第一話 清廉だった僕の世界が、君の疑念で腐り落ちるまで
放課後の生徒会室は、いつものように穏やかな空気に包まれていた。窓から差し込む夕日が、書類の山に長い影を落としている。僕、灰ヶ谷透夜は、文化祭の予算管理表とにらめっこをしていた。生徒会副会長として、この仕事は僕の最も重要な役割の一つだ。
「透夜、まだやってるの?」
振り返ると、彼女、柊瑠璃花が笑顔でこちらを見ていた。吹奏楽部の練習を終えたばかりなのか、少し息が上がっている。
「ああ、もう少しで終わる。今日は早く帰れそうだ」
「よかった。じゃあ、一緒に帰ろ?」
瑠璃花の屈託のない笑顔に、僕も自然と微笑んでしまう。付き合い始めて一年半。彼女といる時間は、いつも僕の心を温かくしてくれた。
「会長、副会長、お疲れさまです」
扉が開き、爽やかな声が響いた。サッカー部のエース、鷺沼陽暉だ。整った顔立ちと人当たりの良さで、学年でも人気が高い。
「鷺沼くん、どうしたの?」
「いや、文化祭の件で相談があって。サッカー部の出し物なんですけど、予算について聞きたいことがあって」
陽暉は僕の机に近づいてきた。その表情は友好的で、まさか彼がこれから僕の人生を破壊する存在になるとは、この時の僕には想像もできなかった。
それから数日後、陽暉は頻繁に生徒会室を訪れるようになった。最初は文化祭の相談だったが、次第に雑談も増えていった。
「灰ヶ谷って、マジで真面目だよな。俺、そういうの尊敬するわ」
「そんな大したことじゃないよ」
「いやいや、生徒会の仕事って責任重いだろ?特に予算管理とか。一歩間違えたら大変なことになるし」
陽暉の言葉に、僕は苦笑した。確かに、生徒会の口座を管理する立場は責任が重い。でも、それは信頼されているからこそ任されている仕事だ。誇りに思っていた。
ある日の昼休み、僕は瑠璃花と中庭で弁当を食べていた。
「ねえ透夜、最近陽暉くんとよく話してるよね」
「ああ、文化祭の相談でね。熱心だから助かってるよ」
瑠璃花は少し考え込むような表情を見せたが、すぐに笑顔に戻った。
「そっか。陽暉くんって、みんなに優しいから人気あるよね」
その時、僕は彼女の言葉の裏に潜む何かに気づくべきだった。でも、僕は何も疑わなかった。瑠璃花を、そして自分の周りの世界を、完全に信じていたから。
運命の日は、突然やってきた。朝のホームルーム前、教室に入ると、何か様子がおかしかった。クラスメイトたちが、僕を見て小声で話している。視線が、まるで何か汚いものを見るように冷たい。
「おい、灰ヶ谷」
担任教師に呼ばれ、職員室へ向かった。そこには校長、生徒会顧問、そして深刻な表情をした大人たちが揃っていた。
「灰ヶ谷くん、生徒会の口座から十万円が不正に引き出されている。これについて、何か知っていることは?」
頭が真っ白になった。
「え、どういうことですか?」
「先週の金曜日、君の承認サインで資金が引き出されている。しかし、その使途が不明なんだ」
「そんな、僕は何も引き出していません」
顧問の先生が、書類を僕の前に置いた。そこには確かに、僕のサインに似た筆跡があった。でも、これは僕が書いたものじゃない。
「灰ヶ谷くん、正直に話してくれ。何か事情があるなら」
「本当に身に覚えがないんです。これは僕の字じゃない」
必死に訴えたが、大人たちの目は疑念に満ちていた。さらに追い打ちをかけるように、生徒会顧問が言った。
「それから、君のロッカーからこれが見つかった」
差し出されたのは、僕の筆跡で書かれたメモだった。そこには「文化祭後に返済」「一時的な借用」などという言葉が並んでいる。
「これも、僕が書いたものじゃありません」
でも、誰が信じてくれるだろう。物的証拠は揃っている。僕のPC使用記録まで、不正引き出しの日時と一致していると言われた。
「まずは調査が必要だ。灰ヶ谷くん、当面は生徒会の仕事から離れてもらう」
職員室を出ると、廊下で数人のクラスメイトが僕を見ていた。その目には、軽蔑の色が浮かんでいた。教室に戻ると、机に「泥棒」という文字が書かれた紙が置かれていた。
昼休み、僕は瑠璃花を呼び出した。
「瑠璃花、聞いてくれ。あれは誤解なんだ。僕は何もしていない」
瑠璃花の目は揺れていた。信じたいという気持ちと、疑念が交錯しているのが分かった。
「透夜、私は信じたいけど」
「本当なんだ。誰かが僕を陥れようとしている」
その時、陽暉が近づいてきた。
「灰ヶ谷、大変なことになってるな。俺も信じたいけど、証拠があるって聞いたぞ」
「鷺沼、君は」
「瑠璃花、お前が一番つらいよな。好きな人がそんなことするなんて信じたくないだろうけど、現実を見た方がいい」
陽暉の言葉は、一見すると瑠璃花を心配しているように聞こえた。でも、その目には僕には見えない何かが宿っていた。
「透夜、私」
瑠璃花は涙を浮かべていた。
「ごめん、私、少し考える時間が欲しい」
彼女は走り去っていった。陽暉が僕を見て、ほんの一瞬だけ、口角を上げたような気がした。でも、すぐに心配そうな表情に戻る。
「灰ヶ谷、俺も力になりたいけど、今は何も言えないな。でも、もし本当に無実なら、必ず証明できるはずだ」
その言葉は慰めのようで、実は僕の立場をさらに悪化させるものだった。陽暉が去った後、僕は一人、中庭のベンチに座り込んだ。
次の日から、いじめが始まった。机の中に「金返せ」というメモが入っている。上履きが隠される。SNSでは「灰ヶ谷透夜、生徒会の金を横領」という投稿が拡散され、コメント欄は誹謗中傷で溢れていた。
「マジで最低」「信じてたのに裏切られた」「顔は真面目そうなのにな」
クラスメイトたちは、僕を避けるようになった。廊下ですれ違っても、あからさまに距離を取る。誰も僕の言葉を聞こうとしない。
瑠璃花とも、距離ができていた。彼女は僕を避けるようになり、話しかけても短い返事しか返ってこない。そして、気づいた。瑠璃花の隣に、いつも陽暉がいることに。
ある放課後、僕は校舎裏で二人の会話を偶然耳にしてしまった。
「瑠璃花、無理しなくていいんだぞ。透夜のことで悩んでるんだろ?」
「陽暉くん」
「俺、お前のこと、前から気になってた。透夜がああなる前から。でも、お前が幸せそうだったから、何も言わなかった」
「私、どうしたらいいか分からなくて」
「俺でよければ、いつでも話聞くよ。お前を傷つけるやつは、俺が許さない」
瑠璃花が泣いているのが分かった。そして、陽暉がそっと彼女を抱きしめた。僕は、その場から逃げ出すことしかできなかった。
それから一週間後、決定的な場面を目撃することになる。放課後、写真部の活動で使う機材を取りに、普段は誰も来ない旧校舎へ向かった。そこで見てしまった。階段の踊り場で、瑠璃花と陽暉がキスをしている場面を。
時間が止まったような感覚だった。瑠璃花の目は閉じられ、陽暉は彼女の腰に手を回していた。二人は、まるで恋人同士のようだった。僕が立っている気配に気づいたのか、二人が離れた。瑠璃花の顔が青ざめる。
「透夜」
「瑠璃花」
僕の声は震えていた。陽暉は、まるで悪びれる様子もなく、瑠璃花を庇うように前に出た。
「灰ヶ谷、悪いけど、瑠璃花は俺が守る」
「守る?君が?」
「ああ。お前みたいな、彼女を裏切った人間からな」
瑠璃花が顔を上げた。その目には、涙と共に、ある種の決意が浮かんでいた。
「透夜、ごめん。でも、もう透夜は私の知ってる人じゃない。あんなことして、平気で嘘をついて」
「嘘なんてついてない。僕は何もしていない」
「いい加減にして!証拠があるのに、まだそんなこと言うの?」
瑠璃花の声が響いた。
「陽暉くんは、私が一番つらい時に支えてくれた。話を聞いてくれた。透夜は、自分の保身ばかりで、私の気持ちなんて考えてくれなかった」
「それは」
言葉が続かなかった。陽暉が、まるで勝利を確信したような表情で僕を見ていた。
「灰ヶ谷、潔く認めろよ。お前の負けだ」
その言葉に、何かが僕の中で音を立てて崩れた。信じていたもの、大切にしていたもの、すべてが砂のように零れ落ちていく。
「そうか」
僕は静かに言った。
「分かった。もういい」
踵を返して歩き出す。背後から瑠璃花の泣き声が聞こえたが、振り返らなかった。振り返ったら、僕は本当に壊れてしまいそうだったから。
その夜、家に帰って、僕は初めて声を上げて泣いた。部屋の隅で膝を抱えて、子供のように泣いた。でも、涙が枯れた時、僕の中には不思議な静けさが訪れていた。
翌日から、僕は変わった。いじめを受けても、無表情で耐えた。瑠璃花と陽暉が廊下で手を繋いで歩いていても、何も言わなかった。クラスメイトたちは、僕が「諦めた」「負けを認めた」と思ったようだ。でも、違う。僕は諦めていなかった。ただ、戦い方を変えただけだ。
夜、パソコンの前に座り、僕は調査を始めた。生徒会の口座が不正に引き出された日時。その時間帯の学校内の動き。防犯カメラの映像。すべてを洗い出していく。学校の防犯カメラには死角がある。陽暉はそれを熟知していたはずだ。でも、完璧な犯罪なんて存在しない。必ず、どこかに綻びがある。
そして、僕は見つけた。学校の正門前にあるコンビニの防犯カメラ。その映像には、制服を着た陽暉が、問題の日時に学校から出て、銀行のATMに向かう姿が映っていた。さらに調査を進める。陽暉のSNSアカウント。表のアカウントは爽やかな投稿ばかりだが、ネット上の掲示板で彼らしき人物を見つけた。そこには、「灰ヶ谷を陥れる計画」について友人と話している履歴があった。
証拠は揃い始めていた。でも、まだ足りない。完璧に、誰の目にも明らかな形で、真実を突きつけなければならない。
ある日、幼馴染の氷堂絢音が僕に声をかけてきた。彼女は別のクラスで、この騒動の後も変わらず接してくれる数少ない人間だった。
「透夜くん、大丈夫?」
「ああ、大丈夫だよ」
「嘘。私には分かる。でも、私は信じてる。透夜くんがそんなことするわけない」
絢音の言葉に、久しぶりに心が温かくなった。
「ありがとう、絢音」
「何か手伝えることある?」
「いや、大丈夫。もうすぐ、すべてが終わる」
絢音は不思議そうな顔をしたが、それ以上は聞かなかった。
そして二週間後、僕は最後の証拠を手に入れた。銀行の協力を得て、問題の口座から引き出された現金の行方を追跡。その金は、陽暉の個人口座に振り込まれていた。さらに、筆跡鑑定の専門家に依頼した結果、あのサインは偽造されたものだと証明された。すべての証拠が揃った。
月曜日の朝、僕は行動を起こした。まず警察に証拠を提出。次に、学校にも同じ証拠を提出。そして、SNSで真実を公開した。防犯カメラの映像、銀行の記録、掲示板の履歴、筆跡鑑定の結果。すべてを、誰もが見られる形で公開した。投稿にはこう書いた。
「二週間前、僕は生徒会の資金横領の疑いをかけられました。でも、それは冤罪でした。真犯人は、鷺沼陽暉。彼は計画的に僕を陥れ、その間に僕の彼女を奪いました。これが証拠です」
投稿は瞬く間に拡散された。学校中が、いや、地域中が騒然となった。そして、すべてが動き出した。




