君が海を知らずとも・11
羊と弾丸
4 君が海を知らずとも・11
雨は少しだけ弱まったようだ。それでも誰もが不安げな表情で空を気にしている。
「寒くなってきてしまったわね」
アリスは呟いた。冷たい雨がぽつぽつと降り注ぎ、体力がどんどんと奪われていくのがわかる。そっと子羊の肩を抱いて、アリスは眉をひそめた。
「ねぇ、どこかで休みましょう? このままじゃ風邪がひいてしまうわ」
頷いて、撫子はすぐ隣にあった酒場を選んだ。すでに中は客がいっぱいだった。考えることは皆同じである。しかし人々は外の様子を気にして通りの方へ固まっていたため、席は空いていた。奥の方の席へかける。
「あら、いらっしゃい。ねぇねぇ、雨、ひどかったでしょう」
やって来たのはイスカだった。長い耳をひくつかせ、その表情にはやはり不安さがにじみ出ていた。
「いつもこうなのか」
「いいえ、初めてかもしれないわ。こんなに降るなんて、変よ」
弱まったとはいえ、外は分厚い雲で薄暗くなっているし、通りはすっかり水浸しである。石の敷き詰められた道を叩く雨音は、焦燥感を駆り立てる。ざわざわと胸が落ち着かない。撫子は重ねてたずねた。
「こんな雨でも、祭りはやるのか」
「そうねぇ、もしかしたら華蟲が出てこないかも。あの子たちって、暖かくなったら外へ出てくるわけだし。これじゃ寒いでしょ、さすがに。お客さんたちだって、寒くてここへ来たんでしょ?」
イスカはぺらぺらと説明したのち、野菜のスープがあと少しでできそうだと勧めてきた。うまい具合に乗せられたような気もしたが、撫子はそのスープを注文した。
一旦店の奥へ引っ込んで、イスカはすぐに戻ってきた。しかし手ぶらである。他の卓の世話をしにいく様子もなく、真っ直ぐ撫子たちの元へやって来たところを見るに、どうも暇らしい。
「いつもだったらもっと盛り上がってるのよ。一番の稼ぎ時なんだから、本当に。あたし、喋りすぎて顎が痛くなっちゃうくらいなの」
喋りすぎるのは客の多さだけが理由ではないと思ったが、撫子は黙っていた。ここで余計な口を挟んだら、それこそイスカの顎を破壊してしまうかもしれない。適当に相槌を打っておいた。
スープを待ちながらイスカの怒涛の愚痴やら世間話やらを聞き流していると、見覚えのある農夫が近づいて来た。あの晩、撫子たちにやたらと絡んできたご機嫌な農夫である。
「兄ちゃんらよぉ。どうもな、こんなに盛り上がらねぇと、つまんねぇべ」
「そんなこといって、さっきから飲んでるじゃないの、おじさん」
農夫の手には今日も杯が握られていた。顔もうっすらと赤い。しかし彼のいった通り、確かにその表情は曇っているのだった。
イスカにちくちく非難され、農夫は少し居心地悪そうに唇をとがらせた。
「だってよぉ、こうも降られちゃあよ、気も滅入るべな」
それに、と農夫は杯を揺らして続けた。
「このままじゃ余っちまうからよ、手伝ってやっぺと思ってよ」
「まぁ心配ありがとう。後で奥様にもよーく話しておくわ。おかげでお酒がぜーんぶなくなりましたって」
賑やかなやり取りを前に、一体彼らは何故ここで話しているのだろうとそろそろ困り始めてきた頃、イスカが店の奥に呼ばれた。ぴょんと跳ねて奥へ消えていったイスカは、すぐにスープを盆に載せて戻ってきた。
スープは確かに湯気がもうもうとあがっていて、温かそうである。匂いに食欲をそそられたのか、農夫が自分も欲しいといいだして、イスカに注文した。一度に頼んでよね、と文句をいいながらもイスカはまた奥へ消え、農夫も席へ戻って行った。
静かになった卓にスープが並び、ようやく撫子たちは一息つくことになった。
注文したスープは、豆がドロドロに煮込まれていた。また心配される前に撫子はすぐに口へ運ぶ。横で子羊が少し驚いたような顔をしていたのが、何だか余計に気まずかった。
「昔ね、海を見たいって、お願いしたことがあるのよ」
雨で冷えきった指先で、スープの器を包み込む。ゆらゆらと顔へかかる湯気と、スープの表面を見つめながら、アリスがぽつりと呟いた。
誰に、とは、きかなかった。
「海ってまだまだ遠いのね。一度見てみたくって、連れて行ってってお願いしたの」
「でも、ダメだったわ。私じゃきっと海まで体力がもたないからって」
やんわりと。穏やかに。朗らかに。そのささやかなお願いは取り上げられた。そっと隠され、上書きされた。アリスは美しい羽根ペンを握らされた──これで勉強する方が楽しいよと諭されて。そして、お願いは完全になかったことにされた。書き損じの羊皮紙を、暖炉に投げ込むように。
その灰の中から、アリスはようやくかきだしたのだ。家を出て森を出て、レルガノを出て、やっと。
「この後は港沿いに進む。まだ遠いが、そのうち嫌でも毎日見るようになる」
撫子は本の頁をそっとめくるようにいった。
「暖かい今のうちなら、歩いていても過ごしやすいだろう。船も見られる」
「お船も見た事ないわねぇ」
アリスは不意に話し始めた撫子にきょとんとしていたが、そのささやかな提案に、くすくすと笑った。
◇◇◇
「おぅい、あっちで出たってよ」
店先で声があがった。興奮したような男の声である。雨の様子を見ていた人々が、にわかに騒ぎ出す。
「あっちっちゃあ、どこで」
「あれ、麦の爺さんいっぺな。角っこの。あそこの息子のだと」
「いやどうも、珍しいこと。まだ川の方は出てねぇの」
「まだだと。静かだか、どうなってんだっぺって、みんなして見に行っちまったよ」
「どれ、俺も行くかな」
屯していた酒飲みたちに報せを届けて、男はまたどこかへと走って行ったようである。銀貨を卓へ置くなり、人々は外へと歩き出した。
出たというのは恐らく華蟲のことだろう。どうやらどこかの畑で、泥の中から這い出てきたのが確認されたようだ。
先程までつまらなそうにしていたイスカが、軽く跳ねて隣へやって来た。
「やっと出てきたのね。あぁよかった! せっかくのお酒が全部おじさんのお腹に収まるところだったわ、本当に」
「これは、大体いつも通りなのか」
たずねると、イスカは唇に指を押し当てて、少し考えるような素振りをしてから答えた。
「そうねぇ、ちょっと遅いけど。いつもなら、もっとあちこちから出てくるもの。やっぱり寒かったんだわ」
「……なら、もう少し待って、見に行くか」
アリスとスーリの瞳が、ぱぁっと輝いた。それにつられて口角が上がったところを、イスカがニヤニヤと覗き込んでくる。
どうもこの娘はこちらの反応を楽しんでいる所がある、撫子はため息をつき、スープに集中することにした。




