試験後の油断
走った鋭い痛みに、乃江は咳き込む。
見上げれば、モアイ像に似た憎悪に塗れた顔がある。その負の感情だけで鬼が十体は創れそうである。
「お前さぁ、調子乗ってるだろ。俺のこと見下してんだろ」
(……富豪の火神家は馬を使い、裏道を通ってわざわざ追いかけき、待ち伏せ。そして、動きを封じるために火炎術を使用。けど、未熟者で足止めすらできず、仕方なく呪符に霊力を込めてそれを背中に張りつけた……。まずまずな推理かな)
乃江は、今日で燿とおさらばできるためいつもより余裕がある。その余裕は、現状に至るまでの過程を考えて満足な考察ができる程だ。
「お前さあ、なにやってんの? 俺に恥かかせて楽しいか?」
仰向けに倒れている乃江の胸を燿の片足が乗っかった。
付着した土に乃江は眉をぴくりと動かす。
この程度、怒ることではないとは分かっている。日常茶飯事になり、その所為か人前以外なら、特に躊躇いはない。だが、不潔となれば話は別である。何処を歩いたのか分からない、無数の塵がついた靴。それを乗っけるなど不快極まる行為だ。
(最悪。この服は捨てよう)
乃江は心の中で盛大に溜息をつき、燿を見上げる。
本当にモアイ像のように暗くて燿の表情は確認できないが、何かをぶつぶつ喋っている。かなり不気味だ。
このようなのが夜中の山道にいたら、誰しもが幽霊と間違えて絶叫するだろう。もしかしたら、新種の鬼として報告されるかもしれない。
(長いな……なに考えてんの)
すぐに足を退けて、次は手がでると乃江は思っていたが、足の力は強くなる一方だ。
現在、燿の体重の半分以上の重りが胸にある。燿は筋肉質で重いため、乃江はさすがに息苦しさを覚えた。圧す力に対抗しようと嫌々足首を掴むも効果はない。
「ふざけんなよ」
地響きのような低い声。
圧だけなら、あの試験官の誰にも引けを取らない。
乃江のなかで、燿がこれ程に機嫌が悪いのは初めてである。この歳にもなって自分の機嫌も満足にとれない燿に、乃江は心底同情した。
「俺だってこんなことやりたくてやってじゃねぇんだよ」
(へぇ、やりたくないなら、やらなければいいのに。何で子供でも分かるような簡単なことが理解できないんだろ。まあ、自分を正当化させるための無意識の嘘って分かってるけどね。可哀想な頭だな。ほんと、可哀想)
「お前が立場を弁えないから、俺がこんなことしなくちゃいけねぇんだよ」
「あ?」
生涯、根に持つくらいには鮮明に思い出せる。
会ってまだ間もない頃、頼まれてお茶をだし、熱いと云って、それを顔にかけたこと。冬場、弓の試合で不正行為をしたとでっち上げたこと。そしてその罰だと、夜に廊下に追い出したこと。手が滑ったのだと、木刀で毎日のように打ったこと。
(何がここまでこうさせた? 本気で云っているんだったら、どうしてこいつは罪悪感を微塵も感じていない? どんな環境が、こいつをこう育てたのか凄く気になる。兄弟と比較されて育ったのかな。こんなに劣っていたら仕方ないけどさ)
「何でなにも返さない? 無視もいい加減にしろよ」
(いやいや、ちゃんとさっき反抗しましたから。声小っちゃかったかな)
心のなかで悪態をつき、乃江はいつものように終わるのをひたすら待つ。
できる限り、目立つところに傷がつかないように体勢を工夫。腹には力を入れ、痛みを軽減。避けられそうなものはさり気なく避けて、あたったふりをする。
途中、髪紐が髪を鷲掴みにされたことで解け、踏み潰されて何処かにいった。乃江は内心、苛つきながらも、明日なにをしようか考えて怒りを鎮める。
暫くし、手足を激しく動かしていた燿はさすがに疲れたのか、立ったまま動かなくなった。
普段なら立ち去ってもいい頃だが、燿は肩で息をして拳を震わせている。そしてまた何かを不気味に呟いている。
不審に思いながらも乃江は特に何もせず、そのまま数時間にも感じる長い時間が経ち、独り言は止んだ。
燿はゆらゆらと動きだし、馬乗りになる。
そのときの燿の目は、黒より暗く混沌とした醜い憎悪で溢れていた。邪気だ。
乃江は直感的に、自分が想像していることよりも何倍も拙い状況になっていることが分かった。
「俺にはなあ、お前の家族なんて簡単に殺せるんだよ!!」
(うるさ。こいつの言葉「殺す」や「死ね」とか幼稚で、聞いててこっちが恥ずかしくなる。ああ、でも有言実行できるのは偉いね)
乃江の首に手がかけられる。その腕には刻々と力が籠められていく。
乃江は燿の手首を掴んで、何とか隙間をつくろうとする。だが、力では到底敵わなかった。絞めているところが悪く、徐々に脈が圧迫されていく。
「お前の家族なんてすぐ殺せれる。地位も家も信頼も、俺の一言で全て灰にできる。でもそれをしないのは俺の温情だ」
(うわーー、頭が朦朧とする。なに喋ってるんだろ。どうせ、殺すとかそんなことなんだろうけど。こいつ殺して山に埋めてやろうかな。試験の帰り、運悪く足を滑らせ死亡でもいいかも)
もういっそ歯向かってやろうかと柄に手をかけたが、止めた。失敗したその後が、何よりも恐ろしくなったからだ。
何もできないことを悟った乃江は、諦めて全身の力を抜く。
(いっそ、一思いに斬ってくれればいいのに)
心臓の音と耳鳴りばかりで何も聞こえない。視界が霞み、悟った。
部屋の掃除、作り途中の漬物と味噌。試験終わりに食べに行こうとわくわくしていた甘味処。こんなことくらいしか後悔できない自分に複雑な気持ちがいる。
(いや、まだあったな。兄さんをどうにかしなきゃ)
兄は恐ろしい程に人間に執着する。内側の人間が殺されたと知れば、錯乱して火神家を鏖殺しかねない。
(あーー……終わりかな)
視界が真っ暗になり、一瞬、雲一つない青空が見えた。