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栄光と称賛は差し上げます。実利のみで結構ですので

アーサーの心に眠る呼び声

作者: 林はるる

「栄光と称賛は差し上げます。実利のみで結構ですわ」に出てくる、嘘つきの姉クリスティーナと、モラハラの王太子ヘンリーとの間に生まれた、アーサーのお話しです。

 アーサーには、父親ヘンリーの記憶があまりない。

 ヘンリーは王太子として、いつも忙しく立ち働いていたからだ。


 だがアーサーには、間接的なヘンリーの記憶がたくさんあった。


 アーサーはおもちゃで遊ぶ時、いつも扉に向かって遊んでいた。そんな時、開け放たれた扉の向こうから、ヘンリーの足音が響くと、警備している騎士たちが順に礼を執っていき、その動きで腰の剣が次々にがちゃりと音を立てていった。

 その音が近づいてくる時の、気持ちの高ぶりと言ったらなかった。そしてアーサーのことを可愛くて仕方がないと言った笑顔を浮かべた、ヘンリーが入ってくるのだ。


 残念ながら、もう、その顔は思い出せない。


 だがはっきりと覚えていることがあった。

 その時のヘンリーの声だ。


「会いたかった。私を導く子鹿よ」


 ヘンリーはアーサーのことを、よくそう呼んだ。



 アーサーは眠る時は、いつも自分の右側に、ぬいぐるみを寝かせた。なぜならヘンリーが忙しい中会いに来てくれる時、いつも寝台の左側から近寄り、抱きしめてくれるからだ。


 侍従にゲームを教わる時は、部屋の扉からよく見える方の席に座った。ヘンリーは時間がない中でも、時々アーサーをのぞきにくることを、知っていたからだ。ヘンリーは部屋をのぞくと、すぐに立ち去ってしまう。そんなヘンリーに自分の姿をよく見てもらおうと、工夫したのだ。


 ヘンリーの顔を思い出せなくても、一緒に過ごした日々の記憶に、その影がたくさん残っているのだ。


 ヘンリーはとても愛情深く、優しく、心の広い父親だった。アーサーが木馬で遊んでいた時に、はしゃぎすぎて、ヘンリーの足を木馬で引いてしまったことがある。この時、周囲の人々の空気が変わり、ひやっとした。しかし、確かヘンリーは痛そうにしながらも、「元気があってよろしい」と言ってくれたように記憶している。


 輝いていたあの時、あの日々。

 ヘンリーにとっての、宝物だったアーサー。

 そしてアーサーにとっては、ヘンリーとの想い出こそが宝物だ。



 だが政変が起こった。

 王太子ヘンリーとその妻クリスティーナは、表舞台から退場させられ、ブラックウッド辺境伯領で、隠遁生活を送ることになったのだ。


 アーサーはブリンストン公爵家に、預けられることになった。

 公爵家にはアーサーの従兄弟や、又従兄弟など親戚が大勢いたため、それほど寂しい思いはしなかった。


 だが『なぜ』とは思った。ブリンストン公爵ホレスや、その娘キャロライン、その子どもたちに聞いても誰も答えなかった。両親については、口にしてはいけない空気ができていた。


「ご両親はご事情があり、ブラックウッド辺境伯領で隠遁生活をなさいます」


 ホレスは、アーサーにとりあえずこう説明した。


「まずは政治についてお勉強いたしましょう。数年以内にご両親について、きちんとお教えいたします。それは約束いたしますので、今は我慢して下さい」


 そして言葉を切って、アーサーの前にひざまずいた。


「ご両親の件ですが、もしかしたらお二方を、悪く言うものがいるかもしれません。ですが反論してはなりません。もしかしたらその者にとっては、真実かもしれないからです」


 アーサーはそんなひどいことを言われて、泣きそうになった。公爵はこうも言った。


「ですが、その悪口を、あなたが聞き入れる必要もありません。あなたにとっては愛情深いご両親の思い出が、真実なのですから。ご両親はお優しい方々でしたでしょう?」


「うん」


 アーサーは力強く言った。公爵はアーサーの小さい両手をとって、優しく握りしめた。


「でも……、どうして? なんでいなくなっちゃったの? 聞いたら駄目なの?」


 ホレスはなんと答えたらいいものか、頭を抱えた。そこへ娘のキャロラインが進み出た。アーサーを背中から優しく抱きしめると、こう言ったのだ。


「お父様。殿下は政変の内容を、聞きたいのではありません。会いたいのに会えないのがつらいと、仰っているのです」


 公爵はさらに頭を抱えた。


「私はどうにも頭が固いようだ」


「殿下。今は難しい時です。ですから少し待ちましょう。大きくなりましたら、世の中も変わるかもしれません」


 そう言うキャロラインに、目元の涙をぬぐわれ、アーサーは頷いた。



 アーサーは今できることに集中した。

 のびのびと運動し、遊び、人の話をよく聞き、そして時を待った。


 時には両親と手紙のやりとりをすることもあった。

 アーサーも、ヘンリー公夫妻も難しい立場だったため、手紙のやりとりは、そうひんぱんには行われなかった。双方に厳しい検閲があり、簡単に出すことができなかったのだ。だが、周囲は子どもから親を取り上げようとしたわけではない。むしろアーサーの手紙を、なるべく原形をとどめた形にしようと、書き方や情報を添削して一度戻したりもした。時には担当者が直接、アーサーに表現の仕方を教えたりもした。そのおかげで、例え当たり障りのない内容のものだけとはいえ、アーサーは両親からの手紙を、手元に残すことができたのだ。


 アーサーは、さすがあの王太子夫妻の息子というだけあり、とても優秀な子どもだった。


 ホレスはなにより、アーサーの慎重で、思慮深い面を評価していた。両親に問題がなければ、アーサーこそ名君になっていたであろう。そうすると、ホレスにはむくむくと、欲深い考えが頭をもたげてきた。人材不足のこの国で、この能力をどうやってか、生かせないかとホレスは考えたのだ。縁戚関係や立ち位置をきっちりと調整すれば、そう難しいことでもなさそうだった。


 しかしアーサーは、早い内に宮廷の政変に巻き込まれたせいか、そういった華やかな世界に重きを置かないところがあった。親戚たちよりも、いつも護衛たちと外ですごすことのほうが多かったのだ。


 そのアーサーの目を、政治に向けさせるためには、どうしたらいいかホレスはいろいろ考えた。アーサーはまだ小さく、少年というよりは子どもだ。十歳に満たない年齢なのだから当然だ。だから彼が会いたがっていた両親に会わせて、父親のヘンリーと母親のクリスティーナから、政治の世界に参加するよう促してはどうかと思ったのだ。


 ホレスはブラックウッド辺境伯に連絡を取り、ひそかに根回しを始めた。ところがアーサーをことのほか可愛がっている護衛の一人が、その話を本人にもらしてしまった。喜んだアーサーは両親に会えると楽しみにし、ホレスにもお礼を言いに来たのだ。


 その時のホレスの絶望的な気持ちは、誰がわかるだろう。ブラックウッド辺境伯から、ヘンリーが黒い森で行方不明になったという連絡を、受け取ったばかりだったのだ。黒い森は人が踏み入ることの出来ない森で、迷い込んだらまず助からなかった。


 ここでアーサーが普通の子どもだったら、ホレスの内心なんてはかりかねただろう。だがアーサーは聡明な子どもだった。だからこそホレスは欲しかったのだ。アーサーはホレスを見て、何事かあったのだと、すぐに察した。その後は、ホレスにはもうどうしようもなく、流されるままだった。しばらくして後に、ヘンリーの遺体が見つかり、ブリンストン公爵邸では半旗を掲げた。


 知らせを受けたアーサーは、すっかり公爵邸に姿を現さなくなり、いつも外でぼんやりするようになった。護衛と遊んだり、河原で小石を投げていたり、時には武術を習っていたりもした。


 アーサーのことを心配して、ホレスは急いで残された母親、クリスティーナと会わせる手配をした。だがその当時、クリスティーナは動揺がひどく、とても会わせられる状態ではなかった。


 アーサーは悲しんだり、怒ったりしていなかった。むしろそうしてくれれば、回りは楽だった。アーサーはその時、考えていたのだ。どうしてこうなってしまったのか。どうしたら良かったのか。そしてこれからどうしたら良いのか。


 その頃には、自分の両親が、周囲をひどく失望させたことを教わっていた。まわりに、時にはひどい暴力をふるったり、暴言をはいたり、他人の手柄を横取りしたことを、やわらかい表現で教えられた。だが同時に、家庭教師からは、両親がとても優秀だったことなども教わった。なんというか、良くも悪くも、激しい人たちだったのだろうと感じた。思い返してみれば自分の記憶の中でも、今にして思えばとてもおおげさなことをしていたりした。


 そしていろいろ考えている中で、はっきりとしていることがあった。

 それは母親のクリスティーナに、会いたいという気持ちだ。


 父親のことを考えると、待っているだけではだめなのだ。手遅れになってしまうことがある。母親のいるブラックウッド辺境伯領に行きたいと思った。


 アーサーは、辺境伯領についていろいろ調べだした。そして夢中になった。辺境伯領には今でも戦士と呼ばれる人々がいて、戦に命をかけていると本にあった。少年の常として、かっこよい戦いに憧れるアーサーは、すぐにブラックウッド辺境伯領に魅了されたのだ。そして公爵邸にある文献や資料を次々に紐解いていった。戦術や、戦法、策略や根回し。ブラックウッドは、アーサーにとって、憧れた戦記の世界そのものだった。


 それ以来、アーサーは日が昇ると武術訓練に励み、午後になると図書室で本を読み漁るようになった。だがアーサーが、ブラックウッドで戦士になりたいと考えるのには、憧れの他に理由があった。アーサーには今でも思い出すと悲しい記憶がある。その中でヘンリーに『情けない』と言われたことがあるのだ。だから強くなりたかった。もし王都に行く機会があったら、父親の墓の前で自分は強い戦士になったのだと報告したかったのだ。もうあなたの息子は情けない男なんかではないと。立派になった自分を見せたかった。



 両親に溺愛されたアーサーだが、一つだけつらい記憶があった。



 アーサーは時々仕事中のヘンリーをのぞきに行った。侍女にヘンリーがこの国を統べる立場にあること。自分の父親であるヘンリーがこの国を動かしていることを教えられて、アーサーの心の中は父親への尊敬と誇りで一杯になった。


 暗い廊下からこっそりとのぞく父親の姿は、窓から差し込む早朝の光を浴びて、まばゆいほどきらめいていた。ヘンリーの癖のある金髪が光を透かすのだ。


 そんな風に仕事に集中しているヘンリーだが、時折アーサーに気がついて苦笑した。

 アーサーは怒られるかもと思い、父親に見つからないように隠れていた。だが父親に気がついて欲しい、見つけて欲しいという気持ちも同時にあり、見つかると胸がどきどきして複雑な気持ちになった。


 大抵の場合は「こら、駄目だぞ」、と怒られて追い払われた。だがヘンリーの顔は笑っており、後で特別に抱っこしてもらえたりもした。


 そしてごく希に事務室に入れてもらえて、職員が食べるおやつを出してもらえることもあった。この国で特別な立場にある父親に、アーサーは特別扱いされて育ったのだ。事務室は仕事をするための部屋だから、手や書類が汚れにくいお菓子しか出されなかった。小さなタルトや固いクッキー、メレンゲ、マシュマロなど。甘くなく、子どもにはそれほどおいしくないものだが、大好きな父親から特別扱いされているのだと思うと、それすらも特別においしく感じられた。


 しかし自分は、ある時なにか失敗してしまったのだ。


 その前後のことは覚えていない。だがある日同じように父親の事務室に行った所、ヘンリーに怒鳴られたのだ。『情けない』とはっきりと言われた。


 その時なにがあったか、はっきりと思い出せないのに、当時の自分の気持ちはよく覚えている。今でも胸が引き裂かれそうになるほどの、痛みを覚えたのだ。大人になってみれば、なにか行き違いがあったのだろうと思う。きっと自分がなにかやってしまったのだ。


 だから、ただきちんと謝れば良かっただけの話だ。だがその直後に政変が起き、その話を父親に持ち出せる雰囲気ではなくなってしまった。そしてそのまま引き離され、アーサーが謝れないまま父親は亡くなったのだ。


 アーサーはその時のことを後悔していた。一言でもいい。謝ることができていたら、こんなしこりは残らなかったのに。だがもうどうしようもないのだ。これらはすべて終わったできごとで、アーサーはもう二度と、ヘンリーに謝ることができないのだ。



◇◇◇◇◇◇



 十四歳になったアーサーは、公爵位を娘に譲ったホレスに打ち明けた。


「ブラックウッド辺境伯領に行って、戦士になりたい」


 ホレスは口を開けたまま間抜けな顔をした。あまりにも途方もない言葉に驚いたが、最近のアーサーを見ているとそう意外でもなかった。


 それからはしばらく隠居としての仕事も手につかず、毎日朝から晩まで悩んだ。王宮はすでにジョン王太子の下、上手く回り出している。こんな時に、アーサーという爆弾を、ブラックウッド辺境伯領という火薬庫に投げ込みたくはなかった。優秀なアーサーを政敵にかつがれたらと思うと、気が気ではない。


 そんな時、散歩中に表で訓練をしているアーサーが目に入った。体はまだ少年だが、その瞳は覚悟を決めた大人のものだった。


 ホレスは当たり前のことに気がついたのだ。

 自分が十四歳だった時、止められたからと言って、止まっただろうか。

 アーサーはホレスの許可を待っているのではない。猶予を与えているのだ。


 ホレスはすぐにアーサーの旅の支度や準備を調え、ブラックウッド辺境伯に連絡をつけた。そしてアーサーは風のように旅立ち、たった十年で大人になってしまった姿を見て、ホレスは自分がもうどうしようもないほど年を取ったのだと感じた。だが若い世代の成長は頼もしいものだった。自分がちっぽけで、なんの役にも立たない年寄りになったことを感じるのは、そう悪いものでもなかった。



 ◇◇◇◇◇◇



 アーサーはまず憧れのブラックウッド辺境伯領で、辺境伯ジャックとその妻セシルに会いに行った。セシルは母親のクリスティーナの妹で、会ってみると確かに面影があった。向こうもそう思ったようで、懐かしく思い出話をし、そして翌日母親に会いに行った。


 クリスティーナははずれにあるわびしい領主館に住んでいた。かなり緊張しながら、訪問すると、セシルによく似た、少し子どもっぽい女性と引き合わされた。


「あの。俺はあなたの息子のアーサーです。会いに来ました」

「そうなの」


 アーサーにそう挨拶されたクリスティーナの目は、読み取れない感情がうずまき、どこか硬い表情だった。クリスティーナはまず人を疑いの目で見るため、目の前に現れた人物を疑ってかかった。だが用心深い性格のため、アーサーの言うことを否定もしなかった。


 アーサーは金髪碧眼のヘンリーと違って、よくある平凡なブラウンの髪で、子どもの頃はゆるやかなウェーブだったのに、大人になってきついカールになっていた。茶色い瞳が、黒い瞳に変化していたのも、クリスティーナが簡単にアーサーの言うことを、信じない要因になった。

 しかしクリスティーナは、どう転んでも良いように、愛想笑いを浮かべてもてなした。


 アーサーはそわそわと落ち着かず、なにか言いかけては黙り、だがとても嬉しそうに終始笑顔だった。二人は暖炉の近くのソファで、世間話をした。


 そして暗くなってきて冷え込んできたため、アーサーは台所から火種を持ってきて、張り切って暖炉に火をおこしたのだ。




 火が灯ると暗い部屋に、そこだけ特別に明るく暖かい場所ができて、暖炉に向かっているアーサーを照らした。ソファに座っているクリスティーナの前に、明かりに照らされるアーサーの姿が映ったのだ。


 クリスティーナはアーサーの背中を見て、暴力的とも言えるほどの記憶の噴水を浴びたのだ。


 夫のヘンリーは王太子という役割にもかかわらず、少し猫背な所があり、いつもクリスティーナが指でちょんちょんとつついて、注意をうながしてやった。それをされると、ヘンリーはまるで、いたずらがみつかってしまった子どものように笑った。


 クリスティーナよりも大きく、たくましく、頼りになるヘンリーの背中。わざとぶつかって体重をかけても、びくともしなかった。そして逃げようとすると、すぐにヘンリーにつかまってしまうのだ。そんな時二人はいつも子どものように、くすくす笑いが止まらなかった。


 二人で良くピクニックに行った。侍従たちに風の強い日は駄目だと言われたのに、無理を言って出かけたことがあった。敷いた敷物にお皿やグラスを並べ、シャンパンを入れて乾杯した途端に、大きな風が吹いたのだ。敷物ごと皿が転がり、シャンパングラスが割れる大惨事になった。その時はひどい目に合ったと嘆いたのに、ピクニックをしては思い出し、風が強く吹くと思い出し、グラスが割れては思い出し笑った。


 ピクニックの時はいつも、木漏れ日の下、ジャケットを脱ぎラフな格好をしたヘンリーに光が降り注いでいた。


 ヘンリーの背中。くせ毛。ヘンリー。愛しいヘンリー。ヘンリーはどこへ行ってしまったのだろう。ずっとさびしかった。ヘンリーだけはクリスティーナを見てくれたのに。必要としてくれたのに。


 そのヘンリーが目の前にいるのだ。


 しゃがんで作業する時に、猫背になる癖。体を左側に傾ける癖。少し上げている左肩から背中全体の骨格がヘンリーそのものではないか。まるで髪の色だけが違うヘンリーがいるようだ。


 ああ、どうしてわからなかったのだろう。髪の毛だって、ヘンリーのきついカールがそのまま受け継がれている。眉毛にまで少しウェーブがかかるのだ。クリスティーナは今や、ぼとぼとと音を立てて涙をこぼしていた。振り向いたアーサーが心配して、クリスティーナの元へ駆け寄った。


「俺、なにか失敗しましたか」


 クリスティーナは首をふり、アーサーの手を、元気づけるように軽く叩いた。だが口を開こうとすると、どうしても涙があふれてしまい、なにも言えなかった。だが子どもの前なのだ。見本になれるようきちんとしなければならないと思い、ぐっと自分に冷静になるよう戒めて言った。


「アーサー。来てくれてありがとう。会いたかったわ」


 嘘つきのクリスティーナが、この世でただ一人、誠実に向き合う人物が現れたのだ。



 ◇◇◇◇◇◇



 それからのクリスティーナはとても幸せだった。今までだったら、下働きの使用人に我が儘を言ったり、甘えたり、困らせたりもしたが、アーサーの目を気にして、見本になれるよう振る舞った。そのせいかだんだん性格が悪くなり、使用人に対する態度がきつくなったり、姑のようなお小言が増えたりした。


 使用人たちは、それを生温かく見守っていた。

 使用人たちは、一時期クリスティーナが、幼児退行現象を起こしたのを覚えていたのだ。あの時の甘えん坊の、うっとうしいクリスティーナに比べれば、姑バージョンのクリスティーナなど可愛いものだった。

 本人がしっかりしようと意識しているから、姑になってしまうのだ。しっかりしている女主人など大歓迎だ。幼児に比べれば。


 それにアーサーの存在も、使用人にとっては大きかった。息子のアーサーを喜ばせるためなら、使用人たちは母親であるクリスティーナの失敗をフォローしたり、なかったことにしたり、後片付けに回ったりするのは苦ではなかった。存外クリスティーナは、この館のペットとして可愛がられ、いや主人として大事にされているようだ。




 アーサーが聞きたがるので、クリスティーナはヘンリーの話をたくさん聞かせてやった。アーサーは自分が両親に大事にされていたのは本当だったと再確認し、幸せな日々だった。


 だがどうしても言葉にできないつらい記憶があった。そのことを口に出せず自分を抑えていたが、ある時、話が途切れ、ぽろっともらしてしまった。アーサーは言ってはいけないと思ったが、どうしても話すのを止められなかった。


「俺が父上の事務室で怒られたことがあって……」

「そんなことがあったの?」


「俺が悪いんです。多分父上の仕事の邪魔をしてしまって。だから怒られたのなら当然です」

「あなたはまだ小さかったのだから、気にしなくて良いのよ」


「なにかがあって……」


 アーサーは一度下を向いた。


「どうしても我慢できなくて、父上に会いに行ったんです。時々許して中にいれてもらえたから。甘えてしまったんでしょう。でもその時は、すごく怒られて『情けない』って言われたんです。その後すぐに政変があって、父上に謝る時間もありませんでした。一度墓前でいいので謝りに行きたいです」


 アーサーはその次の言葉を言おうとしたところ、急に自分の目に涙が溢れそうになって、どうしても口を開くことができなかった。簡単なことなのに、口にしようとすると、感情がたかぶってなにもできなかった。だが天才的に聞き上手なクリスティーナは、じっとアーサーの言葉を待った。そしてアーサーがこれ以上は取り乱してしまいそうで、話すのを止めようとした所、絶妙なタイミングで優しく言った。


「それで?」


 アーサーはその言葉にとつぜん冷静になり、すらすらと言葉にすることができた。


「それが父上にきちんと見せた、俺の最後の姿なんです。それなのに『情けない』と言わせてしまった。俺、本当に、情けなくて……。あの時は申し訳ありませんでした」


 アーサーは自分が、本当はなにをつらいと思っていたのかがわかった。ヘンリーに怒られたことではない。尊敬している父親に、自分が失望されたかもしれない。そのことがつらかったのだ。父親をがっかりさせ、そしてそのことがもう取り返しのつかないことになってしまった。それを正面から認めるのが、怖かった。でももうなにもできない。だってヘンリーは亡くなってしまったのだから。


 とつぜんクリスティーナが言った。


「ああ、マドレーヌの話ね」


「……は?」


 クリスティーナがもらした言葉に、アーサーは反応できなかった。なんのことかまったくわからなかったのだ。


「あなたは鳥の餌台を、毎日見に行く優しい子だったわ。だけど目の前でその鳥が、鷹に襲われてショックを受けたのよ。その後は『ちちうえに会いたい』しか言わなくなってしまって、仕方なく侍女が、ヘンリーの事務室に連れて行ったのですって」


「……」


「その時ヘンリーはとても難しい判断を迫られていて、まったく余裕がなかったのよ。ヘンリーはあなたには優しかったけど、人間としては余裕がない人だったわ。簡単にかっとなったり、悪くない相手を責めたりもした」


「……」


「それであなたが来た時に、ただ甘えにきたと勘違いして、ついきつい言葉を使ってしまったのね。あなたにはなんの落ち度もなかったのに。でもすぐにあなたの様子がおかしいことに気がついて、侍女から事情を聞きだして、後悔したそうよ。それで忙しいのにあわてて使いを出して、あなたの大好物のマドレーヌを取り寄せたの。覚えてない? ヘンリーの事務室で出されたはずよ。その時にヘンリーは謝ったはずだけど」


「……」


「あの後、何度も、『自分は父親失格だ』と言って落ち込んでいたわ。あなたは悪くないのに、ひどいことを言ったと後悔したの。もちろん言ってしまったことは、取り消せないわ。あなたは今でも覚えているほど傷ついたのよね。ごめんなさい。でもヘンリーも悪気はなかったことを、知って欲しいわ」


「……」


 アーサーはその時のことをまったく覚えていないのに、覚えていた。


 クリスティーナに言われた言葉の一つ一つが蘇る。

 朝の光をあびて、鳥たちが集う餌台。

 鳥たちの、むしろやかましいまでの鳴き声と羽音。

 その鳥たちがばたばたと浴びる水が、しずくとなって飛び散り、光を通しまるで宝石のように、きらめく光景。

 それをよく見せようと、抱きかかえてくれる侍女の柔らかい感触に、おしろいの匂い。

 ヘンリーに怒られ、事務室のソファで涙をこらえていた小さなアーサー。

 来客用のソファは表面がざらざらと固く、高級品だが子どもには親しみにくかった。

 職員たちがさらさらと走らせるペンの音。

 紙やインクのほこりっぽい匂い。

 そして香り豊かなアーモンドの匂いのする、バターたっぷりのマドレーヌ。


 ああ、そうだ。

 確かにヘンリーの事務室で、マドレーヌが出たことがあったのだ。

 事務室は仕事をするための部屋だから、手や書類が汚れにくいお菓子しか出されなかった。

 だがなぜかマドレーヌがでたことがあったのだ。

 不思議に思いアーサーはそれをはっきりと覚えていた。


 アーサーは口がきけなくなり、クリスティーナが話しかける声にも反応できなくなった。アーサーの頭の中で、眠っていたたくさんの記憶がよみがえり、頭の中はまるで光が渦をまくようにまわり、なにもできなくなった。


「それでは……俺は……」


 アーサーはなんとか言葉を紡ごうとしたが、どうしても怖くてそれ以上言えなかった。

 だがその時アーサーはとつぜん父親に、こう呼ばれた気がしたのだ。


『アーサー。私を導く宵の明星よ』


 いつも大きな手でアーサーの髪をくしゃくしゃにしながら、愛しいものを呼ぶ声。まるでヘンリーがすぐ側にいて、耳元で言われたような気がした。そうだ、思い出した。ヘンリーはアーサーのことを、そうも呼んでいたのだ。


「俺は、父上を失望させてしまったわけでは……」


 アーサーは一番恐れていたことを、やっと声に出すことができた。


「そんなわけないじゃない。あなたはいつでも私たちの誇りで、救いだったわ」


 アーサーにとっては取り返しのつかないできごとだったが、クリスティーナによると、その時にヘンリーはマドレーヌを出してくれて、謝ってくれたのだ。アーサーに失望したりなんかしていなかった。アーサーのつらいという気持ちは、その時ヘンリーに届いていた。そして今、ヘンリーの後悔をアーサーは受け取ったのだ。


 アーサーにとって思い出すのもつらかったはずの記憶が、父親が自分をちゃんと見ていてくれた記憶に変わっていったのだ。


 じわじわとお湯がしみわたるように、胸が温かくなるのがわかった。だが一つだけ気にかかることがあった。


「顔が……、どうしても父上の顔が思い出せなくて」


 クリスティーナは笑いを吹き出すのを我慢しようとして、変な顔になった。そしてめずらしく声を上げて笑ったのだ。


「鏡をごらんなさい」と。



 ◇◇◇◇◇◇



 元々自分に自信のあったアーサーは、なんの憂いもなく過ごせるようになった。


 アーサーは毎日、辺境伯の元へ行っては戦闘訓練に参加し、そして週末になると、クリスティーナの元へ帰ってきた。

 アーサーはブラックウッドでも、両親に愛されて育ったのだ。


 しかし人生とは上手く行かないもので、本人の希望にもかかわらず、戦闘面のセンスと動きはいまいちだった。

 そのかわり軍師としては、かなりの才能を見せ、ジャックの母親マーガレットに師事した。


 マーガレットの元には、ブラックウッドではなかなか認められない、戦闘能力はそれほどではないが才能ある人々が集まり、情報交換をし、人脈を形成していた。

 戦闘に特化している地とは言え、医者も必要なら、物資の調達も、武器防具の職人も必要だ。軍師として優秀なマーガレットは、その人々を組織し、表に出ないブラックウッドの影の支配者として君臨していたのだ。

 そしてアーサーには軍師の才能があり、長じて多数の戦略本を残した。


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― 新着の感想 ―
 ヘンリーとクリスティーナにとってアーサーはまるっと受け止めてくれる存在だったのかな。立場とか頭の良さじゃなく父として母として無条件にありのままに  アーサー頑張った。やらかした両親、微妙な存在である…
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