第9話:無料配布(フリーミアム)の罠と、最強防弾ドレスで踊る帝国の夜会
「ルミア……貴女、頭がおかしくなったの? この『H.I.M.A.(ヒマ)端末』、一台作るのに原価が五千ゴールド(※庶民の一ヶ月の生活費相当)はかかるのよ? それを、帝都とシーサイド・ガルドの全市民に『無料配布』するなんて……我が魔導商会A&Lが破産しちゃうわ!!」
オーシャン・モールの最上階、CEO執務室。
私は、ルミアが打ち出した途方もない事業計画書をバンバンと叩きながら、目を白黒させていた。
「落ち着きなさい、CTO。だから貴女は原価計算しかできないポンコツだと言うのよ」
ルミアは最高級のダージリンティーを優雅に啜りながら、悪魔のように艶やかな笑みを浮かべた。
「いい、アリス。ビジネスにおいて最も価値があるのは『目先の小銭』ではなく、『プラットフォームの独占』よ」
「プラット……フォーム?」
「そう。人々が生活する上での『基盤』のことよ。この『ヒマ端末』を無料で配れば、誰もが飛びついて使うわよね。情報通信、暇つぶしのゲーム、そしてドライブスルーで実証した『遠隔注文システム』。人々はあっという間に、この端末なしでは生活できない体になるわ」
ルミアは立ち上がり、背後の巨大な黒板に白墨で図を書き始めた。
「市民がヒマ端末に依存しきったところで、私たちは『企業』や『他の商人』にこう持ちかけるの。『我が社のヒマ端末の画面に、御社の商品の広告を載せませんか?』『端末経由で商品を売れるようにシステムを開放しますよ』とね。当然、彼らは莫大な広告費と、売上の数パーセントを手数料として私たちに支払うことになるわ」
「あっ……!」
「さらに! 遠隔注文された商品を、ガウェイン輸送部長の『飛竜便』と、街の若者たちを雇用した『魔導自転車・配達員』のネットワークで、顧客の家まで直接届けるサービスを開始する! 名付けて『A&Lイーツ』よ! これで私たちは、情報、広告、流通、決済のすべてを完全に掌握する。最初の端末代の赤字なんて、三ヶ月で数百倍になって返ってくるわ!」
損して得取れ、の究極系。
いわゆる『フリーミアム・モデル』と『プラットフォーマーによる市場独占』の恐るべきスキームを、ルミアは完璧に構築していたのだ。
「ルミア……貴女、本当に人間? 頭の中、どういう構造してるの?」
「世界中の金貨を吸い寄せる構造に決まってるじゃない。さあ、アリス。貴女は量産型ヒマ端末の魔力回路の最適化と、通信用の中継アンテナ塔の設計を急いでちょうだい。帝国の空を、私たちの電波で埋め尽くすわよ!!」
高笑いするルミアの姿は、もはや聖女の欠片もなく、世界征服を企む魔王そのものであった。
しかし、技術者としての私の血もまた、その壮大なスケールの計画に激しく沸き立っていた。
「上等よ! 帝国全土をカバーする超広域マナ・ネットワーク、私が三日で構築してあげるわ!!」
◆◆◆
それから数日後。
ヒマ端末の無料配布は、帝都とシーサイド・ガルドに空前の熱狂を巻き起こしていた。
誰もが薄いクリスタルの板を片手に街を歩き、離れた友人とメッセージを送り合い、タップ一つで自宅に熱々の食事が届く魔法のような体験に酔いしれた。
そんな中、私は研究室で、端末の通信エラーを修正するための数式と格闘していた。
顔には機械油と煤が付き、髪はボサボサ。とても公爵令嬢とは思えない有様だ。
「――やはり、ここにいたか。相変わらず、研究の虫だな」
ふいに、静かで心地よい低い声が研究室に響いた。
振り返ると、そこにはいつもの漆黒の軍服ではなく、洗練された最高級の夜会服(燕尾服)を身に纏ったユリウス大公が立っていた。
普段の冷徹な軍人としての威圧感に、貴族としての圧倒的な色気が加わり、思わず見惚れてしまうほどの美しさだ。
「ユリウス様……! ど、どうしたんですか、その格好!?」
「今夜は、帝都の皇宮で開かれる『建国記念・大夜会』の日だ。忘れたとは言わせないぞ、アリス」
「あ……っ!!」
私は手元のスパナをガランと落とした。
そうだ。皇帝陛下から直々に『魔導商会A&Lの首脳陣を主賓として招待する』と言われていた、年に一度の帝国最大のパーティー。
ヒマ端末の通信インフラ構築に夢中になるあまり、完全に脳から抜け落ちていた。
「ご、ごめんなさい! 完全に忘れてました! でも私、着ていくドレスなんて持ってないですよ! 王国から逃げてくる時に、全部引きちぎっちゃったし……!」
私が慌てて頭を抱えると、ユリウスは小さくため息をつき、私の前に歩み寄った。
「想定の範囲内だ。だから、私が直々に君を迎えに来た」
彼は懐から、純白のシルクのハンカチを取り出し、私の頬についた煤を優しく拭い始めた。
ひんやりとした彼の指先の感触と、ハンカチから香る彼特有の清冽な香水が、私の鼻腔をくすぐる。
「ドレスなら、ルミアがすでに用意している。君はこれから風呂に入り、侍女たちに身を任せるだけでいい」
「ううっ……ドレス、嫌いなんです。コルセットで内臓を締め付けられるし、裾が長くて歩きにくいし……。あんな非合理的な布の塊、着たくありません……」
私が唇を尖らせて文句を言うと、ユリウスは拭う手を止め、私のアメジストの瞳を真っ直ぐに覗き込んだ。
「アリス。君は今や、帝国の経済を根底から覆した最重要人物だ。今夜の夜会には、君の技術と利権を狙うハイエナのような貴族たちが山ほど群がってくる。……君を、一秒たりとも私の視界から外すわけにはいかない」
その声は、甘く、そしてゾクッとするほどの独占欲に満ちていた。
「コルセットが嫌なら、着なくていい。歩きにくいなら、歩きやすいように君自身で『改造』すればいい。君の常識外れな技術を、存分にドレスに組み込んでみせろ。……その代わり、今夜の君のエスコートは、誰にも譲る気はない。私だけの隣で、堂々と笑っていろ」
有無を言わせない、最強のパトロンからの絶対的な命令。
そこまで言われて、断る理由など私にあるはずがなかった。
「……わかりました。ユリウス様がそこまで言うなら、最高に非合理的な夜会を、私の『超合理的・完全武装ドレス』でぶち壊してやります!」
「ああ、大いに期待している」
ユリウスは満足げに微笑み、私の手を取って手の甲に軽く口付けを落とした。
◆◆◆
数時間後。
帝都・皇宮の大舞踏会場。
クリスタルのシャンデリアが眩い光を放ち、帝国中から集まった上位貴族たちがグラスを傾ける華やかな空間。
「――ヴァルハイト大公閣下、ならびに『魔導商会A&L』最高技術責任者、アリス・フォン・ローゼンバーグ様、ご到着!!」
近衛兵の高らかな声と共に大階段の上に私たちが姿を現した瞬間、会場中の視線が一斉に突き刺さった。
「おお……あれが噂の……」
「なんと美しい……隣国の公爵令嬢と聞いていたが、これほどとは……!」
「しかし、大公閣下が直々にエスコートされるとは。本気で彼女を自陣営に取り込むおつもりか」
ざわめきが波のように広がる。
私はユリウスの腕にそっと手を添えながら、背筋を伸ばして階段を降りた。
私が着ているのは、ルミアが用意した『星空を切り取ったようなミッドナイトブルーのドレス』だ。
しかし、ただのドレスではない。
コルセットは当然抜き。生地には私が『流体ミスリル』を分子レベルで編み込んでおり、体温と外気温を感知して常に最適な『通気性』と『保温性』を自動調整する、超快適な空調服となっている。
さらに、ドレスのフリルに見せかけて、微小な『空間断絶結界』の魔力回路を何重にもプリントしている。万が一、暗殺者が刃物で切りかかってきても、刃先がドレスに触れた瞬間に衝撃を弾き返し、相手の腕の骨を粉砕する『歩く物理要塞』仕様だ。
「(……アリス。君のドレスから、微弱だが恐ろしい密度の魔力反応を感じるのだが。一体何を仕込んだ?)」
階段を降りながら、ユリウスが小声で尋ねてきた。
「(ふふん、ただの防弾・防刃・自動空調・緊急展開パラシュート付きの『タクティカル・ドレス』ですよ。重量は普通のドレスの三分の一です!)」
「(……パラシュートまでついているのか。皇宮の窓から飛び降りる気満々だな)」
「(備えあれば憂いなし、です!)」
私たちが内緒話をしてクスクスと笑い合っていると、その親密な空気を引き裂くように、一人の恰幅の良い中年貴族が立ちはだかった。
「これはこれは、大公閣下。そしてアリス・フォン・ローゼンバーグ嬢。お初にお目にかかります、帝国西方商工ギルドの長、バルバロス伯爵と申します」
バルバロス伯爵は、ギラギラと欲望にまみれた目で私を舐め回すように見た。
「噂の『ヒマ端末』、実に素晴らしい大発明ですな。しかし、小娘お一人……失礼、若き女性の細腕で、あの巨大な通信網の維持はさぞかしご負担でしょう。どうですかな? 我が商工ギルドが、その技術の『管理』と『特許の共有』を肩代わりして差し上げましょう。もちろん、貴女には莫大な対価と、我が愚息の『正妻』の座をご用意いたしますぞ」
典型的な、技術と利権の横取りを狙った政略結婚の申し出。
周囲の貴族たちが、息を呑んで成り行きを見守る。
私がどう断ってやろうかと脳内で『完璧な論破(と物理的制裁)の数式』を組み始めた、その時だった。
スッ……と、ユリウスが一歩前に出た。
彼が動いた瞬間、会場の空気が文字通り『凍りついた』。
バルバロス伯爵が、ビクッと肩を震わせる。
「バルバロス伯爵。貴様、私の目の前で……私の『心臓』に等しい宝に、触れようとしたか?」
ユリウスの声は、静かでありながら、絶対零度の吹雪のように冷酷だった。
「だ、大公閣下……!? いえ、私はただ、帝国の発展のために彼女の技術を正当に――」
「正当だと? 貴様のギルドが裏で関与している粗悪な魔石の密輸ルートの帳簿、すでに私の手元にある。明日、貴様の領地に特務憲兵を差し向ける予定だったが……今ここで、首を刎ねられたいようだな」
「ひぃっ……!?」
ユリウスのアメジストの瞳から放たれる、本物の殺気。
帝国の暗部を統べる『影の皇帝』の真の姿に、バルバロス伯爵は腰を抜かし、無様に床に這いつくばった。
「アリスの技術、時間、そして彼女のすべては、私の完全な保護下にある。彼女に触れることはおろか、その才能を搾取しようなどと考える者は、この私が一族郎党すべてを帝国の歴史から消し去る。……分かったな?」
ユリウスのその宣言は、バルバロス伯爵だけでなく、会場にいるすべての貴族に向けられた『不可侵の警告』であった。
誰もが青ざめ、一斉に深く頭を下げる。
帝国のトップである大公が、たった一人の少女のために、一切の政治的妥協を捨てて牙を剥いたのだ。
「……行きましょう、アリス。不快な羽虫は消えた」
ユリウスは振り返り、何事もなかったかのように私に向かって優しく微笑み、手を差し出した。
「はい、ユリウス様……っ」
私は彼の手を取り、胸の奥がギュッと締め付けられるのを感じた。
なんて過保護で、なんて恐ろしくて、なんて甘いエスコートだろう。
私の狂った発明を理解してくれるだけでなく、あらゆる外敵から完璧な防壁となって守り抜いてくれる。
この最強のパトロンの隣にいる限り、私はどこまでも自由に、この世界を魔法で遊び尽くせるのだと確信した。
管弦楽団の優雅なワルツが鳴り響く中、私とユリウスは大広間の中央でステップを踏んだ。
私が仕込んだドレスの空調機能のおかげで、少しも汗をかかずに、完璧なダンスを踊り切ることができたのは言うまでもない。
◆◆◆
――同じ頃、華やかな帝都から遠く離れた、帝国と王国の国境沿いの検問所。
「た、頼む……! 通してくれ……! 私は、かつて王国の財務大臣を務めていた男だ……! アリス様にお会いしなければならないのだ……!!」
ボロボロの服を着て、泥だらけになった白髪の男が、帝国の国境警備兵に土下座して縋り付いていた。
それは紛れもなく、かつてギルバート王子と共に、私を「無能」と見下していた王国の元・財務大臣であった。
「アリス様だと? 『魔導商会A&L』の最高技術責任者にして、ユリウス大公閣下の最愛の御方様のことか? お前のような薄汚れた浮浪者が、どうして面会できると思うんだ」
警備兵が、冷酷な目で槍を突きつける。
王国の現状は、もはや国として体をなしていなかった。
国庫はアリスの魔法陣によって物理的に封鎖されたままで開き方は誰にもわからず、空調とインフラの魔導具は次々と爆発・沈黙。
第二地下鉱山の崩落により、魔石の供給もストップ。ギルバート王子は崩落に巻き込まれて重傷を負い、国王の顔は消えないピンク色のままだ。
もはや餓死を待つしかない状況の中、最後の望みを賭けて、かつての「見下していた令嬢」に泣きつくために、這うようにして国境までたどり着いたのである。
「国庫の……金庫の暗証番号だけでも教えてくれればいいのだ……! それさえあれば、王国はまだ……っ!」
「――そのパスワードなら、私が知っているわよ」
突如、検問所の空から声が降ってきた。
バサバサという力強い羽ばたきの音と共に舞い降りたのは、黒と金のA&L商会のユニフォームを着た飛竜部隊の隊長、ガウェイン。
そしてその背に跨り、扇で口元を隠した純白のスーツ姿の美女――ルミアだった。
「る、ルミア元聖女……!! いや、ルミア社長!! 頼む、パスワードを教えてくれ!! 王国が滅んでしまう!!」
元財務大臣は、かつて自分が顎で使っていたルミアに向かって、額を地面に擦り付けて懇願した。
ルミアは飛竜から降り立つと、ゴミを見るような、絶対零度の視線で男を見下ろした。
「教えてあげてもいいわよ。我が社の『コンサルティング料』を支払ってくれるのならね」
「こ、コンサル料……! い、いくらだ! 国庫が開けば、いくらでも払う!!」
「そうね……一秒につき、十億ゴールドよ。ただし、支払いは前払いの現金一括のみ。お支払いいただけますか?」
「…………は?」
元財務大臣は、口をパクパクとさせた。
一秒で十億。それは国家予算の数年分に匹敵する狂った金額だ。前払いで払えるわけがない。
「払えないの? なら、交渉は決裂ね。ガウェイン輸送部長、不法入国しようとするこの哀れな不審者を、帝国の憲兵に引き渡しなさい。私たちは忙しいの。ヒマ端末の無料配布キャンペーンの宣伝広告を打たなきゃいけないから」
「了解しました、ルミア社長!」
かつての部下であったガウェインは、元財務大臣に一切の情けをかけることなく、淡々と拘束具をはめた。
「待ってくれ……! 嘘だろ……! アリス様は……心優しい令嬢だったはずだ! ギルバート殿下に婚約破棄されて、傷ついているはずなんだ……! 俺たちが迎えに行けば、喜んで……!」
「寝言は寝て言いなさい」
ルミアは扇をパチリと閉じ、最高に邪悪で、美しい笑顔を浮かべた。
「アリスは今、帝国最高の権力者のエスコートを受けて、誰も見たことがないような防弾仕様のドレスで夜会を楽しんでいるわ。無能な王子に搾取されていた『泥沼』に戻るわけないでしょう?」
「ああ……あああぁぁぁぁぁ……ッ!!」
絶望の咆哮を上げる元財務大臣が連行されていくのを、ルミアは鼻で笑って見送った。
「さあ、ガウェイン。帝都に戻るわよ。世界経済の完全掌握まで、あともう一息なんだから!」
「はっ!!」
過去を完全に切り捨て、圧倒的な才能と資本で世界を蹂躙していく少女たち。
彼女たちの辞書に、「後退」という文字は存在しないのだった。
(第9話 終わり)




