心の闇に光を3
磨美さんに散々な目に遭っている下村には、薄氷を踏む思いで恐る恐る踏み出した最初の一歩を、しっかりと踏み締められたあの感触が、あの事件が起きる朝まで残っていた。
「深詠子は俺に意見しながらも、家のことは甲斐甲斐しくやってくれていた。それがいたたまれなくなったんだ」
「急にですか?」
「それはない。誰でも急にあんな大それた事をやるわけはないでしょう。すまないすまないと思い続けると何処かに、それが積もり積もっていつか頂点に達する」
朝食が済んで、後片付けも終わってもそのまま居残る下村は、ダイニングテーブルから定まらない視線で台所を見ていた。そこにあるのは深詠子がいつも使っている包丁しかない。定まらない下村の視線の行き着くところも、いつも家族のために料理をしている包丁に定着した。
「それはどうしてですか?」
「家族を支えているのは俺だ、がそれを目に見える形にしてくれているのは深詠子だ」
そう思って台所に近付き、深詠子が毎日使っている包丁を思わず手に取った。
「その時は、まだ、今の境遇に悲観してなかったんですか?」
「それはなかった。それどころか包丁を持つ手から深詠子の励みが伝わった」
「どんな風に」
「今までは『あなたと一緒になったのはある人のためだ』と云われていたのが、あなたの為ですと持った包丁から伝わった。これに手がしびれた」
嘘だ! 深詠子がそんなこと云うはずが無い。下村の妄想だ! 落ち着けッと必死で藤波は自分に言い聞かせた。当の下村は、今一度その手をしみじみと見つめ直していた。