そして恋は終わる
「いやーもう、さっきのは笑ったわー」
「俺が食らってたら、マジで泣きっ面に蜂を体現する羽目になってたけどね」
「それを期待してたのに」
「奈津が邪悪な顔してたからね」
「ひどいなー、樹」
悠人は手を洗いに行っていていない。
ひどいのは奈津だろ、と返そうと彼女を見て、――息をのんだ。
「……なんだよ、奈津、真剣な顔して」
「ん? 最近、樹、元気なかったからさ、よかったなあと思って」
「……心配させた?」
「あったりまえでしょ?」
ぱっと伸びてきた手にデコピンされた。割と痛くて、樹は顔をしかめた。
「私と悠人が付き合うことになったって、私たちは親友なんだよ? 悩みがあるんなら言ってよね」
「そう、だな」
「いやならいいんだけど」
「ん……まあ、そのうち」
「そ? でも今日、楽しかったね」
「ほんとにな」
樹はひどいいたずらを仕掛けてきた奈津へ、若干の嫌味を込めてそういったのだが、まったく気が付いていないようだ。
「悠人とデートするのはもちろん楽しいんだけどさ、樹がいると、やっぱり違うよね……そだ、今度はさ、グループデートとか、したいな」
「……は?」
「樹が彼女作ったらさ、きっと楽しいだろうなー! ね、ね、好きな子とか、いないの」
「…………お前が、それを聞くのかよ……?」
声が、掠れた。気持ちが、心底冷えた。樹はもう、半泣きだ。
所詮、親友なのだと、思い知らされた。親友としてしか、大事には思ってもらえないのだと。
――親友以上には、なれない。
そうわかった途端、きりきりっと胸に刺すような痛みが走り、樹は涙をこぼしていた。泣くつもりなんて、なかったのに。せめて今日は、妬むのもひがむのもやめにしようと思っていたのに。
「こういうのは、家に帰ってからって、思ってたんだけどな……」
意地で涙は止めた。これだけは、だれにも見せたくなかった。
「樹……?」
「あー、何でも、ないから」
「で、でもっ」
「……奈津には、言えない」
樹は、自分の精一杯で笑いかけた。声は揺れて、顔だって歪んでいただろう。それでも、いい。樹が笑おうとしたことだけ、奈津がわかってくれれば。
困ったような、つらそうな顔の奈津が、まだ何か言いたげに口を開きかけ――
「奈津ー、樹ー、遅くなってごめんなー」
その前に、のんきな悠人の声が追いついた。
「おっせえよー」
樹も、普段を装って、悠人に返事をする。
「わりーわりー、ちょっと道に迷ってさあ」
まいったよ、と頭をかく悠人は、何にも気が付かなかったようだ。いつもなら呆れてしまう悠人の鈍感さに、今は助けられる。
「ちょい、ちょい、悠人」
ダメ押しで悠人を手招いて、こそこそと男と男の内緒話。
「どうかしたん?」
「声がでけえっつーの。……もう、夕方だろ?」
「そだな、暗くなってきたし」
「お前ら、付き合ってんだよな?」
「何当たり前のこと言ってんだよ?」
「遊園地。夕方。恋人同士ですることっつったら?」
「……はっ、観覧車!」
樹はつい声を高くした悠人の口を押え、言葉をつづけた。
「だから、俺はちょっと置いといて、最後くらい二人で仲良くやったらどうだ、ってなふうに、俺は思うわけなんだが」
「さすが樹! んじゃちょっくら誘ってくる!」
「うまくやれよー」
すぐに奈津のところへ走って行った悠人が、何やら話しているのが樹にも聞こえた。すぐに話は通ったようで、悠人がこちらを向いて、こぶしを突き上げた。そしてそのまま、樹がそれにこたえる間ももどかしいというように、奈津を引っ張って駆け出した。奈津はまだ樹を気にしているふうだったが、手を振ってやるとあきらめたようだった。
樹も、ゆっくりと歩いてその後を追った。この遊園地の観覧車は、一周20分。波立った気持ちを落ち着けるのには、十分な時間。
「あーあ、バカみてえ」
そばのベンチにすわって、心に浮かんだのはその一言。
嫌だと思いながらもやってきて、胸の痛みを見ないふりして。不意打ちを食らって、泣いた挙句に、わざわざ焚き付けて二人にさせて。
「あー、もう、やだなあ……」
声を殺して、少し、泣いた。周りの目は、気にならなかった。20分が、過ぎてしまう前に、全部全部、すっきりさせなければいけない。
「っ、は……」
それに水を差したのは、携帯の着信音だ。放っておこうと思ったのに、あまりにずっと鳴っているので、仕方なしに電話をとった。
「あっ、樹ー!?」
出た? 出た出た、と、二人の声が向こうに聞こえる。追い打ちかけんなよ、と心が荒みそうになるが、続いた言葉に泣かされた。
「こっちね、もうすぐ頂上なんだ、せっかくだから、樹も一緒にどうぞっ」
奈津の声は、電話越しのせいか、少し遠い。それでも、それが弾んでいることはよくわかる。それでも、奈津の声を耳のもとに感じることは、いやではなかった。二人が小さな観覧車の中で、仲良くくっついているのを、想像することも。
「何だよ、二人でいちゃいちゃしてろって、せっかく俺が気を使ってやったのに」
そういう樹の声はひどく穏やかなものだった。なんの偽りもなく、今は、二人を祝福できた。
「いいんだよ、そういうのは、後でするから」
「するのかよ……」
もう頂上かな? んー、あとちょっと? と、二人の話す声が、再び聞こえた。
樹は、奈津のどこを好きになったのかを、思い出した。だからもう、醜い気持ちは、捨てられる。
奈津の、悠人を見つめる瞳が好きだった。照れて赤くなるほっぺたも。不安に曇った表情も、緊張に震える指先も。
樹が好きになった奈津は、悠人に恋をしていた。
だけど、樹が好きになったのは、悠人に恋をしている奈津だ。奈津が、悠人に恋をしていたから、好きだったのだ。
もう思い出すことも少なくなった、好きだった女の子は、誰かへの想いでキラキラとして、綺麗で――。
今、悠人の隣にいる奈津は、きっと、堪らなく可愛くて、綺麗なのに違いない。そのことが、わかったから。
だから、多分、今なら。
「樹、樹、今ね、ちょうど――」
「――奈津が、好きだ」
可愛い可愛い奈津の声を遮って、つげた。告げてしまった。多分、悠人にも、聞こえた。
「好きだよ・・・・・好きだ。奈津が好きだ。ずっとずっと、好きだった。今まで好きになった誰より、奈津が好きだ。でも、二人が好き同士であることは、誰より、祝福してる。すごく、うれしいと思ってる。……本当に」
だから、と、一呼吸置いた。電話の向こうは、耳が痛くなるくらい静かだった。
「だから、できればずっと――仲の良い、恋人同士であってくれ。こんなことを言って、矛盾してるのはわかってる。……だけど、」
「わかるよ…………私たちは、樹の、親友だから」
はたから見たらこんなの、筋が通ってないように見えるんだろうな、と樹はふと思った。だけど、と打ち消す。自分たちは、これでいいのだ。これが、十分なのだ。
「――ごめんね」
「……謝ることなんか、何にも」
「ううん、ごめん。……私も、樹が、好き。好きだよ」
ほら悠人も、と、電話の相手が変わる気配。
「悠人」
「……俺も、ちゃんと、樹が好きだ。だから、許す。し、できれば、許してほしい」
「当たり前、だろ。……泣くなよ、観覧車、降りるときまで泣いてたら、振られたみたいだぞ」
「誰が、泣くかっ!」
聞こえる悠人の声はもう鼻声で、つい、表情まで想像できて、笑えた。はは、と声をもらしたら、うるせー、と返ってきた。
「悪いけど、今日は、先、帰るな」
奈津に、よろしく言っといて。向こうからは、何も聞こえなかったから、樹はそっと、通話を切った。
明日はきっと、笑って声を、かけられるだろう。




