『月を横切るハエ』
暗い部屋の窓辺を、一匹のハエが月を横切るように飛んでいた。ふらりふらりと、まるでかぐや姫を迎えに来た使者のように。
どうやらハエは窓の内側にいるらしい。月に影が横切るたびにコツコツとした音が耳に届く。
愚直に突進し続けるその姿は、届かない外の世界を羨んでいるようにも、体の限界に挑戦しているようにも僕には思えた。
僕は窓を開けてやることにした。ハエは勢いよく飛んでいく。自由を喜んでいるのだろうか。あるいは余計なことをしやがってと憤っていたのだろうか。僕にはわからない。いずれにしろ、ハエの姿はもうどこにも見えなかった。
窓の外。九月の凪いだ夜空に浮かんでいるのは満月で、世間では中秋の名月と呼ばれている日だった。
煌々と輝く月が街中の光を反射するように僕の身体を照らしている。美しい十五夜の月。しかし僕の心を捉えることはできない。
花より団子……いや、この場合は月より団子と言うべきだろうか。せっかくの名月にもかかわらず、僕の意識は別にあった。
夜の闇が僕を包む。薄暗い感情が深い穴へと僕を誘っている。
その時、手に持っていたスマホが震える。僕は飛びつくように画面を見た。ネットショッピングのクーポンを取得した旨の通知に落胆し、スマホをベッドに放り投げる。
彼女からの連絡を待っていた。去年の今頃からイギリスに留学している彼女からの連絡を。
今日は僕の誕生日。なのに、未だメッセージは届かない。
忘れられているのだろうか。不安が頭をもたげるたびに、イギリスとの時差を考えて心を落ち着かせる。あっちはまだ正午を回ったばかり。慌てるような時間じゃない。
ハエに憧れてしまいそうだった。あのハエのように空を飛んでいけたらと思う。月を目指して飛んでいけば、いつかはイギリスにまでたどり着けるだろう。地球は丸いのだから。
一時間が経ち、二時間が経った。未だ何の連絡も届かない。
女々しくもメールを送ろうかと逡巡していると、ふいに呼び鈴が鳴った。
どうせ何かしらの勧誘だろうと、居留守を決め込むことにする。
しかし訪問者は強情で、二度三度とチャイムが繰り返される。
鳴り続ける音にいい加減うんざりし始めたところで、再びスマホが震えた。画面を見て、僕は慌てて部屋を飛び出した。
「居留守とはいい度胸してるね」
と、部屋の前にいた彼女は言った。
「どうしてきみがここに……」
目を丸くして茫然と呟いた僕に彼女は笑って、
「さて問題です。わたしはなぜここに来たのでしょうか」
左手の拳を向けてくる。親指から人差し指、中指と順番に伸ばしていきながら、
「一、連絡の少ないキミを罵るため」
「二、浮気してないかの抜き打ち調査」
「三、サプライズパーティをするため」
最後の言葉とともに彼女はにっこりと微笑んだ。
「Happy Birthday to you」
ネイティブな発音に笑いそうになるよりも先にキスされる。そっと触れるようなキス。唇が離れていくと、そのまま僕の首に腕を回してくる。
「ずっとこうしたかった」
首元に顔を埋めて彼女はささやいた。甘い吐息とともに、夜の冷たさが頬を通して伝わってくる。
「……僕もだよ」
ギュッとお互いの存在を確かめ合う。離れていた時間を抱きしめるように僕は彼女の背中に手を回した。
ドアが閉まる音が静かに響く。倒れ込むように僕らは部屋へと落ちていく。
月が綺麗な夜だった。淡い光がベッドを照らしている。僕はもう死んでもいいと思った。
(了)