白銀の大地より・6
羊と弾丸
1 白銀の大地より・6
ばきん。
薪の割れる音がした気がして、意識が引き戻された。
目の前のたき火はすっかりその赤みを失い、細く煙を立ち昇らせるだけになっていた。炭化した薪の破片が、解けた雪の水溜まりに浮いている。
隣の温もりはいつの間にかくうくうと寝息をたてていた。肩に巻角が食い込んで少し痛い。
そっと顔を覗き込んでみたが、やはりアリスは完全に眠りの世界にいるようだった。撫子のわずかな動きにも反応はない。
撫子はアリスを抱き上げた。それでも起きない。疲れたのは子どもだけではなかったのだ。
日中のほとんどを歩き通しになっても決して荒ぶらない、賢く穏やかな馬たちの横を抜けて、馬車の荷台へ上がった。幌の中は外より一層暗かったが、そこに沈んでいる静けさは、嫌な感じはしない。
子どもの寝息が聞こえて、撫子はアリスを横たえながらそちらを見た。畳んだローブを枕にして、毛布に包まった子どもは、深い眠りについているようだった。無論大きな音を立てないよう気をつけてはいるが、アリス同様、撫子の動きに驚いて飛び起きるようなことはなかった。
馬車の荷台の中で眠るのには、慣れたようだ。撫子はこっそり安堵した。
◇◇◇
荷台を降りて、空を見上げた。アリスと眺めていた時から、星は動いているように感じた。
たき火の音が消えると、あたりは途端に静かになった。馬たちの息遣いこそ聞こえるものの、耳に息の詰まるような沈黙が迫ってきて、呼吸すら躊躇われる。
しかしそこに、確かに息づく気配たちを、撫子は感じ取っていた。
月が雲に隠れ、ふわりと薄暗い帳が降りた。
撫子は夜空よりも黒い森へ向かって、声をかけた。
「誰だ」
がちゃがちゃと、金属の触れ合う音が返ってきた。
次いで茂みをかき分ける音。
「お姉ちゃんたちは寝ちまったか」
「おい、本当にすげぇ美人なんだろうな」
「全部終わったらじっくり見ればいいだろ」
男たちの野太く騒がしい声。
黒い森の中から、武装した男たちが姿を現した。
星明かりに鈍く光るナイフやら斧やら、棍棒やらを持って、わらわらと茂みから出てくると、撫子を取り囲んだ。集団の中には人間だけでなく獣人族もいて、それぞれ汚れた、安っぽい生地でできた服をまとい髪は乱れ、目のぎらつきを隠そうともしない。皆にやにやと笑っている。
集団の中から、一人が前に歩み出た。
昼間、市場で薬を売っていたあの大男だった。
「……お前、わざわざついてきたのか」
撫子はわざわざの部分をあからさまに強調して言った。大男は巨大な斧を担いでいた。
「よぉ旦那サマ」
ぱしん、ぱしんと、大男は自身の得物を見せつけるように叩き、歯を見せて笑った。
大きさは撫子の背丈ほどもあるだろうか。柄も太く大きい。巨人族用に作られた斧だった。
周囲の男たちのにやにやは相変わらずだった。下卑た笑いだ。酒場で悪酔いした厄介な者たちがするような、こちらを見下す笑い。
撫子はそんな男たちを冷めた目で見回した。大男を入れて7人。市場でかき集めてきたか、それとも元々つるんでいるのか。
「旦那サマがバラしてくれたおかげでよぉ、あの後大変だったんだぜ」
大男は斧を軽く振り回しながら言う。かなりの剛腕である。少しも力んでいる様子はないのに、斧は綺麗にくるくる回り、その刃をきらめかせた。
「バラした……?」
撫子は少し怪訝そうに顔をしかめたが、大男は気づいていないようだった。撫子があの時ついでに呟いた一言が、市場中に伝播したのだろうか。撫子たちが去った後、まるで洪水に飲み込まれるように市場は非難の声で溢れ返り、大男は市場を追い出されたのだという。悪どい商売をしていた大男の自業自得なのだが、市場を追放されたことで落胆したり反省したりするよりも、撫子へ怒りの矛先を向ける方が先だったようである。
大男が舌なめずりをして、幌馬車を見やった。
「昼間にちらっとだけ見たけどよ、かなりの美人じゃねぇか。ガキの方はいらねぇが、お姉ちゃん俺にくれるってンなら穏便に済ませてやってもいいぜ。痛い思いはしたくねぇだろ?」
ひゅんひゅんと音をたてて回転する刃に、撫子の姿が薄ぼんやりと映っている。
男たちはどっと笑った。こっちにも寄越せ、いい夢を見させろという声があがる。
大男は更に笑みを深くした。獲物をいたぶって楽しむそれである。
撫子はしかし黙ってそれらを聞いていた。
「旦那サマだって馬鹿じゃねぇだろう? 俺の薬を見破ったんだから」
賢い選択してくれよ、と続ける。周囲がはやしたてた。すっかり自分たちが優位にあると思っているらしい。
撫子はため息をついて、懐に手を当てた。
カネでも出すのか、とまた男たちが騒いだ。
そんな男たちに向かって、撫子が抜き放ったのはナイフだった。
木を削る時に使うような、広げた掌ほどの大きさしかない、小型のナイフ。
それを見て大男たちは一瞬きょとんとして、次いで笑い声をあげた。
「おいおい冗談はほどほどにしてくれよ。まさかそれでやり合うってのか兄ちゃん!」
「お前たちにはこれで十分だ」
間髪入れずにそう応えて、撫子はちらりと自身の胸元に視線を落とした。
悪いな。ここはお前の出番じゃない。
撫子の言葉に、大男たちは案の定激昂した。
「やれ!」
大男が短く号令をかけると、男たちが一斉に飛びかかってきた。