居酒屋「どん底」1
考えが纏まらないまま開店時間になった。いつも通り親の代から書かれた屋号の「どん底」の暖簾を持って表に掛けて、店に入る前に源さんがやって来た。さっきまで立花の喫茶店に居て、娘の様子を聞かれ「そんなに気になるんやったらおやっさんが行ったらどうや」と言って代わりに様子を見に来たようだ。
「噂では、可奈ちゃんは余り店には出へんさかい、立花のおやっさんがえらい心配してなあ」
「可奈子の話ではまだ照れくさいようです」
さよか、と源さんは勝手知ったる馴染みの店に、ずかずと入る。そうなると後に腰を屈めて続く藤波では、どっちが店の主か見分けにくい。
椅子と壁のお品書きが紙からホワイトボードに変わった。もっと変わったのは出て来るメニューだ。今までは簡単な揚げ物とか焼き物が中心が、煮ものに南蛮漬けが加わった。
早速カウンターの肘掛け椅子に座る。
「やっぱし慣れは恐ろしいなあ。先代から何十年と親しんだあのガード下の靴磨きの丸椅子が、こうして座り出すと此の居酒屋には場違いな椅子も様になって来た」
それも出し物のメニューが変わった所為と云われた。いつもの直ぐに食べられる枝豆でビールを呑みだした。
「なんや、可奈ちゃんは初日だけで今日も出ずじまいか、それに真苗ちゃんもか。あの八十の長老があの子のお陰で十は若返った云うてんのに、残念がるでぃ」
ここへ来る常連客はほとんどが還暦過ぎの六十代だ。そこからあの長老は一回り上らしいが歳は分からない。
「あの人はほんまに八十ですか?」
「そやなあ、幾つに見える。いつも来る連中もハッキリした歳は知らん。わしらは戦後派やけどあのじいさんだけは戦中の話を知ってて、みんなそう思ってる。そやさかい、知らんのはわしらだけで、あのじいさん他に此の近辺のこともよう知ってる。亡くなったあんたのお父さんのことも詳しいで」
鰯にモロコにワカサギ、ニシン、ホッケなど、ほとんど簡単に焼くか天ぷらのどっちかが、可奈子が来てから酢醤油に漬け込んだり、煮出して出すようになった。よその店へ行った者まで此処に来だした。