藤波の店3
「これも別注か」
「何言うてんね。壁に貼りだしたお品書きの一番端に載ってるやろう」
そうか、とやっさんは眼鏡を上向けて目を細めて、ああそう言えば書いたーる。
「やっさん、それ老眼か近眼かどっちなんや」
店のレジ上にあるテレビから丁度一家四人の無理心中事件の続報が流れた。
此処暫く事件がなかっただけに、今朝放送されたこのニュースに、毎日が日曜の連中はどうやら釘付けらしい。
「これは今朝、見たが。アホなァ事しょったなァ」
「ああこれか、亭主は死にきれんとどっか行ってしまいよったあの事件か」
「ニュースの速報では、その亭主が今さっき近くの交番へ自首したそうやでぃ」
「ほんまにアホなァやっちゃなあ」
「昔と違て、今はなんぼでも見てくれる施設があるのに無理心中しおって。わしらみたいに戦後のドサクサに生まれたもんからしたら考えられんなあ」
「そうや、わしらの子供の頃は喰うもんなくて、おやじとお袋がひそひそと一家心中の相談してたんを子供ごころに憶えていたけど、みんな必死で一歩手前で何とか乗り切った連中ばかりや」
「それで藤波のおやっさんは『どん底』って付けたんやで」
生前の親父は、場末のどん底の居酒屋やさかい付けたと聞いたが違うんか……。
此処に集う一夜の酒に酔う連中は、遠い昔に一度は生活のどん底を這いずり回り、命の瀬戸際まで追い詰められて這い上がったから今日がある。藤波はそんな人々が築いた安定した社会になって生まれた。下村もその一人だろう。だが一昔前に苦労した人より、物質的には恵まれた時代の藤波には、精神を見つめ直す余裕が出来ている。
「同じ年代でも、あんたはあんな余計な事はせんやろう。なんせあの親父さんが真面にあんたを育てたさかいなあ」
藤波にすればこの店をやるまで、それこそ数え切れないほど職を変えて、帰ってくる度に親父に怒鳴られて真面やないと思った。藤波のおやっさんは怒鳴ってない、それは受け止め方次第やと説教された。




