君が海を知らずとも・12
羊と弾丸
4 君が海を知らずとも・12
すっかりお腹の底を温めて、撫子たちは畑へと向かうことにした。支払いをしつつイスカに尋ねたところによれば、華蟲が出始めた頃は、小さめの畑の方が見やすいという。大きな畑では、華蟲が這い出る範囲が広すぎる上に見物客も多い。慣れない撫子たちがゆっくり見るならちょうどいいだろうとの提案を受け、それに従う。
「そのぶん、川から遠いから、出てくるのがすっごく遅いってこともありうるから。そこは許してよね」
まだ話し足りない、という雰囲気を見せながらも、イスカはそういって見送ってくれた。
「さっきのひとは、川に近い所はまだだって、いってたわよね」
「そういっていたな」
雨はすっかり止んで、夕陽が見えていた。灰色の雲の隙間に、黄金の欠片をはめ込んだかのような空である。明日は晴れるかもしれない。
雨に濡れた石の道も、夕陽の金色を反射している。街ではもう長雨の不安は流れ去り、人々はようやく始まりを告げた祭りに浮き足立っているようだった。通りを足早に過ぎ去っていく人々もまた、撫子たちと同じように目当ての畑を見に行くのだろう。
イスカに教えてもらった畑の方へ道を曲がり、そろそろ混んでくるかもしれないから手を繋いでおけ、とアリスにいい聞かせた。頷いてアリスがスーリの手をとった時、一緒に道を曲がった二人連れの会話が耳に入ってきた。
「いやよ、秋に新しい畑作ったからよ、てっきりそっちが一番だっぺと思ってよ」
「あんなに川に近ぇ所は、初めてだからなぁ。前に貴族様が気に入ったのも、川の方の畑だったよなぁ」
「ほだよ、みんなして川の方さ掘ったもんなぁ」
そんな話をしながら、職人らしき男2人が撫子たちを追い抜いていく。
どうやら例年だと、川に近いほど華蟲の出現が早いらしい。貴族が気にいれば、それだけ多額の稼ぎが手に入る。生活のため、人々は競うようにして川の近くを畑にしているのだろう。
やがて道は緩やかな下り坂になり、建物が消えて草地へ出た。先までの雨に打たれて、野草たちはすっかり頭を垂れている。その中に、四角に切り取られたような茶色が見えた。あれが泥で満たされた畑である。
畑の周囲にはすでに見物客の姿がちらほらとあり、泥の様子を見守っている。華蟲の出現を今か今かと待っているのだ。
そんな彼らの隙間から、畑の表面を伺う。泥は夕陽を受けて鈍い光を反射していた。華蟲はその重たい泥をよけながら、外界へと出てくる。いつもなら植物を刻むだけの腕やハサミが、ゆっくりと着実に泥の蓋をこじ開ける様子は、まさに凍える冬から春へと移り変わる象徴なのである。
撫子たちはしばらくじっと見守っていたが、待てど暮らせど、泥は微動だにしなかった。沈黙を続ける畑を前に、ほかの見物客もざわつき始める。
「出ねぇなぁ」
「やっぱり今日は寒ぃんだっぺよ」
「こりゃ、また冬眠しちまったかもしんね」
ひとしきり喋ってから、また少し黙って畑を見つめるが、やはり変化は見られない。これ以上は待てないと、見物客は一人また一人と、違う畑へ移動していく。ぱらぱらと去っていく足音を見送り、撫子は畑へ視線を戻した。
辺りは段々と薄暗くなってきていた。まだ夕陽は空を彩っていたが、それでも雲の方が多い。見物客のためだろう、一応松明が焚かれてはいるものの、照らしているのはその周りだけで、ぼんやりと心もとない。
灯りを持ってくればよかった、などと撫子が後悔し始めた頃、背後でくしゅん、と甲高いくしゃみが聞こえた。
振り返ると、アリスが子羊の肩を抱いていた。どうやら先ほどのくしゃみはスーリのものらしい。
「あら、大変。また冷えてしまったわね」
「……もう宿に戻るか。それか、もう少し川に近い畑に行くか」
「夜になってしまいそうだものねぇ」
アリスは心配そうにスーリの顔をのぞきこんだ。この子羊と出会った時のことを思い出す。雪の中、氷のように冷たくなっていた時のことを。火をおこし、毛布でぐるぐる巻きにして、必死で温めたことを。
あの時は撫子たちも肝が冷えたし、もう繰り返すのはごめんである。酒場で十分に蓄えたはずの温もりは、今や空っぽになっていた。今度こそ風邪をひくはめになるかもしれない。
ところが、帰ろうとするアリスの手を、スーリが強く引いた。ふるふるとわずかに首を横に振っている。撫子とアリスは顔を見合せた。
アリスが少しかがんで、子羊と視線を合わせる。
「あらあら、どうしたの? 帰りたくない?」
「…………」
相変わらずの無言だが、アリスはその視線に何か確かな意思を感じ取ったらしい。少し考えるように目を伏せてから、撫子の方を振り返った。
「ねぇ撫子、宿には戻るけれど、畑の前を通りながら戻る、というのはどうかしら」
撫子は黙考した。その発言から考えるに、スーリは華蟲をかなり楽しみにしていたのだろう。帰ろうとする同行人を、引き止めてしまうほどに。近頃やっと意思を見せるようになった子羊が、ここまではっきりと態度で主張している。
買い出しの際に、ニースの街の地理は大体頭に入れてあった。撫子は頷いて、宿の方向へと歩き出した。
◇◇◇
街の通りから外れた草地を、宿の方向へ進んだ。途中いくつか小さな畑を見たが、やはり華蟲はまだ眠っているようだった。そこで見物していた客たちも、結局は諦めて、川の方へと移動していく。
このまま弓なりに歩けば、途中まで畑を見ながら宿へ帰れる。それでも道中見られなかった場合は、明日の朝にでも見に行くか、諦めてニースを出るかの二択となるだろう。
しかし、スーリの手にしっかりとした意思が宿っているのを見てしまった。撫子は、このまま見ずに終わるようなことにならなければいい、と考えてしまう。せめて、一匹だけでも、と。
ぞろぞろとほかの見物客たちに混じって歩いていると、何やら前方から喧騒が近づいてくるのがわかった。
「もしかして、華蟲が」
「あっちで出たのかもしんねぇど」
見物客たちは早足になった。彼らもまた、最初の畑の当てが外れたことで、この薄暗い中を移動するはめになったのだろう。元よりこの街に住む者ならば、期待が大きくなるのも当然である。その表情は少し明るくなっている。そうして次々と撫子たちを追い抜いて、彼らは前へと急いだ。
これではたとえ本当に華蟲が出てきているのだとしても、見物客でごった返して見えないかもしれない。特に小柄なスーリなど、踏み潰されてしまいそうだ。
前方の喧騒がはっきり耳に届き始めて、その雰囲気に撫子は眉をひそめた。どうも激しすぎるような気がした。これは歓声というより──。
突然、わっと声が膨れ上がった。
それは、たくさんの怒号や悲鳴だった。
「王冠鯰だ!」




