深詠子の思い3
漱石が桃源郷と称したように、のんびりやりたい者には、これから行く小天は丁度良いかも知れない。これが彼女の配慮なら、あの墓参りは何だったのか未だに解けぬ謎だ。
途中で矢張り小説のモデルになった峠の茶店に寄った。藤波には何で国道から逸れた何もない場所を見学する理由が判らない。駐車場から少し歩いた小径に古い茅葺きの茶店があった。中に入ると茶店とは名ばかりで、所狭しと色んな資料が収められたガラスケースが並べられてた。
「何ですか、此処は?」
「ご覧の通りの茶店」
「でも営業してないですね。向こうの団子汁屋とどう違うんですか」
「隣は付随して出来た店ですよ。京都でも新選組の屯所跡には別な店があるそうですね。あれと似たもんです」
とお兄さんが名所旧跡に目を付けた店だと謂われて納得した。此処が夏目漱石とどう関係しているのかは後のお楽しみ、と報されないのが気になった。
車はなだらかな峠を過ぎて視界が開け、小天温泉那古井館が見えた。長閑な田園風景が広がる向こうに有明海も見える。お目当ては此処でなく、百メートル離れた前田家別邸だ。案内されたその部屋で、初めて昔の千円札の肖像画と同じ写真に対面した。
「何で此処に千円札の肖像画が飾ってあるんですか」
「最初に言ったでしょう。此の人が書いた草枕のモデルになった場所だと。特にさっき見た風呂場、あれも物語では重要な場所なのよ」
そう云われても、そもそも藤波は「草枕」と謂う小説を知らない。
「啓一郎さんが千円札の夏目漱石しか知らないのは仕方ないけど勉強すればいいのよ。知らないことを知れば、それをそのままにする人じゃないでしょう、あなたは」
と微笑みながら励ましてくれた。彼女の此の優しさに甘えすぎて、此の言葉に応える努力を一年間怠った。今にして思えば此の忠告を肝に銘じていれば、こんな不幸は訪れなかった。




