5.うるさい
保育士の倉田真帆は、その日、隼人が耳を抑えてうずくまっているを見つけ、すぐに声をかけた。
「隼人くん、どうしたの」
隼人は目をぎゅっと閉じ、首を振っている。
「お耳、変なの?」
「うるさいの」
「え?」
子どもの発言としては不自然ではない。でも、真帆は小さな違和感を抱いた。彼女が担任をしている年中クラスでは、毎日子どもの笑い声や、時には泣き声も飛び交うのが日常だ。隼人はどちらかというと穏やかなタイプで、いつも周囲の騒がしさを気にすることなく機嫌よく遊んでいる。もちろん、成長の過程でそれが気になりだすこともある。真帆は声のトーンを下げ、ゆっくりと尋ねた。
「うるさいのは、先生の声かな? お友達の声?」
隼人はうっすら目を開けて答える。
「ちがう。パパのこえ」
真帆は眉を寄せた。少し様子を見て、収まらなければ母親に電話をしよう。最近、父親に大声で怒られたことでもあったのかもしれない。心因的なもの、あるいは、なんらかの病気という可能性もある。
その後も隼人の様子は変わらなかった。耳を塞いで部屋の隅で苦しみ続け、真帆は早々に緊急連絡先である母親の携帯に電話をした。
*
翌日、隼人と母親は、いつも通り登園してきた。隼人は地面をじっと見ている。顔色は悪い。
「お母さん、どうですか? 隼人くん」
「特に耳に異常はないそうです。やっぱり心因的なものかな、って」
「そうですか……」
ちゃんと病院には連れて行ってくれたことに、まずは安堵する。母親は困惑しているようだった。
「あの、この子の父親なんですけど、抜けてるところは多いですが、何かうるさく怒鳴ったりとかはほとんどないんです。そりゃ全くないとは言いませんけど、そういうのじゃないと思うんだけどな……あ、だめだ、行かなきゃ。すいません、お願いします」
朝は保護者と話せる時間は少ない。彼女は隼人に手を振ると、いつも通り、慌ただしく去っていった。
「隼人くん、大丈夫?」
「うるさい……パパが、叫んでる」
「そう……なんて言ってるの?」
「たすけてって」
真帆はぎょっとなった。だが、隼人のうつろな目とその下の濃い隈を見て、質問はそこまでにした。彼の負担になってしまう。
隼人は真帆の膝の上で、すぐに眠ってしまった。
「隼人くん、今日一日ほとんど起きられなくて……」
「そっか……」
母親は疲れ切った様子だった。でも、何も聞かないわけにもいかない。
「その、お父さんと一緒にいる時は、隼人くん、どんなご様子なんですか?」
「平日は向こうは毎日残業だし、ほとんど顔は合わせてませんけど、どうかな……。隼人、夫には私以上に遠慮がない感じで、舐めてるといえばそうですけど、甘えられてるってことじゃないのかなと思ってたんですけどね。どちらかというと、夫は最近前にも増してぼーっとしてるし……うるさいってのがよくわからないな」
真帆は、考え込む彼女を前に迷った。隼人から聞いたことを、そのまま伝えるべきか否か。
「最近、何か変わったこととかはありました?」
「いやぁ~……特に……あ」
ぴたりと動きを止めた彼女が、小さな声で言ったのを、真帆は聞き逃さなかった。
「おまじない……」
「え?」
「あ、いや、なんでも」
「今、おまじない……って仰いましたか?」
その言葉はやけに強く真帆の耳に残った。
いつも忙しくしている彼女を早く帰らせてあげたい気持ちもある。でも、もう少し踏み込む。
「よかったら、聞かせてもらえませんか?」
「最近、流行ってるんですよ」
彼女は何か思い出すように話し始めた。
「なんか、ブログだったかな。投稿サイトに載せられた、『モラ夫未満』っていうタイトルのインタビューなんですけど」
「モラ夫未満……」
「離婚するほどじゃないけど、夫にストレスを感じてる妻へのインタビューを載せてたんです。モラ夫、まではいかないけど、絶妙にイライラする感じの内容で。そこに、ある時から、おまじないコーナーみたいなのが載り始めたんですよね」
真帆は話を聞きながら、占いのようなものだろうか、と思った。だが、そうではなかった。
「なんだろ、今思えばこう……ちょっと変ではありましたよね。夫のスマホを汚す、とか、夫の茶碗を割る、とか、若干オカルト的な……」
真帆の背中を、冷たいものが這っていく。
「お母さん、それもう今、やってませんか?」
「やってないやってない! 続けるほど暇じゃないし、夫もなんか大人しくなっちゃったし」
一段低くなった真帆の声に、彼女は慌てて首を振る。
「そのブログは今も?」
「ううん、ちょっと前から更新されなくなったんですよね……コメント欄にいたずらみたいなのも増えてて、それでかな」
彼女を見送り、真帆はそのブログを検索しようとして、ぴたりと動きを止めた。
幼い頃から、そういうものに敏感なほうだった。それでも生き延びてこられたのは、それから適切な距離を取っていたからだ。〝ああいうもの〟に、人の倫理は通用しない。誰が巻き込まれるかに基準はない。ある意味天災のようなもの。ただ、これだけは言える。
——一度目をつけられれば、逃れるのは難しい。
次に連絡が来たのは隼人が亡くなったという知らせだった。
父親から逃げるように家を飛び出し、車に轢かれたらしい。
警察の事情聴取も入っているらしく、お通夜で見た父親は、母親と同じく、憔悴しきっているように見えた。
受付を済ませた真帆は、もう一度父親のほうに目をやり、そこで硬直した。
彼は、真帆を見ていた。
参列客に向けて下げていた頭を戻す中途半端な位置で、首だけぐるりとこちらに向けて。




