谷を渡る雲5
「第一、これじゃ此の子の存在は匂わせているだけでハッキリ言ってないじゃないの」
と可奈子はまた真苗の前に屈み込んだ。
「真苗ちゃん、あんた誕生日いつなの?」
「六月二日」
「じゃあこの前まで七歳で、先月に八歳になったばかりなの」
可奈子は立ち上がり藤波を真面に見据えた。
「深詠子さんと別れたのは鴨川の納涼床が有るから夏ね、じゃあ真苗ちゃんはもうお腹の中に居たんだ」
「おいおい、勝手に決めるな。でもあの時は俺も知らないけど、本人はどうなんだ」
「あたしは妊娠したことがないから知らないけど、計算的には合ってる」
「それは何の恋愛方程式なんだ」
「敢えて言うなら恋の熟成度を知る方程式なの」
そんな洒落たアドリブを考えられるほど、可奈子は真っ当な恋をしてきたのか、と疑うと気が緩んだ。
「じゃあ訊くけど、その方程式には欲情と愛情の線引きは何処にあるんだ」
「恋しているときに、そんな野暮な線引きが出来る訳ないでしょう」
「じゃ終わってからか」
「言っとくけど、別れた彼とはそんな線引きは一度もなかったのよ。ただ一緒に居たなかっただけ、でも深詠子さんは違うわよ。今でも心の何処かにあなたが居たからこんな手紙を寄越したんよ」
「それは勝手だと思うけどなあ」
さっきの剣幕は何処へやら、と可奈子は心の中で嗤った。
「じゃあどうして堕ろさなかったの。あなたの謂う烈しい情念をぶっつけた人が……」
「そんなもん知るか!」
「あなたは切ない女心がなにも判ってないのね!」
真苗の足は地面に着くか着かないかの中途半端だ。椅子を支える四本の棒がもう少し短ければ、真苗の足は宙ぶらりんにはならない。仕方なく真苗は四本の支柱を等間隔で繋ぐ横の棒に足を掛けると、丁度両足は安定するが、バランスを崩すと椅子ごと倒れてしまう。その姿勢でカウンターに両腕を掛けて、家の親と雰囲気が違う二人の言い争いに、真苗は慣れてくると急に「お腹空いたぁ」とポツリとか細い声で訴えた。
「ウッ、真苗ちゃんいつ食べたの」
「朝から何も食べてなぃ」
「あたし達は朝、食べたけどこの子はまだなんだ。もうお昼とうに過ぎてる」
「しゃあない、ピラフでも作るか」
と奥のガスコンロに火を付けて、フライパンに冷蔵庫からあり合わせの物をご飯と一緒に炒めて三人分作った。




