酒巻の人生訓1
此処にやって来る馴染み客の負け惜しみに近い愚痴は、藤波啓一朗の父が作った此の店の屋号に近い。父はどん底でなく、這い上がるのを諦めた客を見ると、どん詰まりにするつもりだったのか。まあ、高度成長期を生き延びた連中の反骨精神の気持ちだけは持たせて、此処から立ち上がれ、と「どん底」にしたのだ。息子の藤波もその一員の要素はあった。それより過酷な下積みを送った酒巻が、連中の言い草にちゃんちゃら可笑しいと、冷やの日本酒を呑みながら鰯の丸焼きを咀嚼している。
「あの心中事件の何がおかしいのですか」
ざわつく周囲をよそに藤波が真っ先に訊ねた。
「わしらの時代、終戦前後の二十年と比べればそれゃあ、可笑しい」
酒巻以外は背開きのぐじの塩焼きやメバルの煮付けだが彼は鰯の丸焼きを食べていた。
「今のお前らは恵まれすぎてる。何でも苦労せんと手に入るさかい何とかして、ものにしたいというもんがない。根性が廃れきってる」
椅子まで替えて、と言って直ぐ上を見上げ、まあ、これはしゃないと訂正した。酒巻さんはスッカリ真苗ちゃんにメロメロなんだ。
「それで酒巻さんの時代はどやっちゅうんです」
「あんたらは戦後、今の上皇さんと美智子さんの御結婚式前後に生まれたんやろう。わしが生まれた昭和十年代はきな臭い時代で、米国相手にするともろに苦しくなった。最後は悲惨やけど、戦後はそれに輪を掛けてもっと悲惨やった。裸電球にラジオしか使ってへんのに電気代が払えんと止められそうになったことが何回かあった」
「それでみんな何とかやりくりしてたんでしょう」
「当たり前や、そやさかい今日のわしが居るんや。お前らクリスマス以外に蝋燭の灯りで飯食った事があるんか。今はええ時代で何でもあるが、わしらの頃は肉ちゅうたら鯨や、あれをよう食べさせられた」
「贅沢やなあ」
「なに言うてんね。あの頃は鯨しかなかった。牛なんて高値の華で給料日にしか家族は食べられへん、今はどやねん。スーパーで近所の主婦が毎日買い物しとるし、牛丼も町に溢れてる」