第9話 醒めない夢(3)
――何が、起きているんだろう。
周囲には火の手が上がり、倒れた仲間たちを呑み込んでいく。
遺体はどれも酷く損傷していた。頭を潰された者もいれば、指の付け根から植物の茎のようにぱっくりと裂かれた者も。
この世界に具現化した堕天使は指先一本で魂に傷をつけ、銃を向けるウォッチャーたちを次々と血祭りに上げた。
まるで新しい玩具に喜ぶ赤子だ。自らの力を顧みる理性を持たず、目につくものを容赦なく無邪気に破壊していく。
血肉や汚物が焼ける悪臭を我慢できず、力なくひれ伏したクロエは胃液を吐き出した。
闇夜の炎の中に佇むのは、あの日と同じ白い怪物。
こんなはずじゃなかった。
フランチェスカの期待に応え、恩返しができると信じていた。自分にはその力があると。
だが実際はどうだろう。まるでフライパンの隅で焦げた野菜の燃えカスじゃないか。
己の無力さと怪物の脅威を思い知り、クロエは完全に戦意を失っていた。
――ドローンが照射する情報転写式具現装置の光を見るまでは。
「姉様、立ってください」
背後から愛しいミシェルの声がする。そう、ミシェルだ。作戦に同伴していた大切な弟の存在を今の今ままで忘れていたなんて。
ひれ伏していた地面から上体を起こして声の方を振り返ったクロエ。
だが、すぐに言葉を失う。
「ミシェ、ル……」
「情報更新は僕がやります。姉様は攻撃の手を緩めないで」
「ああっ、そんな、こんなの……!」
彼は赤黒い海の中を腕だけで這って、情報転写式具現装置のタブレットに手を伸ばしていた。
恐ろしいほど冷静に指示を出すミシェルの膝から下の両足が、圧縮されたように潰れている。ルシファーの攻撃を受けたのだ。
プレスに耐えきれず破裂して飛び散った肉、粉砕された骨。酸素と命を乗せた血が止まることなく噴き出している。
認めたくない光景に狼狽えて身体の末端を震わせるクロエに、瀕死のミシェルは困ったように微笑んだ。
「もう、痛みも感じないんです。だから意識がなくなる前に、早く。――お願いです、クロエ姉様」
昔から、何も望まない子だった。
望んで手に入る物があまりにも限られていると理解できる、聡明な子だった。
それなのに、こんな時になって初めて言う「お願い」がこれだなんて、あんまりだ。
ふらりと立ち上がったクロエは、先に死したウォッチャーの忘れ形見に震える手を伸ばす。
訓練で使っているサブマシンガンよりも遥かに大ぶりな機関銃は多銃身式で、細身の彼女には本来手に余る代物だ。
だが、構えたガトリング銃は紙きれのように軽く感じる。これもウォッチャーの覚醒の一つだろう。
――本当は、ミシェルを連れて逃げるべきだったのかもしれない。
逃げ切れるとは到底思えなかったが、殺されたとしても二人一緒なら怖くない。
以前もそうだった。そうやって、諦めようとしていた。
だけど、今は違う。
弟の覚悟と願いに応えるため、震える喉で嗚咽を飲み込む。
妙にクリアになった頭の中で、クロエはただ真っ直ぐに怪物を見つめた。
「ぶっ殺す」
そこからの記憶は曖昧だ。
無我夢中に撃ちまくった薬莢の焦げた匂いと、絶えず肉体構造を更新し続ける緑の光だけが大脳皮質に焼きついている。
どれだけ時間が経ったのか、悪夢のような夜がようやく明けた。
家屋が一棟残らず焼失して閑散とした村の跡を見渡す。
その中心に堕ちた、穴だらけの白く美しい死骸。
一体何回殺したのか、クロエにはもうわからない。
何度目の情報更新で死んだのか、どれくらいの器の完成度で効果があったのか。
大損害に間違いはないが、上層部と研究班の喜びそうなデータが情報転写式具現装置に記録されているはず。
だが、そんなことはどうでもいい。
息絶えた怪物に背を向け、少女はガトリング銃を地面に放り投げて弟の元へ駆け出した。
「ミシェル……」
返事はない。
うつ伏せで倒れる小柄な肢体のすぐそばに、冷たくなった右腕が転がっていた。残った左手はタブレットに添えられたまま。最後の最後まで、ミシェルはクロエをサポートし続けた。
そう、最期まで――。
それまでの景色がガラリと一転して、クロエの夢は細切れのフィルムのように流れていく。
動かなくなった弟の頭を膝に乗せてずっと前髪を梳いていた。
到着の遅れた援軍が、次々と遺体を運び出す。
血で汚れた情報転写式具現装置を熱心な研究班が興奮気味に回収して。
訓練所に戻ると、フランチェスカから一枚の紙を渡された。
「これで弟を取り戻せます」
光を失い、靄がかかったような視界で書類を眺めた。
――死亡届である。
フランチェスカが何を言っているのか、クロエには全く理解できなかった。いや、考えたくなかった。
すっかり生気が抜け落ちた少女は言われるがまま書類にサインをして、霊園から土地を買い、冷たい石を用意した。そこに入るべき身体はフランチェスカに預けたまま。
誰も入っていない墓石の前で、黄金の両目から止まない雨が降る。
過酷な地獄の中でさえけして絶望しなかった少女のたった一つの光が、消えた。
あまりにもあっさりと。まるで道ばたに咲く名もない花が雑踏に潰されるように、あっけなく。
それから数日間、クロエは墓の前から一切動かなかった。
枯れ果てそうなほど絶えず涙を流し続け、この世界からいなくなった弟を憂う慟哭が霊園に木霊する。
ミシェルが口喧嘩をするほど打ち解けていた少女が花を手向けに来てくれたが、感情的になって追い返してしまった。
力なく蹲って悲壮な懺悔を繰り返すクロエに、そっと上着がかけられる。少女の付き添いで来ていた、あの憎らしい金髪だ。
「人間が本当に死ぬ時は、誰かに忘れられた時だ」
ユリウスもかつて、かけがえのない者たちを失った。
だから忘れない。忘れてはいけない。自分が忘れなければ、彼らの魂は怪物の腹の中だろうと生き続ける。ミシェルだって、きっと――。
だが、こんな展開を誰が予想しただろう。
「ノエル、弟が帰ってきましたよ」
フランチェスカに連れられて姿を現したのは、正真正銘ミシェル・デュ・ノエル、その人だった。
――黄金の瞳が、宇宙の石に変わっていることを除けば。
「――ッ!!!」
悪夢から飛び起きたクロエは、動悸で激しく肩を上下させた。
ぐっしょりと冷や汗をかいた背中に貼りつくシルクのネグリジェが恐ろしいほど冷たい。
きっと、あの図々しい小説家に好き勝手されたせいだ。一番触れてほしくない部分を問答無用で踏み潰していった。憎らしい。本当に殺してやればよかった。
そんな怒りを塗り潰すほどの恐怖に苛まれたクロエは、震える指先で己の身体を抱きしめた。
過呼吸になりそうなほど細切れに息を吐く姉の異常に、隣でスリープ状態になっていたミシェルの意識が浮上する。
「ねぇ、さま……?」
いつもはサングラスが遮っている七色の瞳が、様子のおかしい姉をぼんやりと見上げた。
夜明け前の薄暗い部屋に浮かぶ二つの幾何学模様に、怯えた声が上がる。
それにすぐ気づいたミシェルは、慌てて顔を両手で覆った。
「ご、ごめんなさい姉様、僕……」
ミシェルが常にサイバーサングラスをかけるようになったのは、クロエのためだ。
法整備や世論の理解を振り切って急激に進化したアンドロイド技術。
肉体を捨てた機械的な存在を、今の法律は人間と認めない。
脳だけを残した全身換装は、人類が夢見た不死への第一歩だ。
心臓が止まって脳に酸素が送られなくなっても、脳細胞が完全に死滅するまで数時間のラグが人と機械を繋ぎ合わせる。
だがそれは道徳的観点から不慮の死亡時にのみ許された禁断の技術であって――だから、死亡届が必要だった。
ミシェルは法的に死んだこととなっている。
この世のどんな制度も、彼を人間とはけして認めない。
それはお前の弟ではないと、世界中から指を差されているような気がした。
(ちがう、そうじゃない、ミシェルは、私の……!)
そうやって、クロエは壊れていった。
ミシェルが死んだことを受け入れられず、サイボーグであることから目を背け――それを他人から指摘されようなものなら、徹底的に牙を剥く。
何より弟を機械たらしめるミティアライトの瞳に、クロエは恐怖を隠せなかった。
そんな捻じれた感傷を理解しているからこそ、ミシェルも不用意に素顔を晒したりしない。
「クロエ姉様……?」
返事がないことを不安に思ったミシェルは、遮光カーテンをすり抜ける薄暗い光の中を指の隙間から覗く。
陶器のように滑らかな頬を、大粒の雫が静かに落ちていった。
こちらが悲しくなってしまうくらい綺麗な泣き顔に息を飲んだミシェルは、思わずもう一度「ごめんなさい」と口にする。
だが、クロエは力なく首を横に振った。
謝るのは、いつまで経っても今のミシェルを受け入れられない、弱くて身勝手な自分の方。
幼い姿のままでいるのは整備的な側面を簡略化するためでもあるが、実はもう一つ理由がある。
本当は、フランチェスカから成人体への換装を勧められたのだ。その方が奇異の目も減るだろうと。
だがクロエは弟に意見を聞くことなく、それを断った。
だって、18歳のミシェルを誰も知らないじゃないか。
想像だけで成長させても、それは本物とは言えない。彼女に必要なのは、心地良いだけの仮初の偽物ではないから。
知らないのは存在しないことと同じ――そんな呪いは、デイドリーマーズだけで十分だ。
「ミシェル、ごめんね」
か細い声で悲壮な謝罪が何度も紡がれる。
そんなクロエに今のミシェルがしてやれることは、そこまで多くない。
ヘッドボードに置いていたサイバーサングラスをかけ、壊れた水栓のように絶えず涙を零すクロエにぴったりと寄り添った。
熱源を手足に回して金属の冷たさを補いながら、震える姉の手を握る。
「姉様、大丈夫です。僕はちゃんとここにいます。大丈夫ですから」
成長することがない身体でも、本心なのかプログラミングなのか確証が持てない愛情でも。
それでも、ミシェルはクロエの傍にいる。
それだけが今も昔もクロエの正気を繋ぎ止める、たった一つの光だった。




