忘却の雨の中
…ああ、まただ。また俺はこの夢を見ている。
大雨の中、1人傘もささず立ち尽くしている夢だ。
濡れた白いTシャツが身体に張り付いて気持ち悪い。
「…もういい加減慣れてしまったな。」
誰に言うでもないボヤキを言う。
ここに居ても埒が明かないのでいつものようにゆっくり歩き出した。
薄暗い街はこれから夜になるのか日が昇るのかも分からない。
誰も居なければ傘も無い。いや、こんなにびしょ濡れなら今更傘をさしても意味が無いだろう。
1度雨宿りしたこともあったが雨は全く止みそうもないので歩き続けることにしたのだ。
同じような家並みをひたすら歩く。
どこに辿り着くか分からない。いや、そもそも辿り着くのかさえも分からない。
だけど俺は雨に濡れて重くなったジーンズにイラつきながらも歩いた。
だって、この夢は、歩く事しか出来ないのだから。
―いつからだろう。この暗くて途方もない夢を見始めたのは。
好きな人の夢が見たい、なんて乙女チックな願望は無いけど、せめてもう少し幸福な夢が見たい。
この陰気な夢以外の夢を見たのはいつが最後だろうか…。
そこで俺は、はっ、と気付いた。
あれ?俺そもそも、この夢から覚めた事ってあったっけ?
何度も繰り返し見ている夢かと思っていたけど、繰り返し同じ道を歩いてるだけじゃないのか。
…いや、そもそもこれは夢なのか。もしかして現実なんじゃないのか。
焦りと共に今まで感じたことの無い寒気が襲ってきた。
この寒気は雨に濡れたからか。それとも…。
ふと視線を感じて横を見ると小さい女の子がこちらを見ていた。
この夢で初めて見る俺以外の存在に驚いた。
「そこでは雨に濡れてしまう。こちらに来ると良い。」
見た目とは裏腹に大人びた口調の少女の後ろを見ると確かに晴れ間があるのか明るくなっている。
ああ、やっとこの雨から解放される。
俺は少女の後を着いて行こうとした。
突然立ち止まった俺に少女は不思議そうに振り返る。
…なんだろう。
向こうに行けばこの雨から解放される。
だけどなんだろう。向こうには嫌気がさすような、どうしようもない程のうんざりするような何かがあるような気がする。
「行かないのか?」
少女が俺に問う。
「俺は…俺はここで良い。」
この鬱陶しい雨も、向こうのろくでもない世界よりはマシな気がする。
馬鹿らしい選択かもしれないが、俺はこの世界を選ぶことにした。
「そうか…やっぱり君はそちらを選ぶんだね。」
少女は少し悲しそうに微笑むと明るい方へと走って行った。
――これでいいんだ。
冷たかった雨も暖かくなってきた。
いや、違う。これは…俺の血液だ。
ああ、暖かいなぁ。
血まみれになりながら俺は思い出していた。
「これでいいんだ。…どうせ向こうに行っても、俺はきっとまたこちらに戻って来てしまうから…。」
俺のつぶやきは雨の音にかき消され、俺の姿も静かにモヤに飲まれて行った…。
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「…15時30分、お亡くなりになりました。」
医者の冷静で非情な声に女性が泣き叫ぶ。
「ああ!健二!」
「母さん…!落ち着いて!」
過呼吸になりそうな女性を旦那らしき男性が支える。
「お兄ちゃん…どうして飛び降りなんか…。」
まだ幼い顔をしてる男の子が涙を流しながら横たわっている男の顔を覗き込む。
「ああ…お兄ちゃんは…楽になれたんだね…。」
男の安らかな顔を見た男の子は消えそうな声で呟く。
残した者の安らかな顔と対照的に、残された者の悲痛な叫びはいつまでも続いていたのだった――。