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第1話:婚約破棄のち、高度三百メートルからの事業計画

「……マナの圧縮率は規定値の百二十パーセント。術式展開のタイムラグはコンマ二秒。よし、これなら魔導推進機の出力テストに耐えられるわね」


 王城の一角にある、薄暗い地下研究室。

 私は油汚れにまみれた作業机の上で、羊皮紙にびっしりと書き込んだ数式と睨み合っていた。手元には、複雑な幾何学模様が刻印された手のひらサイズの魔石が青白い光を放っている。


「アリス様! またこんな埃っぽい所にいらして! 卒業パーティーの時間が迫っておりますよ!」


 背後から、血相を変えた侍女の声が響いた。

 私は大きなため息をつき、愛用のゴーグルを外す。


「分かってるわよ。でもこの『フライ・ハイ・マークIV』の最終調整だけは終わらせておかないと」

「そんなガラクタ……いえ、得体の知れない機械よりも、王太子殿下の婚約者としての身だしなみです! さあ、この特注のシルクドレスにお着替えを!」


 侍女に急かされながら、私は渋々立ち上がった。

 王太子ギルバートの婚約者。公爵令嬢アリス・フォン・ローゼンバーグ。

 それが、今の私を縛り付ける忌まわしい肩書きだった。


 未来の王妃として求められるのは、完璧なマナー、優雅なダンス、そして中身のない社交辞令の応酬。どれもこれも、私の貴重な研究時間を削り取るだけの無駄な行為だ。

 特にあのギルバート殿下ときたら、顔が良いだけで頭の中身はスライム並み。彼との会話は、私の脳細胞を急速に死滅させる毒でしかない。


(……でも、今日でそれも終わりよ)


 私はこっそりと、分厚い羊皮紙の束をドレスの胸元にある隠しポケットに滑り込ませた。

 そして、ドレスの下には特注の防火カーゴパンツと工具ベルトを仕込む。重みで少し歩きにくいが、背に腹は代えられない。


「アリス様? どうかされましたか?」

「ううん、なんでもないわ。さあ、行きましょうか。私の『輝かしい未来』へ」


 私は不敵な笑みを浮かべ、王城の大広間へと向かった。


 ◆◆◆


「アリス・フォン・ローゼンバーグ! 貴様との婚約を、この場で破棄する!!」


 学園の卒業パーティー会場。

 きらびやかなシャンデリアが照らし出す大広間に、ギルバート王太子の高らかな宣言が響き渡った。


 優雅に流れていた管弦楽団の演奏が、キキッという不快な音を立てて止まる。

 談笑していた数百人の貴族たちが、グラスを持ったまま彫像のように凍りついた。華やかだったパーティー会場の空気は一瞬にして急冷され、断罪の場へとその姿を変えた。


 祭壇のような壇上には、金髪碧眼の無駄に顔が良い王子、ギルバート。彼の髪は今日も今日とて、無駄にツヤの出る安っぽいワックスでガチガチに固められている。

 そしてその腕には、ピンクブロンドの髪を揺らす儚げな美少女――男爵令嬢であり、光の魔力を持つとされる『聖女』ルミアがしがみついていた。


 対する私は、大広の中央で一人、立ち尽くしていた。


「……」


 私は俯く。

 ドレスの裾を握りしめた手が、わなわなと震えていた。

 肩が、小刻みに揺れている。


 周囲からは、好奇と憐憫、そして隠しきれない嘲笑の混じった囁き声が波紋のように広がっていく。


「おい、見ろよ。あのアリス様が震えておられるぞ……」

「無理もないわ。王太子殿下に尽くすために、あんなに勉学に励んでいらしたのに」

「まあ、勉学というよりは狂気の沙汰に近い奇行だったがな」

「相手があの可憐な聖女ルミア様ではなぁ。女としての愛らしさが違いすぎる。アリス様のドレス姿など、まるで研究室のフラスコに布を被せたようではないか」


 外野の雑音が耳に痛い。

 ギルバート殿下が、私の沈黙を「絶望によるもの」と都合よく解釈したのか、勝ち誇ったように鼻を鳴らした。


「ふん、今さら泣いても無駄だぞ。貴様も自分の胸に手を当てて考えればわかるだろう? 貴様がこれまで、俺に対してどれほどの無礼を働いてきたか!」


 殿下は芝居がかった手つきで、懐から巻物を取り出した。

 ご丁寧に罪状リストまで用意してきたらしい。頭が悪い割には、こういう嫌がらせの準備だけはマメな男だ。


「第一に! 貴様は俺との視察という名のデート中、常に上の空だった! 俺が『今日の髪型はどうだ?』と聞いても、貴様は『風速三メートルの影響を考慮した馬車の空気抵抗係数が気になります。御者の配置を変えるべきでは?』などと意味不明なことを呟きおって!」


(あ、それはあの時、新型飛行魔法の流体力学的な計算をしてたからだわ。っていうか殿下の髪型なんて毎日同じワックスで固めてるだけじゃないですか。ミリ単位の違いに気づけと?)


「第二に! 俺が愛の証として贈った珍しい花束を、貴様はその場で分解し、成分分析にかけて『新種の神経毒が含まれていないか確認します』と言ってすり鉢で潰し、試験管に詰めた!」


(だってあの花、王立植物園の立ち入り禁止エリアに生えてる猛毒植物『マヒマヒ草』の亜種によく似てたんですもの! 致死量わずか二グラムですよ!? 確認しないと私が死ぬでしょ!?)


「第三に! これこそが最大の侮辱だ! 先月の夜会で俺がファーストダンスに誘おうとした時、貴様はドレスの裾からドライバーを取り出し、あろうことか会場の空調魔導具のカバーを外し、修理し始めたではないか! 『魔力圧縮弁から異音がする』などと戯言を吐いて! おかげで俺は一人で虚空に向かって踊る羽目になったのだ!」


(あれは放置してたら魔力暴走を起こして半径十メートルが吹き飛ぶ寸前だったんですよ! 配線のショートに気づいた私のファインプレーでしょうが! むしろ命の恩人として国家勲章を授与してほしいくらいですわ!)


 殿下の告発は続く。

 どれもこれも、私の魔導師としての正当かつ崇高な探求心が、一般人の目には奇行に映ったというだけのエピソードばかりだ。


「ええい、何も言い返せないのか! 貴様のような、色気も愛嬌もなく、頭の中が魔導回路と数式で埋め尽くされているような陰気な女には、もううんざりなのだ!」


 殿下は私を親の仇のように指差し、隣のルミアの肩を強く抱き寄せた。


「その点、ルミアを見ろ! 彼女は常に俺を立て、俺の武勇伝を楽しそうに聞き、そして何より、その純真な笑顔で俺の心を癒やしてくれる! 貴様とは雲泥の差だ!」


「殿下ぁ……私、そんな……。アリス様が可哀想ですぅ……」


 ルミアが上目遣いで殿下を見つめる。

 その瞳はうっすらと潤んでいるように見えた。守ってあげたくなるような、庇護欲をそそる完璧な小動物ムーブだ。


「優しいな、ルミアは。だが、情けは無用だ。無能な女を次期王妃にするわけにはいかない。これは国のためでもある」


 殿下は一呼吸置き、大広間の全員に響き渡る声で、残酷な判決を下そうと口を開いた。


「アリス・フォン・ローゼンバーグ。貴様は辺境の修道院へ――」


 その時だった。


「…………った」


 私の口から、小さな声が漏れた。

 限界だった。

 もう、これ以上は我慢の限界を超えていた。


「ん? 何だ、命乞いか? 聞こえんぞ。もっと大きな声で許しを乞うてみろ」


 殿下が眉をひそめて身を乗り出す。

 私は、限界まで張り詰めていた表情筋のロックを、一気に、そして完全に解除した。


 バッ!!!


 私は勢いよく顔を上げた。

 涙? 悲壮感? 絶望?

 そんなものは一ミリグラムたりとも存在しない。


 そこにあるのは、太陽よりも眩しい、満面の、とびっきりの笑顔だ。


「やっっっっっっっっっったあああああああああああああ!!!!!!!」


 私の絶叫が、王城の分厚い石壁をビリビリと震わせた。

 シャンデリアのクリスタルが共鳴し、近くにいた貴族たちが鼓膜を押さえて顔を歪めるほどの凄まじい声量。


「……は?」


 殿下が、まるで鳩が豆鉄砲を食らった……いや、スライムが雷撃魔法を食らったようなマヌケな顔をする。

 周囲の貴族たちも、あまりの豹変ぶりに口をポカンと開けている。


 構わず私は、ドレスの胸元の隠しポケットから、三年間温め続けた分厚い羊皮紙の束を取り出した。


「言質、確かに取りましたよ!? 今、はっきりと『婚約破棄する』って言いましたよね!? 公衆の面前で! ここにいる貴族全員が証人ですよね!?」


「え、あ、おい、アリス? 気が動転して頭がおかしく……」


「極めて正常です! かつてないほど脳細胞が活性化し、魔力回路が歓喜の歌を歌っています! はいこれ! 既に私の署名と公証人の印が入った『合意による婚約解消届』と『一方的な破棄に伴う精神的苦痛に対する慰謝料請求書』です! あとこれ一番重要なんですけど、『王立研究所からの私物および特許技術の全搬出許可証』にも今すぐサインもらえますか!?」


 私は羊皮紙の束を持って、ドレスの裾を蹴り上げながら壇上へと駆け上がった。

 呆然とする殿下の手を取り、あらかじめ用意していた魔法陣付きの絶対契約の羽ペンを無理やり握らせ、強引にサインを迫る。


「こ、これは何だ!? ええい、離せ! なぜ慰謝料の額が国家予算の三パーセントに達しているのだ!?」


「離しませんよ! この日のために三年待ったんですから! 殿下からの明確な婚約破棄宣言がないと、私の方から破棄した場合、王家に対する違約金が発生しちゃうじゃないですか! 自ら『有責配偶者』になってくれて、本当に、本当にありがとうございます!」


 私は狂喜乱舞していた。

 殿下の足元に書類を広げ、バンバンと叩いて捺印を迫る。


「な、何だその態度は! 貴様、俺に捨てられて悲しくないのか!? 未来の国母、王太子の婚約者の座だぞ!? 権力と名誉が惜しくないのか!」


「悲しい? 権力? バカ言わないでください!」


 私は腹の底から笑った。

 三年間溜め込んだ鬱憤、我慢、妥協のすべてを爆発させるように。


「私の夢は、一日二十四時間、誰にも邪魔されず、無限の予算を使って魔導の深淵を研究することなんですよ! それなのに『未来の王妃だから』って理由だけで、生産性のないマナー講座だの、中身のない茶会だの、指に穴が開くだけの刺繍だの……! あのねえ、花の刺繍をする暇があったら、高効率の魔力変換陣の一つでも編み上げたいんですよ私は!!」


「き、貴様……そんなガラクタいじりのために……」


「ガラクタ!? 魔導の深淵は、貴方のような空っぽの頭に被る王冠よりもずっと重くて価値があるんです! やっと……やっと解放される……! これで徹夜し放題! 研究所で爆発起こし放題! 未承認の劇薬混ぜ放題の、輝かしい自由な生活だわああああ!!」


 アドレナリンが脳内を駆け巡る。

 最高だ。今の私は無敵だ。

 視界がクリアになり、世界のすべてが輝いて見える。


 私は、おもむろにドレスの裾を両手で掴んだ。

 この日のために特別に仕立てた、最高級シルクのドレス。

 お父様には悪いけれど、これも綿密な逃亡計画のうちだ。


 ビリィッ!!!!


 豪快な布の裂ける音と共に、ドレスのスカート部分を引きちぎる。

 会場中の令嬢たちから「キャーッ!」という悲鳴が上がった。


 しかし、そこに現れたのは白魚のような生足ではない。

 動きやすさと機能性を極限まで追求した、特注の防火・防刃素材でできた真っ黒なカーゴパンツだ。

 太ももにはドライバーやスパナがぎっしり詰まった革のツールベルト。

 そして腰には、高純度の圧縮魔力を放つ魔石ポーチがジャラジャラと鳴っている。


 未来の王妃などではない。まるでこれから激戦区に赴く特殊工作員のような出で立ちだ。


「さらば、堅苦しいだけで発展性のない王城よ! さらば、私の研究予算を『ルミアとの癒やしの茶会代に回す』と言って六割も削ってきた無能王子よ!」


 私はターゲットを定めた。

 ホールの奥にある、巨大なステンドグラスの窓だ。


「お、おい! 待てアリス! そこは三階だぞ!? 正気か!?」


 殿下が顔面を蒼白にして慌てて叫ぶ。

 そんな常識、私には通用しない。

 私は両足の筋肉と関節に、過負荷スレスレの身体強化魔法をかけた。


「邪魔だあああああ!!!」


 ダダダダダッ!

 大理石の床を蹴り、全力疾走。

 そして、窓枠に向かって一切の躊躇なくショルダータックルをかました。


 ガシャアアアアアン!!!!


 色とりどりの分厚いステンドグラスが、まるで宝石の雨のように夜空へと飛び散る。

 私は夜の虚空へと躍り出た。

 冷たい夜風が火照った頬を打つ。

 重力が私を地面へと引きずり下ろそうとする、内臓が浮き上がるような浮遊感。


 一般人なら間違いなく即死だ。

 だが、何の問題もない。

 私は背中のドレスの裏地に縫い付けていた、特殊なバックパックの起動紐を強く引いた。


「展開! 魔導推進式パラシュート『フライ・ハイ・マークIV』!!」


 ボシュウッ!!


 背中のバックパックから高圧縮されたマナが噴出し、直径三メートルを超える巨大な幾何学模様の魔方陣が空中に展開された。

 それは光の翼となって私を空中に固定し、落下速度を一瞬にして殺す。ふわり、と体が浮き上がる。

 さらに腰の魔石から魔力が供給され、強烈な推進力が生まれた。


「はーっはっはっは! 見ろ、人がゴミのようだ! 私は自由だー!!」


 眼下に見える王城のテラスで、殿下が信じられないモノを見る目で口をパクパクさせているのが見える。

 ざまあみろ。

 これで私は完全に自由の身だ。

 さて、まずは魔導技術の最先端を行く隣国の学会に直行して、溜まりに溜まった百本以上の論文を発表してやる。そして特許料で豪遊して、自分だけの研究所を――


「――ちょっとおおおおおおおお!!!」


 その時だった。

 背後から、野太い……いや、必死さを極限まで煮詰めたような女の絶叫が聞こえた。

 風切り音にも負けない、凄まじい声量だ。


 空中で体勢を制御しながら、ちらりと振り返る。

 私がぶち破った窓から、「何か」が砲弾のようなスピードで飛び出してくるのが見えた。


 それは、儚げな聖女ルミアだった。


「えっ」


 我が目を疑った。

 ルミアは、聖女の象徴である純白の清楚なローブを脱ぎ捨てていた。

 その下に着込んでいたのは、なんと冒険者ギルドの上級者が好んで着る、機動性抜群の黒い革鎧。

 しかも背中には、やり手の行商人が使うような巨大なリュックを背負っている。


 そして何より私の目を釘付けにしたのは、彼女が跨っているものだ。

 掃除用具入れから強奪してきたであろう、ただの使い古された竹箒。

 だが、その箒の尻部分には無理やり魔力圧縮筒がガムテープで固定されており、そこから青白いマナの炎がジェットエンジンのように凄まじい勢いで噴射されていた。


「待ちやがれアリスぅぅぅぅぅ!!」


「ル、ルミア様!? なんで!?」


 私は慌てて魔導パラシュートの空中ブレーキをかける。

 ルミアは猛スピードで私に追いつくと、空力抵抗を無視した巧みな重心移動で箒をドリフトさせ、私の隣にピタリと並んでホバリングした。

 風圧で、さっきまで綺麗にセットされていたピンクブロンドの髪が荒れ狂っている。


「ハァ……ハァ……! な、なんなのその異常な加速は……! 追いつくのに予備の魔力タンク一本使い切ったじゃない!」


「いや、突っ込むのそこじゃなくて! え、飛んでる? 箒で? しかもその魔力圧縮筒の配線、完全に安全基準無視してない!?」


「そんな技術的なことはどうでもいいのよ! 私を置いていくなんて酷いですわ! ズッ友の約束でしょう!?」


 さっきまでの猫なで声はどこへやら。

 彼女は血走った目で、鬼の形相で私を睨みつけた。


「い、いや、だって貴女、殿下のことが好きで……私の婚約者の座を奪ったんじゃ……」


「はぁ? 誰があんな顔だけが取り柄の、利益率マイナスの能天気王子のこと? 好きで付き合ってるわけないでしょ! 全部、貴女の研究資金を横流しさせるためのハニートラップに決まってるじゃない!」


「ええええええ!?」


 今日一番の衝撃だった。

 空中でバランスを崩しかけた私を、ルミアが箒の柄でガシッと支える。


 ルミアはリュックから分厚い革張りの手帳を取り出し、バッと開いて私に見せつけた。

 そこには、素人には理解不能なほどの細かな数字と、グラフ、そして事業計画がびっしりと書き込まれている。


「よく見てアリス! 貴女が先月、暇つぶしに開発した『全自動洗濯たたみ機』と『若返り美容ポーション(仮)』の市場規模試算よ! これを王家のクソみたいなギルドに独占される前に隣国で特許申請して、別会社を作って売り出せば、初年度の純利益だけでこの国の国家予算の三倍は叩き出せるのよ!?」


「こ、国家予算の三倍!?」


「そうよ! そのための法人登記の準備も、大陸全土に広がる流通ルートの確保も、生産工場の選定も、全部私がこの三年間、殿下に媚びを売りながら裏で手配済みなんだから!」


「す、すごい……さすが元悪徳商家の娘……というか、そこまでやってたの!?」


「当たり前でしょ! なのに貴女、私を置いて一人で隣国へ逃げようとするなんて契約違反よ! 私という『最高経営責任者(CEO)』がいなくて、どうやって今後の莫大な研究費を稼ぐつもり!? 貴女、魔法陣の計算はできても、原価計算と利益率の計算は全くできないポンコツじゃない!」


 ルミアの怒涛のビジネスロジックに、私は目からボロボロと鱗が落ちる思いだった。

 図星もいいところだ。

 私は新しい魔導具を作るのは大好きだが、お金の管理は大の苦手だ。高価なミスリルや竜の鱗などの材料費が足りなくなると、いつもいつの間にか研究室の倉庫に補充されていた。あれは王家の予算ではなく、ルミアが裏で資金を回してくれていた仕業だったのか。


「ごめんルミア! 私、てっきり貴女が殿下に本気で惚れて、私を王城から追い出そうとしているのかと……!」


「寝取る価値も、投資する価値もないわよあんな優良誤認物件! リスクヘッジの概念すらない男なんて、観賞用植物の方がまだ二酸化炭素を酸素にしてくれる分、国益に貢献してるわ!」


 ルミアが、もはや王族に対する不敬罪レベルの辛辣すぎる言葉を吐き捨てた。

 そして、ニカっと――まるで悪事を企む悪友に向けるような、清々しい笑顔で私に手を差し伸べる。


「さあ、行きましょうアリス。貴女の常識外れの天才的な頭脳と、私の冷徹で完璧な経営手腕があれば、世界市場は私たちのものよ。まずは隣国でベンチャー企業『魔導商会A&L』を立ち上げて、三年以内に大陸最大の企業として株式上場を目指すわ!」


「うん! わかった! ついていくよ、ルミア社長!」


 私は彼女の手を強く握り返した。

 最強のビジネスパートナーとの熱い友情が、高度三百メートルの空の上で結ばれる。

 なんだこれ、最高にワクワクする。


 その時、遥か下方の王城のテラスから、蚊の鳴くような声が夜風に乗って聞こえてきた。


「おーい……ルミア……? アリス……? 飛んでる……? 俺は……? どういうことだ……?」


 テラスの縁で、ギルバート殿下がぽつんと空を見上げているのが豆粒のように見える。

 完全に状況が理解できず、一人だけ置いていかれているようだ。


 ルミアは、ゴミ虫を見るような絶対零度の冷たい目で下界を見下ろすと、背中のリュックから羊皮紙の束を取り出した。

 そして、それに魔法で『重量増加』と『追尾』の付与をかける。


「殿下ー! それ、私からの手切れ金代わりの請求書ですわー!」


 ヒュルルルル……!


 投下された書類の束が、まるで意思を持っているかのように殿下の顔面に向かって正確に吸い込まれていく。


「え?」


「貴女がこの三年間、私に貢いできたドレスや宝石、魔導具の数々、ぜーんぶ換金して私たちの新規事業の初期投資に回させてもらいました! あと、貴方が私とのデート代に使うために、国庫や防衛費から横領した証拠書類一式、全部まとめて国王陛下と財務大臣の執務室に郵送しておきましたから! 完全にアウトな金額です! ……せいぜい、地下鉱山で頑張って働いて返済してくださいね♡」


「え、えええええええええええ!?」


 殿下の悲痛な絶叫が、夜空にこだました。

 その直後、テラスに繋がる大広間の扉がバーン!と吹き飛び、真っ赤な顔をして血管を浮き上がらせた国王陛下と、完全武装した近衛兵たちが雪崩れ込んでくるのが見えた。


「ギルバートォォォォォ!! 貴様、防衛費を横領して国庫に穴を開けるとは何事だぁぁぁ!! 万死に値するぞ!!」

「ち、父上!? ちがっ、これは誤解で……ルミアが! ルミアが唆したのです!」

「見苦しい言い訳をするな! 証拠は全て挙がっている! 捕らえろ! 婚約者をないがしろにし、国を売った愚息め! 地下牢へ連行だ! 一生強制労働させて一ゴールド残らず返済させろ!」


 屈強な兵士たちに取り押さえられ、床に引きずり倒される元婚約者。


 あーあ。

 無様にドナドナされていく元王太子の姿を上空から特等席で眺めながら、私はルミアと顔を見合わせて声を出して笑った。


「スッキリしたね!」


「ええ、最高の気分だわ! 第一四半期の滑り出しとしては完璧ね。さあアリス、追手が来る前に最大出力で飛ばすわよ! 国境を越えて、隣国で祝杯をあげなきゃ!」


「了解! 推進剤、フルバースト!!」


 私たちは夜空を一直線に駆ける。

 満月が、私たちの新しい門出――起業という名の果てしない戦いの始まりを、祝福するように輝いていた。


 後に、この二人が設立した『魔導商会A&L』が、画期的な魔導具と圧倒的な資金力で次々と世の常識を覆し、世界の経済と技術を完全に牛耳ることになる。

 そして、隣国で出会うことになる『若き冷徹な大公』という最強のパトロンに、アリス自身が丸ごと囲い込まれるという甘い誤算が待ち受けているのだが――


 それはまた、隣国に着いてからの別のお話である。


(第1話 終わり)

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