助けの再来
チクッと鋭利な物を当てられたような感覚に起こされ、乃江は目を開けた。ぐにゃぐにゃと点々の木目の天井が視界一面に映っている。
こんな天井の部屋家にあったかなと、見つめていると、布団や匂いにも違和感が表れる。
「……え、何処」
ゆっくりと上半身を起こして周りを見渡す。
小ぢんまりとした畳の床には大きな棚が二つ並んでおり、他にはなにもない。必要最低限すら整ってい居ない殺風景な部屋だ。
何がどうなっているのか分からない恐怖心に、心臓を鷲掴みにされているようだ。記憶は、真っ暗になった視界から、青空で途切れている。記憶が記憶だけに、自身では死んだのか生きているのか判断できない。
(えーー……どっちなんだろ。天国にしてはなぁ……何か物足りないし。でも、あの状況から助かることってなくないか? いや、死んだら死んだでいいんだけどさ。いいんだけど……これ)
「包帯……?」
乃江は、腕に巻かれた包帯に気がつき、はっとする。布団をめくって他にも見遣ると、捻挫した足首の処置、切り傷と擦り傷は綺麗に洗われ薬が塗られていた。
「器用な人」
手当をした人の手先に感心しながらも、乃江は深まっていく謎に首を傾げた。
燿を追い払うことは大前提として不可能。一般人だろうと術士だろうと、燿は容赦がない。かといって、倒れているところを見つけるのは至難の業だ。人通りの少ない山道は暗く、鬼や獣と遭遇することを考慮すると絶対に通るべきではない。
(誰? 仮に生きてたとしても山で倒れてるのが妥当じゃない?)
乃江は暫く考えて、考えることは無駄だという結論に至った。
謝礼金を置いて帰ろうと決意し、床に手をついて立ち上がろうとする。が、力が入らずガクンと膝が折れ、床に膝を思いっきり打ちつけた。
階段を下りていて、もう一段あると思ったらなかったときの一瞬の浮遊感。
「いっ……た!!」
あまりの痛みに、乃江は眉間にしわを寄せて唇をかみしめる。どうかにか痛みを紛らわそうと膝をさすっていると、目の前の襖から音がした。
瞬時に反応し、顔を上げる。そこには、無表情の凛が立っていた。
(あーー……そういうことね)
乃江は全てを悟り、冷汗を流した。その表情はぎこちなく、気まずく思っているのがまるわかりである。
「痛むのか」
膝をさすっている様子に、凛はすぐに傍に駆け寄る。袴の上から軽くふれて出血をしていないか確認し、血濡れていないことに安堵の息を漏らした。
血は出ていなくとも、皮膚の中で出血しているだろう。それくらい、軽くふれただけでも痛む。
「……この度は何度も助けていただきありがとうございます」
「問題ない。一応、治癒術はしてあるが、全ては治せなかった。すまない」
「ああ、いえ。治癒までしていただき、ありがとうございます」
凛は、乃江から少し距離をとって腰を下ろす。乃江の心情を考慮しての距離感なのだろうが、近い。その三倍は遠くても良いくらいだ。害のない人間判定されているのであれば、それはそれで嬉しいが恥をさらし過ぎて昨日の朝からやり直したい。真面に目も合わせられない。
「えっと……長居するのは悪いので、お暇します。お礼は後日させてください」
「帰るのか」
「はい。少し用事がありまして……」
とは云ったものの、乃江は内心、立ち上がることさえできないのに家に着けるかどうか心配でならない。一目がない処は氷術でなんとかするとして、山を下りた後は皆が寝静まった頃にしか術で進めない。確実に進めるのは匍匐前進だ。
(匍匐前進……完全に不審者じゃん。えーー……どうしよ。帰るって云っちゃったし、ちょっと後悔。……あ、刀でいいじゃん)
乃江は、部屋と手元をさり気なく見渡す。それらしいものはない。
「あの、刀を知りませんか?」
「折れた」
「折れた?」
「折れた」
「?????」
様々な出来事に加え、不可解な出来事は容易に混乱状態をつくりだせる。
(え、折れたってなに? 鞘にしまわれた状態で、外部からの衝撃で折れたってこと? そんなことある? あるね、あったね。不思議だね。てことは刀なし? てか羽織もよく考えたらないし。まあ、あんな泥だらけの物いらないんだけど。え、どうする? 刀はべつに壊れようがなんでもいいけど、匍匐前進????)
「……あの、傘か何か杖になるものを貸していただけませんか?」
「?」
凛が首を傾げる。その意図が分からず、乃江も首を傾げた。
「私の背中に乗ればいい」
「へ? いやいやいやいや!! 申し訳ないです! 大丈夫です! 傘とかで十分ですので……あと、人目がない処は術でなんとかできますので」
「わかった。行こう」
「……?」
「え、あの」
「送る」
大丈夫と云ったところでだろう。凛がそのまま食い下がるとは思えない。
乃江は術で己の下に正方形の氷を創りだす。それは徐々に浮き、床から現れた氷の板に人が座って浮いているという奇妙な事実。
「すごいな」
「……私、これで移動ですけど、いいですか」
「いい」
部屋をでると右手側にすぐ玄関が見える。凛が戸を開けてくれ、外に出ると完全にお昼だ。訓練と試験で、身体は思ったよりも疲れていたらしい。
「ここは……?」
「山のなか」
「山って……住んでて危なくないですか」
「猪や山菜がよくとれる」
「…………」
「あと、近くの川で魚もとれる」
「それは、いいですね。四季も味わえますし」
「そうでもない」
「……そうですね」
そこからは互いに口を開くことなく、無事に山を降りられた。人目に付く場所では術は使えないため、乃江は凛の肩を借りて、よたよたと赤子のような足取りで地を踏む。凛も乃江を転倒させないように、澄まし顔尾の裏で手汗を滲ませていた。
「乃江~~~~!!」
「い゛、いたたたた。痛い。今すぐ離れて」
空全体が藍色に包まれた頃、二人は氷華家に着いた。乃江は帰りを待機していた兄に抱きつかれ、痛みに顔を顰める。兄は秒で乃江に引き剥がされた。
「あの、ありがとうござ……ありがとう」
何かお礼をしたいと乃江が凛に云ったところ「敬語はなるべく少なく」とのことで、乃江は慣れない言葉遣いに大変苦戦している。
「凛君、ほんとうにありがとね。どうする? 暗いし泊まってく?」
「いえ、帰ります」
「そっか。気をつけてね」
「はい」
試験会場で凛が手を振ってくれたことを思い出し、乃江はその背に小さく手を振る。すると、振り返った凛は気がついて手を振り返した。
凛の姿が次第に闇に呑まれていき、何故だか遣る瀬無い気持ちが押し寄せる。
乃江の分かりやすい表情に、兄はニヤニヤと笑った。
「乃江、寂しいの?」
「は?」
「また会えるよ」
「うるさいですね。口縫いますよ」
「えーー、悲しい」
乃江は家に入ろうと、出した足をとめた。徐々に身体の痛みがひいていき、楽になる。兄の治癒術だ。
「もう一人で歩けるんで大丈夫です」
「えーー、嘘だぁ」
「どこをどう嘘と判定したんですか」
兄はそう云われても乃江から離れようとせず、くっついて歩く。鬱陶しかったが、乃江は好きにさせておくことにした。
「乃江」
「はい」
「おかえり」
「……ただいま」
乃江は燿にふれられた箇所を、怪我しているしていない関係なく入念に洗う。気づけば全身が羊の如くもこもこである。
「痣……こっちは内出血か……まあ、痕になりそうなのはなくて良かった、か。良くないけど」
乃江は風呂から上がり居間に行く。戸越しでも兄と冬が楽しそうにしているのが声で伝わる。
「あっ、乃江。こっちおいで。髪乾かしてあげる」
今に入って来た乃江に兄は手招きして来るように促す。乃江は口をへの字にして、呆れたように溜息をついた。
「そんな便利道具みたいに……」
「いいから、いいから」
「…………」
にこにこの表情に逆らえず、乃江は大人しく従う。納得のいかない様子で兄の傍に腰を下ろした。
兄は得意げな表情で風術と火炎術を起こして巧みに操る。髪は生暖かい風に吹かれて、あっという間に乾いた。
「はい、終わり!」
乃江はぼさぼさになった髪を手櫛で整える。それを兄は微笑み見つめる。
「……なんですか」
「ん~~? いや、似合うなって」
「?」
「髪、下ろしてるのも似合う」
髪を下ろした乃江の姿は結んでいるときとはまた違い、涼やかで刺すような魅力を持つ少女に見える。
兄はそんな乃江を、普段とは違った一面を見れた気がして気に入っていた。が、それを口にだして酷い目を向けられた経験があるため、具体的なことは云わないと固く誓っている。
「そうですか。なら、今度これで散歩するのもありですね」
「やっぱ結んでる方が好き」
「?」
「結んでる方が似合うっ!! あと、もしそれで出かけるならついて行くからね。地の果てまで」
「こわ。地の果てまで逃げますね」
「逃げきれるって思ってんの?」
「勿論。簡単にね」
「へぇ、喧嘩売ってる?」
「そうですけど?」
「…………」
「…………」
微笑みの裏の闇を隠しきれていない兄と、動じない乃江。そこに、机に料理を並べ終わった冬が顔を出した。
「はいはい、お二人共そこまで。温かいうちにご飯にしましょう。お師匠様の合格を祝って!」
「で、何体倒せたの?」
「そんなん一々数えてませんよ」
食後の兄のだるがらみに、乃江はお茶をすすりながら対応をする。「酒でも飲んだのかこいつ」くらいにはしつこい。
「大体でいいから!」
「知るかっ」
「冷たっ、氷の方がまだ温かいよ」
「あーー……かき氷、いいですね」
「え、作ってあげる」
「却下」
「なんで!?」
兄は顔を伏せ、わざとらしい泣きまねをする。それでも気を引くことはできず、机に顎を乗せてただじっと乃江の目を見つめている。
食器を片付け終わった冬は、湯気の立つ湯呑を兄の手元に置いた。
兄はそれを両手でつかみ、一段とわざとらしく泣く真似だ。
「うーー……あったかい。ありがとう。好き。どうしてこんなにあったかいんだろ……ねぇ、乃江?」
兄は最後の部分で顔を上げて、泣き顔から真顔を経由して微笑み、圧のある声で問いかける。
乃江は軽く咽た。
「まって、今の面白かったですよ。切り返し上手い。ほんとに、表情も相まってて」
「喧嘩なら買うよ?」
そう云うと、兄は懐から華麗な手つきで紙幣の束を取りだした。
普段なら、お金をさわった手を洗えと云うところだが、今回の乃江はツボに入ったらしい。
声はださずに肩を震わせて机をたたき、兄はそんな乃江につられて大笑いする。さらにそれにつられて、乃江の笑いは加速し、兄もさらに笑う。
冬は、そんな二人を見て微笑んだ。実を云うと、誰よりも乃江の帰りを心配していたのである。だから、三人で久しぶりにのびのびとすることができて、何よりも嬉しい。
「ねぇ、冬、今の見た?」
「見ましたよ」
「傑作じゃない? 今までで一番面白い」
「はい。僕も癒されました。あ、そうだ。お師匠様、鈴を見たいです」
「勿論。取って来る」
乃江は笑いがおさまっていないまま自室に向かい、机の上に雑に置かれた鈴をつかみとる。
居間に戻っている間に笑いはおさまり、冬に鈴を差し出した。冬は笑顔で丁寧に受け取り、手に転がして眺める。
仕草の一つ一つが愛らしい冬に、兄と乃江はにこにこである。
「とても綺麗な藤色ですね!」
悠々(ゆうゆう)と飲んでいたお茶を兄は盛大に吹き出した。
「うわっ、なにやってるんですか」
「氷雨様、布巾は右手にある水色の物を使ってくださいね」
軽蔑にも迷惑そうな声にも反応せず、兄は机に前のめりになって、冬の掌にある鈴を凝視する。
「えっ? 待って待って。え? 藤色? 弐? 浅葱色じゃなくて!? 藤!?」
「はい。そうですが?」
兄は鈴に穴が開くほど見つめ、大袈裟に溜息をこぼす。そして力なく机に突っ伏した。
「あ゛ーー……。そうと知ってたら色んな人呼んで、自慢して派手に祝ったのに……」
「知られなくてよかったです」
「そんなぁ……」
冬は兄の反応に首を傾げた。
「そんなに、凄いのですか?」
「すごいよ! 藤色はね、五級を倒せるくらいじゃなきゃ貰えないんだよっ」
「あ、階級についてはまだ勉強してないです」
「えっとね、一番下はただの鬼。六級は魏鬼。で、五級は餓鬼が主かな」
「なるほど」
「四級から一級は人型じゃないのが多いね。狼とか霧とか。未明以外の時間帯は縛られてるの以外はあんまりいない。あと、一級は傀や寥でも討伐は難しいし、希少だからそんなに遭遇しない。多くて一年に一度くらい」
「では、一級が倒される場合は……?」
「んーー、長期に亘って被害だしたときとか、会って狂暴だったときとかかな。ほら、創られた後の栄養源って、主に生気とか邪気だし」
得意げに話す兄と興味深そうに聞く冬。
自然と頬が緩み、乃江は「ふはっ」と目を細め眉尻を下げて笑った。
「……えーー、なに今の。絵師呼んで描かせたいんだけど」
「わぁ、同感です」
「…………お二人さんは頭でも打ったかい?」
乃江は自室に戻ろうと、お茶を飲み干す。
すると兄は察して、冬と乃江の湯呑にお茶をそそぎ始めた。眠たげな二人だが、顔を合わせて互いに小さく頷く。
二人は湯呑いっぱいに注がれたお茶を受け取って、一人は素っ気なく、もう一人は満面の笑みで礼を云った。