任務前に
乃江が目を覚ましたとき、兄と冬はすでに家を出ていた。
兄曰く、試験が終わった後は仕事の量が尋常ではないらしく、二日は帰ることができない。冬は数日前の乃江と同じ見習いで、元々帰って来るのは三日に一回以下のため通常だ。
乃江は、そんな誰もいない一人の時間を楽しむべく、いそいそと書物室に向かう。
書物室は邸の一番奥の日当たりの良い位置にある。室内は主に白色と花緑色で彩られており、木の家具がより際立つ。障子を開ければ、鯉の泳ぐ池や鮮やかな花が見え、乃江のお気に入りの場所だ。
乃江は、年季の入った大きい扉を開ける。紙と墨の匂いが鼻をくすぐり、変わらない様子に安心した。
「久しぶりだな。半年? もっとかな」
乃江は、奥にある机に運んできたお茶をそっと置く。そして、書を三十八冊持ってき、早速頁を捲り始めた。
この広い部屋には大きい棚が二十五つもあり、仕舞われている書は一万冊以上である。だが、代々渡ってきた物が九割のため、乃江の好みの内容は少ない。そのため、乃江が今まで読んできた物は、兄が買った物が殆どである。
(目標は十冊。あ、鯉の餌やり忘れないようにしなきゃ。花の水やりも……。今日は冬がやったはずだから、明日からかな)
乃江はお茶を一口すすり、書を一頁捲る。それからも、取り憑かれたように一頁、また一頁と捲り、終えれば新しい書に手を伸ばす。それを繰り返し、乃江は三冊の書を読破した。
時を確認しに、乃江が障子を開けて外を見ると、空には欠けた月が浮かんでいる。
「もう、夜か」
乃江は居間に行き、冬が作ってくれていた物を胃に入れる。若干の痛みに耐えながら風呂に入り、薬を塗りなおして布団についた。
(楽しかったな。時間忘れて没頭できたの、いつぶりだろ。こんなに好きなことして、自由気ままに過ごしたのって一年ぶりじゃない? ああ、そうかもしれない。だって、ずっと見習いとして勉強とか鍛錬ばっかだったし。あと、どのくらいこうして過ごせるのかな……)
「寝るなんて、限られた時間なのに勿体ない!」
乃江はむくりと起き上がり、書物室を目指してスタスタと歩く。
書物室は、兄の火炎術が四六時中、部屋を照らしているため夜でも昼間と変わらず明るい。乃江はそれをいいことに、夜風に吹かれながらまた文字を追いはじめた。
「こーーらぁ!」
書物室の床で寝る乃江を、兄は仁王立ちで叱った。
兄は疲れというものを知らないのか、激務終わりでもいつもと何も変わりない。
「……え? ああ、帰ったんですね。おはようございます」
乃江は起き上がろうとはせず、寝転がった状態で、この状況に当てはまりそうな言葉を適当に返した。
「夜だよ。ばぁーーか。一体、何時間読んでたの……」
兄が呆れた様子で、散乱した書を片付けていく。
三日間、乃江が寝る間を惜しんで読めた書は十三冊。残りは二十五冊だ。
(いやーー……我ながらよく頑張った。残りはまた合間を縫って読も)
うとうとと、硬い床で眠り始める乃江に、兄は少し腹を立てながらも微笑んだ。
「お疲れ様」
「……なんて?」
布団に包まったまま、眠たそうに顔を半分だけだした乃江。そんな乃江の枕もとで、兄は嬉しそうに話しだす。
「だから、今日、凛君が来るんだってっ!」
「……?」
「だからね、術士は最初は危険だから絶対に何人かで任務にあたるの。で、それを決めるのが私の仕事だったから、凛君と乃江にしたって話!」
「嘘だろ……」
「因みに、どうして凛君を呼んだのかというと、二人の初任務の日が明日だから。ゆっくり話す機会あった方がいいでしょ? あと、私も個人的に色々と話があるからね」
乃江は困惑と疲労に頭を抱え、布団にうずくまる。そして兄を見遣った。
兄は異様な程にイキイキとした様子で、表情も明るい。乃江はその様子に疑問を持った。
「昨夜、一緒に書類仕事しましたよね。寝た時間一緒ですよね?」
「? そうだけど?」
「何故にそんな元気なんですか」
「乃江が手伝ってくれたから? いやぁ、ほんとに助かったよ。乃江いなかったら、まだ仕事してるもん。感謝感謝」
「…………働きたくない。まだ休みたい。労働反対……」
「ま、取敢えず着替えてね。あっ! そうだそうだ。合格祝いとして新しく服買ったの! それ着てね。で、着たら見せてね」
話すだけ話して去っていく兄。乃江は、多少は不満に感じたが、凛と話す機会を与えてくれたため水に流すことにした。
(てか、任務明日? 行きたくねぇ。ほんとに嫌なんだけど。それも凛さんと一緒とか申し訳なさすぎて死にそう。凛さんごめん)
「ほんとに勘弁してほしい……」
暫く布団の中でぐずっていた乃江だが、覚悟を決めて支度室に向かう。苦虫を嚙み潰したような表情で、不機嫌そうに戸を開ける。
そこには、分かりやすく真ん中に見たことのない服が置かれている。
服を手に取って広げた乃江は溜息をつき、投げようとして思いとどまった。
「兄さん……」
白色と水色を基調をした着物に、蝶を思わせる同色の清楚な羽織。金と銀で緻密に施された控えめな刺繍は言葉にはし難い美しさである。
「これを着ろと? ただ話すだけで、これを着ると? え、見栄っ張りじゃん。ただ服を自慢したい人じゃん。さすがに引かれる。それ以前に、これ着て僕、霞むくない?」
乃江はとりあえず袖を通してみた。着心地は良いが、これを着て自慢に思われないかが非常に気がかりである。
「乃江~~!! どう!?」
羽織を脱ぎかけたところで、兄が突如現れた。
兄は乃江を見るなり満面の笑みで喜ぶ。因みに乃江はげんなりとしている。
「わあ~~! 最高っ、可愛い!」
「ありがとうございます。次、可愛いといったら土に埋めます。では、もう見せたので」
「脱ぐの?」
兄は真顔で乃江に首を傾げる。乃江はその圧に負け、羽織をきちんと肩にかけた。
「……一日これですか」
「そうそう」
「これで、凛さんに会うんですか……」
「そうそう」
「見栄っ張りに思われませんか……」
「ぜっっっっっったいに!! ないっ!」
「……分かりました。では、僕は書物室にいますので」
「はーーい。髪結んでからね。綺麗なやつね。綺麗なやつね!」
「はいはい」
兄は満足そうに頷いて去っていく。乃江は深く溜息をついて、鏡の前に腰を下ろした。
小物入れの棚から取り出したのは、銀色と水色の控えめの飾りがついた髪紐。横髪だけを櫛を使って丁寧にまとめ、後ろ髪はおろす。
「これでいいでしょ。なんかもう、嫌われたらそれはそれで……よくないけど」
乃江は半ば開き直り、書物室にて書を読み始めた。
凛が書物室に来たのは三時間後だった。
直前まで書に集中していたため、机の周辺以外は書が丁寧に散らばっており一部積み上げられている。
凛は、乃江の正面に腰を下ろし、軽く頭を下げた。
(凛さん、顔色わる。疲れてるんだな)
「怪我はどうだ?」
「完治しま……し、したよ……」
乃江は云いかけて、砕けた言葉を使わなければいけないことに気がついて云い直した。
全く慣れていないため、内心で拷問かなと呟く。
「明日について知っているか?」
「任務としか」
「ここから少し離れた集落で、動物の惨殺と人が行方不明になった。それを調べ、片付けるのが主な内容だ」
(これはこれは、鬼なのか熊なのか判断のつきにくい内容で。聞き込みとかしなくちゃいけないんだよな。人と話すの嫌だな。一朝一夕にはいきそうにないな。初任務がこんな難しいの大丈夫?)
「場所はどこに?」
「それなりの距離はあるが、八時間はかからない」
「了解です」
「地図は持っているか?」
「いえ」
「なら、どこかで集合しよう。どこがいい?」
「……仕事場所の方角は」
「北」
「小さい池が七つある場所とかは……?」
「わかった。そこにしよう」
緊張でところどころ敬語が混じる乃江。乃江は気まずさで、ずっと羽織の袖を掴んでいる。そして早く終われと祈っている。
「…………ところで、試験後のあれはなんだ?」
気まずさで死にそうなところに気まずい質問がきて、乃江は死を望んだ。
凛は真剣な面持ちで乃江の目を見つめ、乃江はさらに緊張して頭が真っ白になる。
「云いたくなければ、それでいい」
乃江は回らない頭をどうにかこうにか働かせて、当たり障りのない答えを考える。悲劇の主人公風にならないように必死である。
「えっと……あの人の嫉妬、とかで、こう……色々と……?」
間髪入れずに、鋭い双眸が乃江を見る。
乃江は羞恥心で死んでやろうかと思った。
「あの……人は、火神家でして、こう……反抗すると周りにも危害が及ぶというか」
「自己犠牲か」
「いえ、違います」
乃江は先程の態度とは打って変わって、はっきりと否定した。
乃江は、自己犠牲という言葉が大嫌いである。
自分がしたくてしたことを犠牲とされ、それで周りを守ったという風にされることが腑に落ちないのだ。ましてや、それで周りに謝罪をされることは、苛々するうえ謝らせてしまった申し訳なさで精神がぼろぼろになる。
「あ、因みにそのことは内密に」
凛は目を閉じて深く頷く。
乃江はその様子に満足し、もう話すこともなくなったため、いつ帰るのかなと内心で思いながら微笑む。
「そういえば、もう兄とは話されました?」
「話した。二時間半」
「ん?」
乃江の思考は三秒ほど停止し、三秒後に様々な疑問が浮かび上がってきた。
(二時間半? え、ずっと話してたの? そんなことある? もしかして趣味につれまわした? え、凛さんごめん。だから疲れてたんだ。悪い印象になったよね。絶対に。 うわ、申し訳ない)
「それは……災難で。ところで、歩いて来られたのですか?」
「いや、牛車を手配してくれた」
「あ、それはよかったです。本当によかったです。長い時間付き合ってくださり、ありがとうございました」
「構わない。あと、言葉」
乃江はどきりとして、肩を跳ね上がらせる。凛はそれを見て、ほんのわずかに口角を上げた。
「そのままでいい。慣れないことをさせて悪かった。どうせ、時間が解決する」
凛はゆっくりと腰を上げ、会釈して部屋から出て行く。
乃江はそれを見送って、姿が見えなくなると一気に脱力した。床に倒れ、深く息を吐く。
「あーー、疲れた……。あ、お見送りとかした方がよかったかな。もう遅いか。どうしよ嫌われた? 大丈夫? えええええ、もう無理。誰か助けて。もう、ほんとに、なんで、僕は、いつもいつも……。凛さんごめん、申し訳ない。あーー、やだやだ。明日やだ。もう……助けてくれ……。というか、なんでもっと分かりやすい説明しなかったの自分。もっといい言葉あったでしょ」
乃江のこの独り言は、兄が部屋を覗きに来る間、止まることなく続いた。