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風は谷を渡る雲を追う1

 この手が何をしたと言うのだ。と突然発した彼の言葉は、象徴的な存在である深詠子に抱いた妄想に対して許しを乞うているのか。これが仕事以外では分別のない男の、精一杯の愛情表現なのか。

 おそらく本など読んだことのない下村にとっては、精一杯の心の叫びかも知れない。藤波にすれば陳腐な言葉に、改めても何も言えない。見詰めた手に向かって下村が叫んでも、自分からの逃避に過ぎない。もっと真面に自分と向かい合えと言いたい。此処で話を中断させるわけにはいかない。もっともらしい言葉で繋がないと、イタコではないが亡くなった深詠子の魂を呼び戻せない。

「その手の感触、が、そのまま脳裏に伝わったんですか?」

「確かに最初はそうだった。それが、別な姿と入れ替わったんだ」

 仕事しか考えなかった下村が、何人もの別な人格を持ち合わせていない。それでも異常に精神が動揺すれば、本来の姿とは掛け離れた行動に走る。その最高潮に達した時に人をあやめたとすれば。それがあの日キッチンで手にした包丁で、深詠子の苦労を解消してやりたいと、追求すれば追求するほど、常人でも考えられないほど精神が病んできたのだ。そこまで追い詰められた精神を浄化するには、今、手に持った包丁に委ねるしか判断の出来ない男だ。

 愛なき結婚を選んだ下村に取って、深詠子はアイドル的なお飾り、菩薩かも知れない。だが藤波に取って深詠子は、人としての生きる喜びと悲しみを与えてくれた人なんだ。人は悦びだけで生きるんじゃない、哀しみを伴って生きるから美しく尊い、と深詠子で知った。菩薩でない深詠子に感謝する。

「どうしてなんです」

「さっきまで家事をこなす深詠子が実在していた、それが全く別な深詠子にすり替わって、とても手の届かない雲の空の彼方から見下ろしているんだ」

「まさか、弥勒菩薩のように見えたんですか?」

「よくわからない」

 当たり前だ。弥勒菩薩は釈迦の入滅後の五十六億七千万年後にこの世に現れるのだ。お前のように無慈悲な者の前に現れるか、待てよ現世に苦しんでいる人の前に現れるとすればそれは深詠子の化身か。ならば何故、俺の前には現れぬ。それだけ俺は慈悲深く苦しみに耐えられる者なのか。深詠子、お前が八年前に非人情と嗤った俺が……。




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