010-2
胴体と思われる丸い部分の下には、ペン先のような太い針が付いていた。
見た目は植物のようにも見えるが、少なくとも真那はこんな奇妙な物体は見た事が無かった。
空中ではほぼ静止していた謎の物体だったが、突然真那の方に急降下してきた。
反射的に真那は車椅子のタイヤに手をかけ、後退しようとする。
すると、膝の上に置いてあったクラゲのぬいぐるみが屋上のコンクリート床に転げ落ちた。
勢いがついて、ぬいぐるみはころころと車椅子から離れる。
謎の物体は、真那が落としたぬいぐるみにふわりと舞い降りたかと思うと、クラゲの笠の部分の下に太い針を突き刺した。
次の瞬間、劇的な変化が起こった。
クラゲのぬいぐるみに何本も生えている足、触手の部分が全部一斉にザワザワと動き出した。
それと同時に、アクリル製の布でできた笠の部分が半透明になり、濡れたような質感に代わる。
触手のうち二本の先が五本ずつに枝分かれする。腕になっているのだ。
もう二本もひときわ太く長く伸びる。たちまち足になった。
「―――――――ッ!!!」
真那が悲鳴を上げる間もなく、クラゲのぬいぐるみだった何かはみるみる膨れ上がっていく。
体の上半分は直径1,5m程もある巨大で透明な傘に。下半分は筋骨隆々とした人に酷似した姿に変貌を遂げた。
体の表面はてらてらと青白く光り、磯とヘドロが入り混じったような生臭い臭いがあたりに広がる。
唐突に真那はこの病院に入ることになった原因、思い出したくもない事故に会った瞬間を思い出した。
今、目の前で起こっている信じられない光景と二週間前に軽自動車が自分に突っ込んできたのが二重映しのように真那には感じられた。
口の中が乾いて苦い味が広がる。
恐怖と絶望で目に涙が滲み、心臓を直接汚い手でつかまれたような感覚に襲われた。
異形の怪物は、何かを目視で確認するかのように上体を左右に振り、全身に力を込めだす。
そうしてどこかに口に似た器官でもあるのか、上体を震わせながら大きく咆哮の声を上げた。屋上の鉄柵がビリビリと震える。
真那は、逃げたくても腕に力が入らずにいた。のどの奥から小さく息が洩れる。
次の瞬間、不意に大きな衝撃音がして、真那の目の前にいる異形の身体が大きく傾いた。
何かがものすごい勢いで異形に激突したのだ。
真那は反射的に頭を抱える。
辺りの異臭をかき消すように、オレンジのような甘い香りが広がった。
異形は唸り声を上げ、何かが飛んできた方向へ向き直る。
その方向から、場違いともいえる明るい声が飛んできた。
「今日二連戦? ダブルヘッダーってツイてないっちゃ」
真那が声のする方を向くと誰かが鉄柵の上に立っていた。恐怖に怯える中、かろうじて残されていた理性が疑問を抱く。
――なんで屋上に人がいるの? 屋上から下に通じるドアは一か所だけだったはず。
その疑問が解消される間もなく、鉄柵に載っていた人影はふわりと飛び上がり音もなく着地する。
そのまま真那の方へ駆け寄ると異形の怪物から真那をかばうように間に割って入った。そのまま手に持った剣を怪物に向け一声叫ぶ。
「トリッキー・トリート、ラ・フランス・グミ・ショット!」
その瞬間、閃光と共に派手な音が響いた。
青白い巨体が大きく傾ぐ。今度は洋ナシのような甘い香りが辺り一面に広がった。
「大丈夫?」
少女は真那にやさしく声をかけてきた。
――誰? 助けに来てくれたの?
真那を助けてくれたのは、真那とさして年齢の違わない、小柄な少女だった。
顔の造作は、大きなゴーグルを着けているため目元はわからない。
が、やや上向いた鼻、引き結んだ唇、丸顔でとがった顎はこの緊迫した状況の中でも可愛らしい印象を受ける。
それ以上に、彼女の服装や持っている物が真那の目を引いた。
ツインテールにした髪の結び目に留めてあるのか、大きなネコ耳がちょこんと乗っている。
背中には、頭と同じようにネコ耳のついた大きな白いフードが下がっていて、中に人形が一体入っている。
腰周りには、ギンガムチェックのミニスカートの上に黒のレザーの覆いが付けられていた。
足元は小柄な少女には不釣り合いな、巨大なバスケットシューズを履いている。
半袖の上着から伸びる細い腕の先は、黒い指無しグローブをはめていた。
そして少女が持っている奇妙な武器。
刀身が細い剣は拳の上、鍔にあたる部分がミシンの形をしていた。
困惑したままの真那に対して、得意な格好をした少女は重ねて声をかける。
「目の前のアレ、元はあんたのぬいぐるみじゃろ? 今元に戻すけん、ちょっと待っちょって」
やり慣れた雑用を片付けるように、真那に対して告げる。
すぐさま怪物に向き直ると、なぜかフードに入った人形に話しかける。
「アレ、見た感じクラゲみたいじゃけどなんか弱点ある?」
「はい、『ジェリーフィッシュマン』は体表が濡れているためスロウショットなどの縫いつける攻撃は効果が薄いです」
――え!? なにあの人形。あの人と話してるけど、生きてるの?
「身体も柔らかいため、グミショットの攻撃も威力が半減されます。
ですが、体勢を崩す分には有効ですので回避技と併用するのが効果的です」
「わかった」
言うが早いか、少女は怪物めがけて走り出した。
相手の正面で斬りつける。
と見せかけて、踊るように軽快なステップで相手の側面、背後に回り込んだ。
脚めがけて細身の剣で何度も斬りつける。
それを嫌がるように、クラゲの上体を持つ怪物は両腕を力任せに左右に振るう。
だが、少女は意にも介さず後方に跳んでかわし、相手の腕に斬撃を見舞う。
戦いの主導権は完全に少女が握っていた。
すぐに、脚へのダメージが蓄積したのか怪物は片膝をつき動きを止めた。
少女はその機を逃さず、クラゲの笠部分を踏み台にして相手の真上に躍り出る。
落下の勢いを利用し、剣を両手で持ち唐竹割りに振り下ろし一気に切り裂く。
斬った部分からは、淡いオレンジ色の光の粒が舞い上がる。
ネコ耳を着けた少女は、返す刀で怪物の背中に剣を突き立てた。
閃光を解き放ち、仮初めの異形の姿は急激に縮み、元のクラゲのぬいぐるみに戻った。
「ふぅ」
と小さく息を洩らし、少女はコンクリートに転がった真那のぬいぐるみを手に取った。
何かを確認するように、手首を回しぬいぐるみを見ている。
「ありゃ、やっぱり切れとる。今治すから待っちょって」
少女が右手に持っている剣の先には、真那が絵本を読んでいた時現れた謎の物体が刺さっていた。
今は茶色く変色して干からびている。
「チーフ」
少女は、フードに入っている人形に短く声をかけた。
「はい」
少女の指示の意図をくみ取った人形は、彼の手のサイズに合う携帯電話を操作する。
次の瞬間、剣に刺さった物体は縦のマトリクスに分解されるように消えた。
少女は続けて、真那のぬいぐるみを持った左手をいっぱいに伸ばした。
右肘を曲げて剣を構え、剣先をぬいぐるみに向けた。
剣の鍔の背にあるスイッチを親指で押すと、剣先が光り、剣全体がミシンのような駆動音を立てる。
あちこち破けていたクラゲのぬいぐるみは一瞬で元の状態に戻った。少女は車椅子に座っている真那に近づく。
「はい、返すね」
と、少女は真那にクラゲのぬいぐるみを手渡す。
それに対して真那は小さく会釈で返す。危機が去っても真那の身体は小さく縮こまって震えたままだ。
「大丈夫? どこかケガしとらん?」
相変わらずの気さくな口調で、少女は真那に話しかけてくる。すぐに目線を下に下げ真那に尋ねる。
「ギブスしてるっちゅう事は骨折じゃろ? あとどれくらい入院すると?」
「……あと、二週間くらい、です」
少女の問いに、真那は控え目に返事をする。
「んじゃ、ちょっと早く退院しよるけどいい? ケガなら治せるけ」
――ケガを治す? 私の足を? どうやって?
訳も分からず真那が戸惑っていると、少女は剣を両手で持ち柄の端を眉間に当てるように構え、何事か念じだす。
「待ってください」
チーフと呼ばれた人形は、少女を制止する。
「ヴァイスフィギュアに攻撃されてケガをしたならまだしも、一般の方を無条件に治癒するのは控えた方がいいです。
自分自身の回復よりも、消耗の度合いがまるで違います」
「えー、いいじゃろ。あのーあれじゃよ
『そで、そですりあうも―――』」
「『袖振り合うも多生の縁』ですか」
人形は生真面目に、少女の言葉を訂正する。
「そう、それ。そうとも言う。……どーしてもダメ?」
「……解りました。では見なかった事にします」
人形はあっさり引き下がった。
「うんうん、話速いね」と少女は人形に微笑む。
「あー、あの『いたいのいたいのとんでけー』みたいなもんじゃけ、すぐ済むけん」
少女は真那にそう言うと、改めて剣を構えて念じだす。
程なく剣の刃が明るい黄緑色に輝く。
その光を見ていると、真那は今日初めて渡された絵本を読んでいるのと同じ気持ちになった。
――なんだろうあの光、見てるとすごくほっとする。
少女が、剣の刃を真那のギブスで固められた左脚にそっとかざす。
と、触れられた部分から熱を持ったように温かくなる。
ほどなくギブス全体が緑色の光に包まれた。
「よし、これでいいじゃろ。脚まだ痛む?」
――え? うそ、全然痛くない!
今までは、力の入れ加減次第では痛みが走っていたが、今は痛みらしい痛みもなく嘘のように足が軽くなっていた。
「おそらく完治しているはずですが、念のためご家族や担当の医師の方と相談の上、レントゲンで脚の状態を確認してください」
フードに入った人形は、しかつめらしく真那に話す。
一方の少女は、両膝に両手をついて大きく息を吐いた。少し顔色が悪い。
「今日見た事とか、なるたけ人に言わんとって。
そのーー、脚治したんは口止め料替わりって事でひとつ」
と、少女は左手を顔の前で縦に出して真那に提案する。
「買収とはあまり感心しませんね」
ミニチュアダックスの顔を持つ人形は、ネコ耳を着けた少女を諌めるように言う。
「買収じゃないです。お、ね、が、いーーーー!」
と、少女は下唇を突き出して反論する。そのやり取りが面白くて真那は少し笑ってしまった。
それを見た少女は、真那の膝に置いてある絵本に目をやる。
「あーその絵本、……私も買ったんだけどまだ読んでなかった。どう? 面白い?」
「……あっはい、すごいいい絵本でした」
「ふーん、んじゃ帰って読も」
その時階下に通じるドアから、何人かが騒がしく話をするのが聞こえてきた。
少女は声のする方を向く。
「あー、誰か来よったけん。人にあれこれ聞かれるとめんどうじゃけ、もう帰るね」
「それでは失礼します。身体を冷やしますから、そろそろ下に戻られた方がいいですよ」
少女と人形は、それぞれ真那に別れを告げると、鉄柵に向かって走り出す。
そして現れた時のように鉄柵の上に乗り、真那に向かって大きく手を振る。
真那もそれに応え小さく手を振ると、それを見た少女は鉄柵の向こうに跳んで消えた。
真那は小さく驚いたがすぐ納得する。
――あんな怪物でもやっつけられるんだから、屋上から降りるなんて簡単なんだ。
すぐに若い看護師二人がドアを開け、大声で話しながら屋上へやってきた。真那を見つけ駆け寄ってくる。
「屋上から何か物音がするって、近隣の人から電話連絡があって見に来たんだけど。平田さん、あなた何か見なかった?」
二人のうちの一人は、毎日の回診でよく会う看護師だったが、今あったことをそのまま話すわけにもいかない。
「私も今ここに来たばっかりですけど、何かあったんですか?」
「うん、下を通りかかった人から、屋上で動物が吼えるような声とか、光の柱とか音が鳴ってたって連絡があったのよ。ほんとに何も見てないの?」
「そうですね、はい、来た時は何もなかったです」
「それならいいけど。もう冷えて来るから、早いうちに病室に戻りなさい」
「はい、わかりました」
看護師たちは、少し屋上を見渡して異常がない事を確認すると、真那の言葉を特に疑いもせずにまた院内に戻った。
真那は、すっかり涼しくなった屋上の風を顔に受け、ゆっくりと目を閉じた。
今日読んだ絵本の内容、起こった出来事が頭の中でめまぐるしく再生される。
いろんなことが起こったが体の痛み、心の傷は消え胸の中に暖かいものが残った。
――そうだ、手紙を書こう。
一通はこの絵本くれたあの子に。もう一通は今さっき私のこと助けてくれたひとに。
一通は渡してもう一通は大事にとっておこう。
絵本の上に乗ったクラゲのぬいぐるみに目をやると、両端の触手をゆらゆらと揺らしてみせる。
――退院したらまた家族全員でクラゲを見に行こう。その時はこの子も連れてこう。
夕日は沈み暗闇の中、星のまたたきのように街路灯や車のライトが浮かび上がる。
真那は、今日で最後になるであろう車椅子のタイヤの外側、ハンドリムに手をかけ自分の病室に戻った。