誰も嫁ぎたがらない獣人の国へ厄介払いに出された地味な三女ですが、銀狼の獣王に『生涯ただ一人の番』として見出され、蕩けるほど大切にされています 〜今さら姉が羨んでも、彼が求めるのはわたし一人だけ〜
一
「リーゼ。お前が、獣人の国へ嫁ぎなさい」
父である侯爵にそう告げられたとき、わたしは驚かなかった。ああ、やはりわたしか、と思っただけだった。
侯爵家の三女リーゼ。それがわたしだ。
上の二人の姉は、輝くばかりに美しく、社交界の花だった。それに比べてわたしは地味で、目立たず、いてもいなくても同じと言われて育った。両親の愛情も、屋敷の華やぎも、すべては姉たちのものだった。
このたび、長く反目してきた人と獣人の両国が、和平を結ぶことになった。その証として、人間の貴族の娘が一人、獣人の王へ嫁ぐ。それが条件だった。
けれど相手は、人々が「獣」と蔑み、恐れる、銀狼の獣王。人と獣が交わるなど汚らわしいと、貴族たちは口々に嫌悪を示した。当然、二人の姉は、獣に嫁ぐくらいなら死んだほうがましだと、頑として拒んだ。
そこで、白羽の矢が立ったのがわたしだった。
「地味なお前なら、獣の妻がお似合いよ」
姉のひとりが、扇の陰でくすくすと嗤う。もうひとりの姉も、憐れむような目でわたしを見た。両親も、厄介払いができるとばかりに、ほっとした顔をしていた。
わたしは静かにその宣告を受けた。
不思議と、悲しくはなかった。この家に、わたしの居場所などなかったのだから。どこへ行こうと同じことだ。
ただ一つ、わたしには思うところがあった。
獣人は、本当に、恐れるべき「獣」なのだろうか。
書物で読んだかぎり、彼らは独自の言葉と文化を持ち、掟を重んじ、家族を大切にする民だという。姿かたちが人と違うだけで、心を持つ一つの民ではないのか。
ならば、わたしは偏見の目で彼らを見たりはしない。恐れも侮りもせず、ただ一人の人間として、まっすぐに向き合おう。
そう心に決めて、わたしは北の国へと旅立った。見送る者は、誰もいなかった。
二
獣人の国は、雪をいただいた雄大な山々に抱かれた、美しい土地だった。
出迎えてくれた獣人たちは、皆どこか緊張した面持ちで、けれど礼儀正しくわたしを迎えた。耳や尾を持つ者、鋭い牙を覗かせる者。姿は人と違えど、その瞳には確かな理性と、人と変わらぬ温かさがあった。
やはり、そうだ。彼らは「獣」ではない。
謁見の広間に通されたわたしは、そこで彼を見た。
銀色の髪。狼のそれに似た、鋭くも美しい琥珀の瞳。頭には獣の耳、背後には豊かな銀の尾。見上げるほどの体躯は、まとう空気だけで大地を震わせるようだった。
銀狼の獣王フェンリス。この国のすべてを統べる、絶対の王。
「人間の姫が、よく来た」
低く、地を這うような声。彼はゆっくりと玉座から立ち上がり、わたしのもとへ歩いてきた。周囲の獣人たちが、王の一挙一動を、固唾を呑んで見守っている。
わたしは怯まなかった。まっすぐに背筋を伸ばし、静かに礼をした。
「お招きいただき、感謝いたします、獣王陛下。人間の侯爵家より参りました、リーゼと申します」
フェンリスが、わたしのすぐ前で足を止めた。
そして、次の瞬間。
彼は、雷に打たれたように、その場に立ち尽くした。
琥珀の瞳が、大きく見開かれる。かすかに、彼の鼻が動いた。わたしの匂いを、確かめるように。銀の尾が、ぴたりと止まる。
「……嘘、だろう」
掠れた声が、彼の喉から漏れた。
「何百年、待ったと思っている。もう、現れぬものと、諦めていた……」
「陛下?」
戸惑うわたしを、フェンリスは信じられないものを見るように見つめた。その琥珀の瞳が、揺れている。恐ろしい獣王のはずのその顔に、隠しきれない歓喜と、震えるような感情が滲んでいた。
「番だ」彼は、噛みしめるように言った。「お前は、俺の――生涯ただ一人の、番だ」
広間の獣人たちが、どよめいた。
三
「番、とは……なんでしょうか」
わたしが問うと、フェンリスは、はやる心を抑えるように、ゆっくりと語り始めた。
「我ら銀狼の一族は、生涯にただ一人の伴侶しか持たぬ。魂で結ばれた、運命の相手。それを、番と呼ぶ」
彼の琥珀の瞳が、まっすぐにわたしを射抜く。
「番は、匂いでわかる。数多の民の中から、ただ一人。魂が惹かれ合う、唯一の存在。だが、それは何百年に一度、現れるかどうかという、稀なものだ。この俺も、生涯めぐり会えぬものと、半ば諦めていた」
彼は、そっと、わたしへ手を伸ばした。大きく、鋭い爪を持つその手は、けれど触れるときは、驚くほど優しかった。
「だが、お前が広間に足を踏み入れた瞬間、わかった。この匂い、この魂。間違いない。――お前が、俺の番だ、リーゼ」
わたしは、言葉を失った。
地味だと蔑まれ、いてもいなくても同じと言われ、厄介払いに出された、このわたしが。何百年に一度の、運命の相手だという。この、大地を統べる獣王の、生涯ただ一人の。
「そんな……わたしは、人間で。姿も違えば、こんな地味な女で……」
「姿など、関係ない」フェンリスは、きっぱりと言い切った。「番に、貴賎も、美醜もない。魂が、そう定めている。お前がお前であること。それだけが、すべてだ」
その日から、獣王フェンリスは、変わった。
いや、正しくは――わたしにだけ、別人のように、甘くなった。
「リーゼ。寒くはないか。この国の冬は、人間には厳しかろう」
「リーゼ。この果実は、人間の口に合うと聞いた。食べてみてくれ」
「リーゼ。少しでいい。俺の隣に、いてくれるか」
畏怖される獣王が、わたしの前では、まるで忠実な狼のように、そわそわと尾を揺らす。何かにつけてわたしを気遣い、そばにいたがり、けれど決して、無理強いはしなかった。
「人間の姫を、こんなにも大切になさるとは」
侍女の獣人が、微笑ましそうに言った。「陛下は、あなたさまが恐れて逃げ出さぬか、それだけを案じておられます。番に嫌われることが、獣王にとっては、何より恐ろしいのですよ」
わたしは、胸が温かくなった。
恐ろしい獣王だと、思っていた。けれど彼は、ただ、生涯にただ一人の相手を、大切にしたいだけの、不器用な男だったのだ。
四
わたしは、この国での日々を、心から愛するようになっていた。
獣人たちは、初めこそ人間のわたしを警戒していたが、わたしが偏見なく彼らと接するうち、少しずつ心を開いてくれた。子供たちは尾を振ってわたしにまとわりつき、老いた獣人は昔語りを聞かせてくれた。
わたしは、人間の国と獣人の国の橋渡しにも努めた。互いの言葉を学び、文化を伝え合い、長年の反目に凝り固まった誤解を、一つずつ解いていく。それは、地味な性分のわたしにこそ、向いた仕事だった。
「お前は、すごいな」
ある夜、フェンリスがしみじみと言った。「俺が力でねじ伏せようとして、できなかったことを、お前は言葉と心で成し遂げていく。人間と獣人が、こんなにも穏やかに笑い合う日が来るとは、思わなかった」
「わたしは、ただ、まっすぐに向き合っているだけですわ」
「それが、難しいのだ」彼は、優しく目を細めた。「お前のその心根に、俺は、日ごとに惹かれていく。番だから、ではない。リーゼという一人の女に、俺は、惚れ込んでいるのだ」
その言葉に、わたしの頬が熱くなった。
けれど、穏やかな日々は、ある日、乱された。
人間の国から、使者が来たのだ。それも、わたしの姉のひとりを伴って。
「まあ、リーゼ。息災そうで何よりだわ」
姉は、豪奢なドレスをまとい、勝ち誇ったような、けれどどこか値踏みするような目で、わたしを見た。
姉たちは、知ったのだ。獣王フェンリスが、人間など到底及ばぬ強大な力を持つ、大陸屈指の王であることを。獣人の国が、豊かで、美しく、栄えていることを。そして、その王が、地味な三女を、たいそう寵愛しているらしいことを。
「リーゼには、少々荷が重い役目でしょう。獣王陛下のお妃には、やはり、家柄も器量も優れた姉のわたくしのほうが、ふさわしいのではなくて?」
姉は、しなを作って、フェンリスに微笑みかけた。
かつて「獣に嫁ぐなど死んでも御免」と言い放った、その口で。獣王の権勢を知った途端、その座を、奪いに来たのだ。
五
フェンリスは、姉を一瞥した。その琥珀の瞳が、氷のように冷たくなる。
「妃を、代えろと?」
「ええ、陛下。地味な妹より、わたくしのほうが、きっと陛下を――」
「断る」
フェンリスは、姉の言葉を、最後まで聞かなかった。
「我ら銀狼にとって、番は、生涯ただ一人。魂で定められた、唯一の相手だ。それは、家柄でも、器量でも、変えられぬ。代わりなど、この世に、ただの一人も、存在しない」
彼は、わたしの肩を、そっと抱き寄せた。
「リーゼは、俺の番だ。何百年待ってようやくめぐり会えた、俺の魂の片割れだ。この娘以外を妃に迎えることなど、天地がひっくり返っても、あり得ん」
姉の顔が、屈辱に歪んだ。
「な……地味なこの子が、そんな……!」
「地味、だと?」フェンリスの声が、低く、鋭くなった。「貴様らは、この娘の何を見てきた。恐れも偏見も抱かず、まっすぐに我らと向き合い、両国の長年の溝を、その手で埋めていった。この娘の心の気高さが、貴様らには、見えぬのか」
彼は、冷たく言い放った。
「そもそも、この娘を厄介払いに差し出したのは、貴様らだろう。獣に嫁ぐなど御免だと。――なのに今さら、この娘が得た幸福を、奪いに来ただと。恥を知れ」
姉は、真っ赤になり、そして真っ青になった。反論の言葉も出ず、震えるばかりだった。
わたしは、静かに、姉へ告げた。
「お姉さま。どうぞ、お引き取りを」
「り、リーゼ、あなた……!」
「わたしは、この国で、生涯ただ一人の番として、愛されています。誰にも代われない場所を、初めて、得たのです」わたしは、まっすぐに姉を見つめた。「それは、家柄でも器量でも、決して手に入らないもの。――お姉さまが、どんなに羨んでも、ですわ」
姉は、言葉を失い、逃げるように去っていった。
後に聞いた話では、姉たちは獣王との縁を結び損ね、人間の社交界でも「一度は獣人を蔑んでおきながら、権勢を知った途端に手のひらを返した恥知らず」と、すっかり評判を落としたという。
けれど、それはもう、わたしにはどうでもいいことだった。
「……すまなかったな、リーゼ」
姉が去ったあと、フェンリスが、案じるように言った。「嫌な思いを、させた」
「いいえ」わたしは、首を振って、微笑んだ。「かえって、はっきりしましたわ。わたしの居場所は、もう、あちらには、ないのだと」
終
その夜。わたしとフェンリスは、雪化粧をした山々を望む露台に、並んで立っていた。
「一つ、聞いてもいいか」フェンリスが、ふと言った。「人間の国を、離れることに、未練はないか」
わたしは、少し考えて、首を振った。
「いいえ、少しも。あの家に、わたしの居場所はありませんでした。厄介払いに出された、その日まで」
わたしは、澄んだ夜気を、胸いっぱいに吸い込んだ。
「でも、今ならわかります。わたしは、いらない子だったのではない。ただ、わたしを必要としてくれる場所に、まだ、たどり着いていなかっただけ」
フェンリスが、わたしを見つめる。狼のように鋭い琥珀の瞳は、今は、驚くほど穏やかだった。
「お前は、自分の価値を、間違った場所で量られ続けていた」大きな手が、そっとわたしの手を包む。「人間の物差しでは、お前は地味な三女だったのだろう。だが、俺にとっては違う。お前は、何百年に一度の、かけがえのない宝だ。この世にただ一人、代わりのきかぬ、俺の番だ」
その言葉に、わたしはこらえきれず、微笑んだ。
生涯にただ一人。代わりのきかない、唯一の存在。
いてもいなくても同じと言われ続けたわたしにとって、それは、何より欲しかった言葉だった。
「フェンリスさま」
「なんだ」
「わたし、ここへ来られて、本当によかった」
フェンリスは、ふ、と目を細めると、わたしをそっと、腕の中に抱き寄せた。銀の尾が、嬉しそうに、ゆらりと揺れる。畏怖される獣王の腕は、驚くほど温かく、そして優しかった。
「もう、離さん。生涯、俺の隣にいろ」
「はい。喜んで」
雪をいただいた山々に、澄んだ月の光が降りそそぐ。
厄介払いに出された、あの日。わたしは、家族にも、故郷にも、必要とされていないのだと、思っていた。
けれど、違ったのだ。
人間の物差しで測れば、わたしは地味で、代わりのきく三女だったのかもしれない。けれど、ここでは違う。わたしは、何百年に一度の、かけがえのない番。この世にただ一人、決して代わりのきかない存在。
厄介払いに出されて、よかった。
だってそのおかげで、わたしは出会えたのだから。
わたしを、地味な三女としてではなく、唯一無二の宝として愛してくれる、この人に。
(了)




