの部員達はあせりながらいろんな芸をくりかえしたが、どれもあまりおもしろくなく、まわりのおばさん達はしらけはじめていた。



藤沢があくびをもらしながら言った。



「麻見君は役者じゃないんやけん、もう帰ってもええんよ」



「はい、でも、もう少しだけ見ときます。藤沢先輩こそ、帰らんのですか?」



「わたしは副部長やけん、最後まで見届けとかんとね」



そのとき仁さんの気合いの入った声が聞こえてきた。



「よっしゃ、そろそろおれも何かやろか」



部員達がどよめいた。藤沢が、待ってましたと言わんばかりに目を輝かせる。

仁さんは前に出ると、アスファルト道路の上に正座をした。

そして、周囲にむかって、ゆっくりと一礼すると、いきなり笑顔で叫んだ。



「どうもこんばんわっす。わたくし、高橋仁と申します」



その声は、商店街の端から端までひびきわたった。



そんなとんでもない声量で、仁さんは古典落語をやりはじめた。



仁さんの落語はすごくおもしろかった。



さっきまでのしらけた空気がすぐに吹っ飛んで、まわりのおばさん達、部員達の笑い声が何度もはじけた。洋平も、座りこみ腹をおさえながら涙が出るくらいに笑った。

華というのだろうか。どうしても目が行ってしまうような魅力が、仁さんには備わっていた。




落語が終わると、割れんばかりの拍手が鳴りひびいた。いつのまにか、まわりの人垣が大きくなっていた。近くの住人が、外に出て集まっていたのだ。

仁さんは人垣にむかって、ていねいにおじぎをしてから、部員達に言った。



「これくらいひとが集まれば、まだ続けられるやろ。おまえら、がんばれよ」



部員達はそろって嫌そうな声をあげたが、その表情は少しも嫌そうではなかった。



「やっぱすごいわ、あのひとは」



藤沢がそうつぶやくのを聞いた途端、洋平の胸中にまた例の不安がよみがえってきた。



ミツキは、こんな仁さんに惚れているのではないか。



もしそうだとしたら、自分なんかではとてもかないそうにない。

そう考えると、さっき仁さんの落語に大笑いしてしまったことが、急にくやしくなってきた。あの落語を楽しんだことで、なんだか仁さんに負けてしまったような気がしてきた。




「藤沢先輩、おれ、そろそろ帰ります」



「あら、そう?」藤沢は、ふりむいて微笑んだ。「じゃあ、お疲れ様。また明日ね」



「はい、お疲れ様でした」



洋平は、商店街の出口へ向かって、乱暴な足取りで歩きだした。仁さんへの拍手は、まだやんでいなかった。いまの洋平にとって、それはひどく耳触りな騒音だった。










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