深詠子の思い6
「でも一向に描けない画工は、この町で那美さんの可怪しな噂も耳にした。その内に別れた夫が最後に満州に行くと金をむしりに来た。駅まで兄を見送りに来て、発車する駅の窓越しに帰した夫の顔を偶然、見た。その那美の何とも謂えぬ表情に、この物語の真意があったのよ」
「詳しく言われて、こうして見て回っても、ただ昔の明治の面影しかないんだけど……」
せっかく深詠子が熱心に「草枕」を説明しても知らない藤波にすれば申し訳なさそうにするしかない。
「いいわよ。あなたは知ろうと努力する人だから」
此の人はお母さんの考え方をもっと早く知るべきだった。ただお父さんの影響が大きくて、鋭い感性が埃を被ってしまった。そこをあたしがしっかりすればいい。
夕方に両親に挨拶して、彼女の実家とは良好な関係が築けた。此の二カ所は自宅から車だと直ぐに行ける身近な所で最初に案内した。粗削りの藤波を、深詠子は期待して案内した。無垢だからそれなりにやり甲斐もあった。二日目はじっくりと阿蘇を廻って、三日目の朝の新幹線で昼過ぎに帰宅した。
「磨美さんは草枕を読んだよね」
「読んだわよ」
「なら判るだろう、彼女が訴えようとしていたものが」
「深詠子さんが啓ちゃんに見せたかったのはその二つだけ?」
深詠子が言いたかったのは、可奈子の問いで十分だった。
文学作品に溺れるように読み耽ったのは深詠子と別れてからだ。それも真意に迫ろうと彼女が口にした作家の作品はもとより、彼女の考えに近い作品も片っ端から読んだ。
簡素な祭壇に置かれた深詠子の遺骨を前にして、語った藤波の想いに、可奈子が真っ先に応えた。
「深詠子さんは草枕の那美さんと重ね合わして、知ってもらおうとしたけど、この物語を一から教えるのに気怠さを感じて他に何も説明しなかったのね」
「それは単なる作品や人物への憧れであって、深詠子があなたに望んだわけではないでしょう」
と磨美は歯痒かった。
「望んだ ! だから深詠子は案内したんだッ」
深詠子の遺骨を前にして思わず力が入った。それ以上に彼女の心の奥底を知る努力を怠ったと詫びた。




