二章 禍福得喪
「あぁーー、眠い……」
まだ外は暗い夜明け前、乃江は渋々と布団から出た。
腫れぼったい目を細めて、顔にかかった髪を鬱陶しそうに耳にかける。
いつものように顔を洗い、いつもの服に着替え、いつもと違う刀を手に取った。
刀と云っても大きさは三寸程で白色、縦に水色の稲妻のような模様が入っている。筆の持ちてと同じ細さと形、お重さで携帯し易い。この状態を筒義といい、それに少しの霊力を込めると、それは忽ち刀に変貌する。
刀になったときの刃の長さは二尺以上で反りは浅い。皆焼の刃文のため、刃全体に網目のような模様が華やかに広がっており、棟までも一面に大きな飛焼や湯走りがある。
「翠珞かーー……。自分が見合うかどうかだな」
翠珞は刀の名で、刀を作った刀鍛冶がつけた。なんでも、とある武神の名前らしい。ただ、漢字は知らないそうで、それらしいのを冬がつけた。
乃江はご機嫌で玄関の戸に手をかけ、ガタガタと音がしないように慎重に開ける。無事に静かに外に出ることができ、深く息をついた。
空は微かに黄色が広がっているが、藍色が大半を占めている。乃江は、この時間帯の空気と空の色、雰囲気が大好きでだ。
「今日も晴れかな」
十分程歩いて、池の柵の付近に凛はいた。髪型は昨日と違い、垂らした長い前髪以外はあの髪紐で一つに結っている。
乃江は、捨てずに使ってくれていることに微笑んだ。
「凛さん、おはようございます」
「行くか?」
「はい」
遠いからと、道の途中で術組織が運営する店で馬を借り、何処までも続きそうななだらか道をひたすら走る。
このまま真っ直ぐ進めと促すように両端に並ぶ樹々は、太陽の光を存分に浴びて輝いている。あまりに美しく、乃江は葉の一枚一枚が宝石のように思えた。
目的地に近づくにつれて段々と人とすれ違う回数が減っていき、遂には誰一人として会わなくなった頃、二人は集落に着いた。
乃江は荒れ地を想像していたが、隅々まで手入れの行き届いた畑が果てしなく広がっている。そして、畑の反対側には、小ぢんまりとした家が幾つも並んでいる。
一見、悲劇とはかけ離れているかのように思えるが、薄く邪気が広がっており、避難したのか人の気配がない。
「誰もいない」
「それはない。来ている」
乃江は何を云っているのかと思ったが、どうやら凛は耳がいいらしい。少しして、足音が聞こえてきた。
奥から小走りで迎えてくれたのは、若い華奢な女性であった。
「遅れてごめんなさい。私はここの村長を務めている小夜です。どうぞ、こちらへ」
二人に名乗る暇も与えず、淡々と進めていくあたり、余程切羽詰まっているようだ。
二人は早足でついていき、案内された先は古い民家。木の温かみある雰囲気で、比較的新しい。
「どうぞ」
馬は近くの木陰に繋げ、小夜を先頭に軽く会釈して中に入る。
外見からは想像できない程に中は広く綺麗で、家具は大きい机と椅子が三つ置かれているだけだ。
これまたどうぞと促され、二人は椅子に腰かけた。乃江の隣に凛が、乃江の前に小夜が座ったところで、乃江は早速本題に入る。
「現れたのは、鬼かご存じでしょうか?」
「はい、少なくとも皆はそう云っています。私は、実際に見たわけではないので分かりません」
「人が行方不明になったというのは?」
「本当です。男の子で、凄く細くて、なんか……つついただけで倒れそうな感じの子です」
「飼われている動物が亡くなったと聞いたのですが、供養はされましたか?」
「いえ。血は苦手ですし……。こう云ってはあれですけど、誰もさわりたがらないので。もう三日目で……余計に難しくなってしまって」
乃江は、邪気が漂っていることに納得した。
このまま放っておけば、一か月と経たない内に、この集落は鬼の住処となるだろう。
「貴方以外の住民がお見受けできないのですが」
「六日前、隣に移ってもらいました。危ないので」
「隣に、もう一つ集落があるのですか?」
「あ、いえ。集落は一つですが、半分に分かれているんです。ここは西、隣は東と呼んでいます」
「鬼はどのくらいの頻度で現れますか?」
「私の知る限りでは、鬼が出たのは初めてです。初めて、七日前に鬼が出ました。それで、そこから頻繁に村に来るようになりました」
「何体程でしょうか?」
「一体……いえ、一頭? 大きい四足歩行の生き物らしいです」
「鬼が現れる前、村に何か異変はありましたか?」
「あります。蛇や蝶を全く見なくなったんです。あと、子供達が大切にしていた犬がいなくなりました」
「犬が、その鬼の可能性はありませんか?」
「ないです。絶対に。二倍以上の大きさでしたから」
「他に、有力な情報はありませんか?」
小夜は躊躇うかのように、口角を下げて目線を逸らす。
「秘密でお願いできますか?」
「勿論です」
乃江は力強く頷く。その誠実そうな様子に小夜は決意して、頷き返した。
「私の弟の様子が最近ずっと可怪しくて。それも、鬼が現れたときからです。何があったのかは分かりませんが、少し調べてください。ただ、もし、あの子が関係していた場合は、その内容が良くも悪くも、ここの人達よりにも私に知らせてください。お願いします」
「承知しました。最善を尽くします」
「ええ、ではこれで」
上品な仕草で小夜は早々に出ていき、完全に去ったところで、黙りこくっていた凛に乃江は意見を求めた。
「どう思いますか?」
「確認すればいい。見に行く」
凛は徐に席を立ち、外に出て行く。
乃江は足元に置いていた荷物を端に退けてから、焦ることなく凛の後を追った。
二人は、辺りを見渡しながら動物の死骸を探す。家や倉庫などの数に比べて地の面積が大きく、見つけるのには時間がかかると思われた。が、異様な臭いが鼻を掠めた。
その臭いを辿り、二人は着いた先に絶句する。二丈以上も離れているが、それでも強烈な腐臭に乃江は吐き気を覚えた。
乃江は口元を手でおさえ、込み上げてくるものに必死に耐える。それでも目線は死骸から離さない。しっかりと漏れなく観察する。
(炎天下に三日間も……これは、どうしたものか)
目玉が飛び出た猫、羽根をもがれた鶏、腸を引きずりだされた子豚。半ば崩壊した小屋の外壁に残された無数の荒い爪痕。
無残にも殺されてしまった動物達は全身に蛆が湧き、大量の蠅が周りと飛んでいる。
乃江は虫と不潔が大の苦手で、とてもでなはいがこれ以上は近寄れない。今すぐにでもここを去りたい思いで、無表情の凛の後ろで顔を顰めている。
「凛さん、これは……」
「わからない。夜に確かめればいい」
この光景は、通りかかった子供が心的外傷になるくらいには刺激が強い。大人でさえ、直視するのは厳しいだろう。
「逢魔が時だ。備えよう」
藍色に染まりかけた空を見上げて、凛が云った。