遅れる小屋
自宅から程近い場所。そこに猫の額ほどもない土地を更に持て余した、小さな小さな小屋が立っている。
人が最低限生活できそうな大きさである。築数十年は経っていると見られるが、この小屋にはれっきとした住人が存在する。
一人の老人と、一匹の猫である。
その老人はいかにも老紳士といった風情で、日々を電車の時刻表と張り合わんばかりに規則正しく生きている。その証左として、私が出勤する午前八時ごろに必ず小屋の前で猫と共に日を浴びていた。
私は休日に、その老人と度々話をする。それは時に時勢の話、時に他愛のない日常の話。井戸端会議といっても問題ないだろう。毎度こじんまりとしたテーブルを小屋から引っ張り出してきては、老人は自慢のコーヒーを私に振舞ってくれる。味はなかなかのものだ。
その会話の中身をひとつ、直近のものを抜き出そう。
「近頃どうにも、大陸のほうが怪しいですね」
コーヒーをすすりながら、ぽつりと私が漏らした。
「そうですな。半島の将軍の件が関係しているのかもしれません」
「こちらに火の粉が飛ばなければ、それに越したことはありませんね」
私の台詞に、老人は膝で眠る猫をゆっくりと撫でつつ。
「ええ、本当に」
深く頷いた。
このように、特に深く考えることもなく、ただ思いついた事柄についてつらつらと言葉を交わすのみだ。得るものは少ないだろうが、少なくとも失うものはなかろうと思っている。
そうしているうち冬になり、私達の談話の舞台は小屋の中へと移された。特に私から入れてくれとは言わなかったが、寒さの厳しくなってきた頃には自然とそうなっていた。
意外と不自由しなさそうな小屋の中で談話を重ねるうち、私はいくつかの違和感を覚えるようになった。
窓の外の景色である。
何の変哲もない、小さな一つきりの窓だ。何故かはめ殺しになっている窓であるが、換気に関しては扉を開ければ事足りるし、そう困ったことはないとは老人の談だ。
しかし何か、おかしい。
その正体に気づいたのはそれからすぐのことだ。窓の外に、私の姿が映っていたのだ。
私はあまりに仰天し、口に含んだコーヒーを危うく吹き出しかけた。
常識では判断できるはずもない。今ここに私が存在しているというのに、窓の外には私本人がいるのだ。これが異常ではなければ世の中が消え去ろうともそれは日常と化す。
窓の外の私は扉から出た直後のようで、何やらひどくそわそわしながら小屋から自宅への道を辿って行った。
どういうことかと老人へ問いかけた。まるで理解出来ないのは至極当然であろう。
すると老人は涼しい顔で答えた。
「この窓のせいなのか、それともこの小屋のせいなのかはわかりません。ただ一つわかるのは、この窓から見える景色は五分ほど後の光景だということだけです」
いつからそうなっていたかはわからない、もしかしたら私のような時が止まった老人がいるせいなのかも、と老人は冗談までも飛ばす余裕を持っていた。
年の功なのか、それともただ何かが決定的に鈍いのか。私には判断しかねる。
しかし老人の余裕も、次第に私にも理解できるようになっていた。なにぶん、窓の外が五分後の光景だからといって別段支障はない。慣れればどうということもない光景だった。
おそらく、この小屋の中は五分間だけ過去の世界なのだろう。理由も意味もわからない。そもそもそんなものはないのかもしれない。そう思うようになった。
そして冬が過ぎようとしていたある日、それは唐突に起こった。
いつものように私と老人、そして猫の面子で他愛もない談話をしていた。少し冷めたコーヒーをすすりながら、私はふと窓の外に目をやった。
目を疑った。
思考が凍りついた。
四肢が震えた。
窓の外に見える風景は、そう、まさに“何一つなかった”のだ。
赤茶けた空気が漂い、塵のような何かが風に吹かれ、今まで見慣れた光景がそこには欠片も存在しなかった。
私は言葉を発することも出来ず、ただ老人と窓の外を交互に見ることしかできない。
すると老人は、まるで今日の天気の話でもするように、涼やかに言った。
「きっと、核、でしょう。きなくさかったですからね、隣国が」
しかし私は答えられない。ただその光景に対する驚愕だけが頭を支配している。
続けて老人の言った言葉も、出来れば聞き流したい代物であった。
「この小屋の中は五分間だけ過去にあるはずです。とすれば、あと五分でここもなくなるのでしょう」
考えたくもない。
「さて、いかがお過ごしましょうか」
老人が猫を撫でると、ごろごろとのんきな鳴き声。
それは今から三分ほど前の出来事。残りは二分。
老人は猫と共にうつらうつらとしている。
私はただ、窓の外を眺めるしかない。
了
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