新しいことが始まる…
昨日の辞めたい宣言から約一日が過ぎ、結局辞めることができず俺は今日も掃除、洗濯じゃなくて、掃除、書類整理、マッサージと木島先生にこき使われていた。
昨日先生は最後、『色々なことをやらせてあげる』と言っていて、それには正直少し期待していた。
俺は一分でも早くこんな所辞めたいが、それが出来ないのならこんな流れ作業みたいな毎日同じことの繰り返しは退屈すぎて嫌になる。
だから俺は何をやらせて貰えるのか期待していた。が…
自分の思っているようにいかないのが人生のようで、昨日の事はすっかり忘れて木島先生はいつものように仕事に勤しんでいた。
自分から昨日のことを話題に出してもよかったのだが、木島先生がああいった以上不用意にこっちから聞くと、調子に乗ってしまうので聞くに聞けないでいた。
裏切られたような気分で憂鬱になる。
そういえばそもそも期待は裏切られるためにあるのだった。期待すれば裏切られる。世の中の当たり前の摂理じゃないか。
今までだってそうだった。クリスマスだって誕生日だってこんなイベントの日くらい何かあるだろうって期待して裏切られてきた。
期待した分だけその反動は自分の心に返って重くのしかかる。
だから俺はもう期待しない。
どんどん脳内がマイナス思考にないり、自然とため息が出る。
「なーに、どうしたの。ため息なんかついちゃって…」
書類整理をしている俺の方に振り向いて話してくる。
「先生、何で俺、昨日としてること同じなんですか。なんか新しい事やらしてくれるっていてたじゃないですか…」
「あー…ああ、そのことね」
と思い出したように言う。
忘れてたな…
「それには、少し準備がいるの。明日まで待って」
両手を合わせて懇願される。
頼むからそういう仕草やめてください。恐いだけなんですよ。
と言えない俺は心の中で訴えることしか出来ないでいた。
…ヘタレ
いや、これはヘタレ以前の問題ですよ!
「取り敢えず、今日は帰っていいわよ。あとは私がやっとくから」
え、ホントに!ってコレあんたの仕事だから。
そんな事よりも今日は何、記念日?
いつもは時間一杯かそれ以上働かせるのに、今日に限って三十分も早く終わるなんて。
「ほんとに帰っていいんですか」
念のためもう一度聞くと、
「何度も言わせるんじゃないわよ」
と言うと追い払うように手を振る。
「その代り明日もちゃんと来るのよ」
軽く返事をすると、すたこらさっさと部屋を出る。
何か裏がありそうで怖いが、早く帰れる事にこしたことはない。
帰ったら何しようかな。溜まってたアニメでも見ようかな。
やりたいことが悶々と頭に浮かぶ。
帰り道俺は久しぶりの解放感と心の余裕にスキップしながら帰った。
そして次の日、約束どうり進路に向かう。俺は約束は守る男だからね。
少し緊張した面持ちでドアの戸に手をかける。
「おめでとう、陽斗君は承認されました」
……?
しばしの沈黙が流れ、呆然と立ち尽くす。
そういって出迎えられた教室はいつも以上に謎で意味不明な光景が広がっていた。
「あの先生、これはどうゆう事なんですか?」
そのセリフも待ってましたと言わんばかりに不敵に笑う。
怖い、怖い。
それに何だ、天井に吊り下げられたデカいくす玉は。
意味が分からず凝視すると、先生に引いて引いてと合図される。
「引いたら割れずに落ちてくるみたいな子供の悪戯じゃないでしょうね」
と言いながら渋々垂れた紐に手を伸ばし、おもいっきり引いた。
「わっ!」
案外すんなり割れたことに驚きしりもちをつく。
玉の中からは色とりどりの紙吹雪とともに垂れ幕が垂れた。
「ん? 教師補佐係承認?」
何のこっちゃ。未だに理解できん。
「おめでとー。今日から君は教師補佐係に就任しました」
パチパチと拍手してくれているが全然嬉しくない。
また厄介なことを押し付けられたような気がしたからだ。
「えーっと、あの教師補佐って何ですか?
「それは担当の先生の手足となって先生方がしっかり業務に励めるようにサポートする係よ」
「……」
「どうしたの、嬉しくないの?」
「嬉しいわけあるか―」
盛大に廊下に響き渡るような声で叫んでしまった。
「こんなの前と変わらないじゃないですか」
やっぱり思っていた通りというか、思っていた以上に面倒事を押し付けられていた。
つまり、これは先生たちのお守役という事らしい。
その内容が内容なだけに、俺は肩を落とし視線を床に向けていた。
「まあそう言わないで。教師補佐になっただけでも前とは大分違うのよ」
「へ? 何が違うんですか」
泣きそうな気持ちを押し殺し話に耳を傾ける。
「私の所に所にくる依頼、仕事は君も出来るようになり、私の命令には絶対!」
……最悪だ。いや災厄だー。そして王様ゲームかよ。
ああ、もうホントに泣きそう。
「あともう一つ。この契約には期間があるんだけど…」
え、期間なんてあるの。なら早くこんな理不尽な契約切りたい。
俺はその切実な思いを胸に息を呑む。
「その期間は……」
「その期間は……」
その時勢いよくドアが開いた。
「きーじーまー」
「あら涼ちゃんじゃない、どうしたの」
ドアをぶち破るようにして入ってきたのは俺の担任の安海涼加だった。
「貴様ー、私の生徒をよくも手駒にしてくれたな」
……先生、俺のことをそんなに思っていてくれたんですね。
あれ、涙が…おかしいな。
「そいつは私の手駒なんだよ」
……さーて、帰ろっかなー。
聞かなかったことをして背伸びする。
「なーに? 涼ちゃんが自由に使っていいっていたんじゃない」
「言ったが、てめえの補佐にしていいなんて言った覚えはねえ」
「いいわ。これがある限り、この子は私のものよ」
そういって机の上に叩き出した一枚の紙。
そこには昨日の日付と俺の名前と木島先生の名前そして校長の印鑑が押してある。
へー。これが契約書みたいなものか。
「ってコレ俺の同意が全くないんですけど…」
「残念だったな、木島」
…完全にスル―された。俺の存在どんだけ薄いんだよ。
そんな完全無視された俺をよそに安海先生はフッと笑い、こちらも机に紙をたたきつける。
「いや、だから何で俺の同意が無いの? ないのが当たり前なの?」
めげずに再びチャレンジするも再び撃沈。
なに? 俺なんかした? なんか悪い事したの。ってかコレ俺をかけた話だよね。さっきから扱いが雑すぎるんだけど…
と俺の心の訴えなど届くはずもなく話は進む。
「紙はさっきと変わらないような気がするんですけど…あ、日付が7月3日になってる」
7月3日といえば俺が奴隷宣告された日だ。
そうかこの日から俺は先生の補佐だったのか。って全然嬉しくねぇ。
そしてこの紙を見た木島先生はといえば驚愕をあらわにし、落胆する。
安海先生といえば腰に手を当て得意げに仁王立ちして立っていた。
「あーあ、涼ちゃんのお手つきだったの。だから昨日校長の所に申請しに行ったら渋ってたのね」
渋々だが納得の表情を浮かべている。いや、納得せざる得ないのかも知れない。
それだけあの紙切れの効力は大きいらしい。
これで俺は解放される。やっと…やっとこの地獄から…
と、安堵の表情を浮かべていると安海先生が釘を刺すように言う。
「勘違いしてもらっては困るが君は自由になったわけじゃない。もともと君は私の補佐なんだ。だから、これからは私に尽くしてもらう事になる。その辺忘れないように…」
「…はい」
……もう期待なんてしない!!
「私はもう帰るが君の一緒にどうかね。藤間」
一緒に帰るなんてごめんだったが早くここを出たかった気持ちの方が強かった俺は安海先生のセリフに頷く。
「では、失礼しまーす」
進路を後にすると妙に背後から感じるプレッシャーに振り向くと鬼の形相で木島先生がこっちを見ていた。
「……」
……見なかったことにしよう。
夕日が沈み、薄暗くなり始めた校内を先生と二人で歩く。
これが好きな女子とだったなどれだけ良かったことか……
小さくため息が漏れる。
「何だ、私が隣じゃ不満か?」
俺の心中を読み取ったかのような質問に体が一瞬跳ね上がる。
「そんな事ないですよ。木島先生より断然マシです」
「……私をあの男と比べるな…」
と呆れたように軽く、しかし力の篭った言葉が帰って来る。
木島先生と比べられたのがそんなに不満だったのだろうか……
「でも、あれはあれで悪い奴じゃないんだ。だからそんなに嫌ってやるな。性格が少しアレなだけだから……」
確かに。あの人もあんな性格じゃなければいい人のような気がする。名前が善人でいい人だし。
でもあくまで気がするだけですよ!
「それにしても今日は色々と悪かったな。君に色々と迷惑をかけたようで…」
……え?
「先生今、なんと言ったんですか?」
「聞き逃したのか、もう一回言うから聞き逃すなよ。『今日は君に色々と迷惑をかけたようですまなかった』といったんだ」
二回言わされたことに不満げに先生はこっちを見る。
しかし、重要なのはそこじゃなく、先生が言ったセリフだった。
そのセリフに俺は顔をしかめ、驚嘆した。
「何だその顔は。怖いものでも見たような顔をして…」
「だって先生といえば横暴で不遜で暴力的なものの象徴でしょ。そんな先生に急に優しくされるなんかと気持ち悪いし、裏がありそうで怖いんですよ」
はっと我に返ると眉を引きつった先生からは刺さるような視線と殺気が注がれている。
「一体君は私にどんな偏見を持っているんだ……」
ついつい本音が……こればっかりはどうしようもないよ先生。
人の本能的衝動には勝てなかった俺は先生からの一発の腹パン、もとい死を覚悟していたが、結果は予想外だった。
軽く息を吸うと先生は優しげな瞳で、いつでも殴られていいように身構えている俺の頭を軽く撫でた。
意外な行動にしばらく呆気にとられたが、
「教師は生徒に優しくするもんだ」
そういって先生は一歩先に踏み出した。
そのセリフには何の根拠もない位空虚で曖昧なものだったけど、根拠なんて要らないくらい重みがあって信頼できる言葉だった。
その後二人の間には会話はない。
夕闇の中、長く伸びた影と同じリズムで刻む足音だけが淡々と鳴り響いていた。
「じゃあな、藤間。私はこれで失礼するよ」
そう言うと昇降口手前の階段で先生は別の道に入っていった。
俺は軽く一礼すると、昇降口を出て校門に向かう。
校内を出ると、夏も間近で生暖かい風が俺の首回りをすり抜ける。また蒸し暑い夏が来るのだろうと俺は来る夏を実感しながらも、今年も何事もなく、何をすることもなく過ぎ去るのだろうと思う。
でも今は、今の俺の学校生活は以前とは明らか違ってきていることを感じていた。
なんてことを思いながら俺は視線を校舎に向ける。
それが良いか悪いかはおいて置くとして…