二日目、朝
夜が明け、朝が来た。可愛らしく爽やかな鳥の鳴き声が部屋まで届く。
乃江は朝が来たことを忌まわしく思いながら体を起こし、顔にかかった髪をかきあげた。
(あーー、布団違うし人と寝るとかやっぱ無理だわ。夜中に二回目も覚めたし。凛さんが来たとき、変な寝方とかいびきとかかいてなかったよね。うわ、ほんとに休まらない。ずっと緊張してる)
乃江は背筋をのばし、肩を前後に回す。疲れがとれていないどころか、邪気により疲れが増している。
(まず、顔洗って……あ、顔洗えないわ。…………家に帰りたい)
乃江は落胆したように俯き、溜息を零す。
(隣の集落だっけ。いや、二つに分かれてるだけか。まあ、何でもいいけど情報収集に行って。その前に馬に水あげて。終わったら周辺調べよ。香を焚いて鬼倒して帰るだけでもいいんだけど、それで対象を狩れたかなんて分かんないし、夜になるまで暇だし。香焚くのは色々と危険だし)
乃江は重たい身体を起こして布団を畳む。床に胡坐をかいて、凛を見下ろした。
凛はスースーと寝息を立てて、心做しか気持ちよさそうに寝ている。男であろうと女であろうと、見とれてしまう美しい顔。
乃江は、美しいものを見れたという喜びと劣等感が入り交じり、内心で溜息をついた。
(なんか、自分って嫌な奴だな)
乃江は櫛で髪を梳いて一つにまとめる。机に置かれた髪紐を手に取って結び、耳にかかった横髪をわざと左側だけ垂らす。そうして耳飾りを隠し、前髪も目ができるだけ見えないように、かといって視界が悪くならないように工夫して整えた。
(ま、どうせ風で崩れるんだけど)
簡単な身支度が終わり、乃江は凛に向き直る。そして軽く頭を下げた。
「ありがとうございました。行ってきます」
今日は、雲が程よく流れる気持ちのいい晴れ。
そよ風が吹き、乃江は目を細めて微笑んだ。
「おはよう。元気かな?」
乃江は馬の頭を撫でながら声をかけた。術士組織の馬なだけあり、二頭共穏やかな気性で人懐っこい。
乃江は樹につなげている縄を解き、馬の手綱を片方ずつ持って軽く引く。
「少しついてきてね」
乃江は静かな自然を味わいながら、長閑に歩く。時折吹く、涼しい風に笑みをこぼし、前髪を軽くはらう。
「ここら辺のはずなんだけどな」
乃江は足元の雑草に虫がついていないことを願いながら、青々と茂った草木の中を突っ切る。勢いに任せて小走りで進んでいると水の音が聞こえた。進むにつれてその音は近くなり、広く透明な川が見えた。
「昨日、少し聞こえたんだよね。あってよかった」
乃江は馬を川につれて行く。馬は水の中に頭を突っ込み、勢いよく飲み始めた。乃江はその二頭の背中を撫でながら、昨日のことを振り返る。
「あの動物、あれは人間の仕業と考えた方がいいかな。鬼にはあんな器用なことできないし。鬼がやったんだったら、死体はもっとぐちゃぐちゃになってるよ。極めつけは、全ての部分が揃ってて、喰われた痕跡がないこと」
乃江は考えていて、少々この仕事に嫌気が差した。
「人間だったら、嫌だな」
そう呟いた乃江の声は暗く、悲しそうである。
乃江の知る限り、このような違和感と不審な部分が多いものは人間による犯行の可能性が高い。だが、それは知識と感覚だけであって、実際に体験したことはないため確信を持つことができない。確信がなければ大胆な行動ができない。
浮かない様子の乃江の横で、馬は満足そうに顔を上げ、尻尾をふった。乃江はそれで我に返り、考えても仕方ないと、目の前のことに戻る。
「じゃあ、行こっか」
乃江は雑木林から出て、時間短縮のために馬を連れたまま東の集落に向かった。二つの集落を結んでいる道は綺麗に整備されており、咲き終わった向日葵が首を垂れている。
「わぁ……いいところ」
東は多くの人が移っただけあり、活気に満ちている。大人は畑仕事や動物の世話をしており、子供は楽しそうに遊んでいる。平和そのものだ。
「なんというか……ここだよね……?」
乃江は周りをぐるりと見渡す。大人たちは忙しそうにしており、話しかけていいのか分からない。子供は恐くて話しかけることができない。かといって、勝手に入って捕まることは否定できない。
どうしていいか分からずにおろおろとしている乃江に、一人の子供が気づいた。
乃江も向かってくる子供に気づいた。威圧してしまわないように目線を合わせるようにしゃがんだ。
「だれ?」
不思議そうに乃江を見る目は好奇心に満ちている。願ってもいない助け舟に感謝し、子供に緊張した面持ちで微笑んだ。
「鬼の討伐を命じられ、馳せ参じました。氷華乃江と申します」
乃江は、幼い子を相手に堅苦しい挨拶をしてしまったと瞬時に後悔する。
素っ気なく返事だけをしてそのまま行ってしまったらどうしようと、頭の中が真っ白になる。だが、逆に子供は興味が湧き、満面の笑みで応じた。
「うちは日和! よろしくな」
乃江は喜びと感謝に唇をかみしめる。心の中でその子供を神かのように崇め称え、全てに感謝し始めた。
「馬はこっち! 来て!」
日和はしゃがんだ乃江の袖を引っ張り走り出す。乃江は驚きながらも前かがみになってついて行く。転びそうで転ばせそうな乃江の気持ちを知らず、日和は到着するまで後ろを見向きもしなかった。
乃江は、馬が賢くしっかりと速度を合わせてついて来てくれたことに感謝した。曲げっぱなしだった腰を軽く叩き、肩を回す。
(これ、勝手にしていいのかな。子供だし。大人に聞いた方がいいよね、どうしよ。この子が後で怒られたりしないよね)
緑が果てしなく広がる場所で、三頭の馬がもそもそと草を食べている。ここに馬を置けとのことだが、乃江は心配でたまらない。
「見ず知らずの他人がここを利用しても大丈夫なんですか……?」
「仕事で来たんやろ? なら大丈夫。それにここの人はそんくらいで怒らんよ」
「では、お言葉に甘えて……」
乃江は馬を、邪魔にならなさそうな樹に繋ぐ。馬はその場でのんびりと歩き、影で身体を横にした。
「じゃあ、次、こっち! 西側の人はあっちいる」
日和が笑顔で走りながら、今度は手を引く。乃江は全てに緊張しており、一応笑みは浮かべているが、内心では様々な感情と思考が渦を巻いている。
「明日香ーー! なんか鬼たおす人が話ききたいらしい」
日和は、家の前の階段で編み物をしている女性に向かって声を張った。女性は顔を上げて、編み物を中断する。
「あら、ひよちゃんと……術士の方?」
不審がることなく、笑顔で対応してくれた明日香と呼ばれた女性を、乃江は非常に有難く思った。小さな女の子と手をつないでいたため、不審者だと間違わられないか心配だったのだ。心配のあまり、その弁明を考えていた。
「ご多用のところ、すみません。隣の地域についてお伺いしたいのですが、ご協力をお願いします」
明日香は不思議そうに首を傾げた後、けらけらと笑った。
「お兄さん、そんなかしこまらなくてもいーーよ。小夜さんから聞いとるし。何から話したらいいかな?」
「具体的に何があったのかを時系列にお願いします」
乃江は懐から紙を取りだし、指先に霊力を込めて記録する準備をする。
「えーーとね、十日前に鬼が出たんよ。悪さしなかったから放っといたら、毎晩来てね。五日目には皆やられちゃって、すごく大変でねぇ」
可愛らしく右頬に手をあてて、和かく喋る明日香はきっと、誰にでも好かれる性格だろう。だが、少々ほわほわしており、日和が訂正に入る。
「明日香、ちがう。十日前に虫とか見なくなって、その次の日にルイがいなくなって。あ、ルイは犬の名前な。で、その次の日に鬼が出て、京おにいちゃんがいなくなって、その二日後に鳥とかいなくなった」
「あら、そうだったね。ところでお兄さん、お腹空いてない? さっき鹿を狩ったそうで、貰ったんだけど、たくさんあるから。どう?」
乃江は指摘されて思い出したが、昨日の朝からまともに食事を取っていない。そしてそれは凛も同じだろう。乃江は基本的、家以外では常に緊張している状態のため、空腹を感じる暇はない。
(僕はいいけど、凛さんは心配だな)
「ありがとうございます。ぜひ、いただきたいです。ですが、その前にもう少し聞いて周ろうと思います」
「そっかぁ。じゃあ、準備して待ってるね~~」
「ありがとうございます。あの、厚かましいお願いではありますが、あと一人分ご用意できますか?」
乃江は困ったように微笑んで少し首を傾ける。申し訳なさそうにする乃江に、明日香は嬉しそうに笑った。
「任せて! たくさん作って待ってるね」
張り切る明日香に、乃江は頭を下げる。そして取り敢えずその場を離れる。
乃江は先程、記録した紙に目を遣り、青色の文字がしっかりとあるか確認する。情報の洩れがないことを確かめてから懐にしまい、栄養補給として持ってきていた菓子を取りだした。
「日和さん、ありがとうございました。これ、お礼に」
日和は乃江に振り向いて立ち止まり、差し出されたものを不思議そうに受け取る。二重に白い布で包装された物を様々な角度から見て、首を傾げた。
「これ、なに?」
「お菓子ですよ。付き合ってくれたお礼です」
お菓子という言葉に、日和は大袈裟に目を輝かせた。
「ほんと? これお菓子なの!? ありがとぉ~~! じゃあ、ちょっと待ってて」
日和はお菓子を大切そうに抱えて明日香の処に行き、走って戻って来た。その手にお菓子はなく、預けたらしい。
「よし! 乃江は他になにが聞きたい?」
「小夜さんの弟は知ってますか?」
日和は露骨に顔を顰める。
「知ってるけど、あいつ嫌い。いつも京にいちゃん悪くゆう」
「仲良くないんですか?」
「うーーん。それは分からんけど、京にいちゃんは小夜ちゃんのお婿さんなの。それをあいつが嫌ってる。京にいちゃんは仲良くしようとしてんのに」
「その弟さんと小夜さんは仲良いんですか?」
「いや、悪い。それも、小夜ちゃんのお父さんが死んでからもっと悪くなった」
「なるほど……ありがとうございます。次はルイさんについて教えていただけませんか?」
「うん! それなら琴葉のほうがうちより、よく知ってる」
無邪気に笑う日和に、乃江は頬が緩んだ。それと同時に、少しばかり哀しくなった。
「琴葉ちゃん!」
日和よりも背丈があり、大人しそうな彼女は乃江を見るなり顔を背けた。嫌われたのと思った乃江は傷ついて少し距離をとってから頭を下げる。
「術士の氷華と申します。犬のルイについてお時間よろしいでしょうか……?」
「えっと、あの、大丈夫です」
しどろもどろな琴葉は乃江以上に緊張している。そのことを感じ取った乃江は、いつもよりも声を和らげて話にあたる。
「ありがとうございます。ルイについて些細なことでも構いません。教えていただけませんか?」
「えっと、ルイは人懐っこくて、大きいです」
「どのくらいの大きさですか?」
「立ったときは私と同じくらい……です」
「他にはありませんか?」
「ルイは虫とか布とか、放っておくと何でも口に入れちゃいます。あと、これは関係ないのですが、この地域には昔、呪いがあったそうです」
琴葉は声を潜め、日和に聞き取れないように喋る。乃江は聞き逃さないように耳を澄まして、琴葉の一挙一動に注意を向ける。
「蝶や家守、蛇など神聖な生き物とされている虫たちを戦わせてつくります。最後に勝ち残った虫は最凶の呪いとも云われているそうです。……以上です」
「ありがとうございます。助かりました」
「あっ、いえ、こちらこそ」
乃江は取り敢えず会釈してその場を離れた。
教えてくれた呪いの内容が、昔に書で読んだ蟲毒と内容が少々似ている。それには、犬を使ったやり方も載っていた。
「なあ、上の名前なんていうんやっけ?」
あてもなく歩く乃江を、日和は見上げて聞いた。
「氷華ですよ」
「へーー、めずらしいな。初めて聞いた。火神や仙水じゃないんだ」
「そうですね。知っているのは身近な人ぐらいですし。でも、それくらいが丁度いいですよ」
「どういう文字?」
「氷の華、です。聞こえはいいですよね」
謎に卑屈になる乃江に、日和は純粋に不思議に思った。
「見た目もそのまんまじゃん」
乃江は驚いて、一瞬目を見開く。そのとき正面から風が吹き、髪が靡いた。
耳飾りは太陽の光を受けて青白く光り、洗練され透き通った音を立てて揺れる。空を映す硝子の目も、日和にはしっかりと見えた。
「乃江、しゃがんで」
「えっと……はい」
乃江は日和に云われた通り、邪魔にならないように端に避けて軽くしゃがむ。日和は乃江の前髪をよけて目をじっと見つめた。緊張で呼吸が止まる。
「水色と、ぎん色……? 少し緑みどりもあるな。とうめいかん? っていうんかな」
「あの……」
「氷のはなよりも、ずっときれいだから自信たいせつ!」
日和は屈託ない笑みで、飾りのない言葉で乃江を褒めた。乃江はつられて、今日、やっと笑った。
「で、他にききたいことは?」
「そうですね。大体は聞き終えたから……」
「乃江」
誰かに名前を呼ばれ、乃江ははっとする。声の方向を見遣ると、そこには凛が立っていた。髪が半ば解けた、ぼさぼさの凛が。
「うわぁ……」
日和は若干、引いている。
乃江は呆れて内心で溜息をついた。立ち上がって、凛の方へ行く。
「凛さん、髪結びますね」
乃江は凛の背後に回り、懐から櫛を取りだす。今にも落ちそうな程に緩く結ばれていた髪を解き、髪紐を手に巻き付けて持つ。手際よく綺麗に結び、乃江は満足そうに微笑んだ。
「はい、できました。では明日香さんの処に行きましょうか」
「うん。長いこと待っとるよ」
乃江は、人と接することを極度に避ける凛の袖を引いき、日和と並んで歩く。日和は皆で食卓を囲めることを楽しそうにしているが、乃江は現在も任務達成に向けて真剣である。
乃江は懐から記録した紙を取りだして、こっそりと凛に渡す。凛はそれを受け取り、ざっと目を通して懐にしまった。
「明日香ーー! 来たよーー」
日和は勢いよく戸を開け、靴を脱ぎすててなかに入る。その散らばった靴を、乃江は履きやすい位置に揃えて置いた。
「失礼します」
「失礼する」
「あ、おかえり。準備できーー……」
カランッと、明日香は持っているお盆を落とした。何事かと思うと、口元を手で覆い、目をパチクリさせている。
その様子に日和は首を傾げて、明日香の袖を引っ張った。
「明日香ーー? どした?」
「綺麗が増えてる……!」