高嶋弁護士5
最初から手に掛けなければ良いが、あの時は必ず直ぐに自分も死ぬ覚悟の上だった。が、今、下村は深詠子さんを殺してしまった事を後悔している。
「それがこうして死にきれずに一日中、彷徨った。信仰心のない下村は誰に許しを請えばいいんだと、あの日が一番苦しんだそうです」
そうか、下村が死の恐怖に最初に目覚めたのは二階の階段で真苗を見て持っていた包丁の力が抜けたときだ。あの時、真苗はお父ちゃんは持っていた包丁をダラリと下向けた。その一瞬に体当たりして真苗は逃れた。あの一瞬から下村は追い詰められた苦しみと対峙し始めたんだ。
「何か思い当たる事でも有りませんか」
「急にそう云われても思い当たらないですよ」
「そうでしょうね。それでもあなたになくても下村にはあるんですよ」
「そう言いますと……」
「今まで何度接見しても下村は一向に気持ちをハッキリさせない。それで業を煮やして私はあなたにこうして伺ったんです」
藤波は珈琲を飲み干していたが、高嶋は全く手を付けていない。それどころか仕切りに時間ばかり気にしていた。どうやら下村との面会の接見時間が迫っているようだ。
「それで僕に何を聞き取りに来たんです」
「聞き取りじゃ埒が明かない。下村の考えを変えられるのはあんたしかいないんだ」
「それはないでしょう。だってまだ会って数日しか経ってないんですよ」
「でもあんたの噂話を下村は、八年前から神話のように深詠子さんから叩き込まれているようです」
「そんなの勝手に決めないで下さいよ。誰がそんな埒もない事をまさか下村が言ってたんですか?」
「そうです。奥さんにすまないすまないと留置場で毎日うなされている」
「それは、取り調べの刑事が言ってるんですか」
「検事が手の内を明かしませんが、それで聞き取りが乱されて調書が中々取れてないようですよ」
「そうかなあ、二回ほど下村と面会しましたがそんな様子はなかった」
「そりゃあそうだ。昼間はいたって普通だが、どうしても警察が事件の調書を取ろうと当日の話になると急に苛まれるそうですよ」