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羊と弾丸  作者: 哀雨 ザラメ
4 君が海を知らずとも
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君が海を知らずとも・8

羊と弾丸


4 君が海を知らずとも・8



 撫子は、仄かに白い朝陽を窓の外に見た。ニースの街並みが、薄明の底で眠たげに整列している。


 振り返って寝台に目をやると、くすんだ色の掛布がこんもりと膨らんでいた。その隣で、輝くような金髪が波打っている。

 酒場から帰り、そのまま寝台へ潜り込んだのだ。




 ◇◇◇




 昨晩、本当に苦しくなるくらい食べて、撫子たちはやっと店を出た。料理がなかなか途切れず、席を立つ機会もことごとく失い、おまけに農夫とイスカがほとんど離れなかったので、とうとう食べっぱなしだったのである。思わず腹部をさすって膨らみ具合を確認してしまった。


 満腹になったスーリは最早限界といった様子で、アリスに手を引かれながらぼんやりしている。とろんとした瞼が、ゆるゆると閉じては開くを繰り返して、半分寝ているといってもいい。このままでは歩きながら寝そうだ。

 撫子は仕方なくアリスへ目配せして、すぐにでも船を漕ぎ出そうとしている仔羊を背負った。スーリは少しだけ驚いた様子を見せたものの、結局撫子へもたれかかって、心地よい眠りの海へと出航していった。意識のない生き物は重たいというけれども、この仔羊はどこまでも軽い。


 脱力し寝息をたて始めたスーリを、アリスが覗きこむ。フードに覆われた顔には陰が落ち、澄んだ青の双眸は見えない。それでも僅かに綻んだ唇が、その感情が上向きになってきていることを、そっと撫子へ教えてくれた。だから撫子は、何か改まることもなくいつものように、戻ろうと声をかけた。果たしてアリスは頷き、隣へ並んで歩き出した。

 通りはもう店じまいをしているところが多く、軒先に吊るされたランタンも今日の役目を終えて、黒々と冷えた姿になって沈黙していた。ニースに暮らす者たちにとっての、一日の終わりである。まだ灯りがちらつく店から大きな笑い声が漏れ聞こえてきて、農村の夜の静けさをちりちりと震わせる。

 それでも足元には冷えた空気が漂っている。春先の夜は肌寒い。帰路は自然と早足になる。


 一つまた一つと、灯りが夜闇へ滲んで溶けてゆく。どこからか馬の鼻を鳴らす音がする。近くに繋がれているのだろう。撫子は、遠くレルガノから自分たちを運んできてくれた馬たちを思い浮かべた。本当ならもっと休息をとらせるべきだろうが、ニースに長居して馴染みになってしまうのは避けたかった。それでなくとも()()()は目立つのだ。噂が広まってしまえば動きにくくなる。髪色を蛇柘榴で誤魔化せるのも最初のうちだけだろうと、撫子はこっそり毛先を見つめて嘆息した。


「あなたがね」

 ぽつりと、アリスが呟いた。撫子はすぐ彼女の方へ目をやったが、言葉はすぐには続かなかった。アリスが遠くゆったりと思考をめぐらせながら、真剣に伝えようとしているのがわかった。

「あなたが、私の髪を好きだといってくれたように、私もあなたの髪が好きよ」

 こちらを見ずに歩くアリスの表情は、よく見えなかった。

「でもあなたが、あなたの髪を素直に好きっていえないのも、知っているのよ」

 私もそうなのだもの。

 アリスはため息をつきながらそういった。悲しみというより呆れに近いため息だった。それから、やっとこちらを見て、ふっと眉を下げて笑った。

「困っちゃうわね。どうにも私たち、意地っ張りなの」


 きっと意地を張ってしまうのは、簡単によしと頷けない理由を、お互いに知っているからだろう。はっきりと言葉にして説明したわけではないけれど、撫子もアリスも、自身の髪を心から愛せない理由が、少し似ていることを感じていた。

 だからこそわかってしまう。そして、()()()()()で嫌わなくてもいいと、否定したくなってしまうのだ。相手を受け入れたくて認めたくて、相手の理由をも拒もうとしてしまうのだ。その理由が、深く強く、どうしようもないほど大切なものだと知るたびに。

 アリスが控えめながらも反発したのは、そういった葛藤があったからなのだ。

「似たもの同士だな。臆病なところも」

 撫子もまた、ため息をついた。やはりそれも、あまりの頑固さに呆れた、という感じだった。

 こうやって出方を伺いながら否定してやろうと構えておいて、いざ目当てがやってきたら途端に引っ込みたくなる。遠回しに少しずつ、万が一()()があっても回避できるようにしている。傷つくのも傷つけるのも嫌なのだ。


 アリスはくるくると喉を鳴らすように笑った。甘えている子どものようだった。

「まったく下手っぴなのねぇ、私たち」

「アリス」

「なぁに?」

 ありがとう。

 アリスは少し驚いたような目をしてから、微笑んだ。自分でも慣れぬことをしたと思ったので、撫子は照れくさかった。




 ◇◇◇




 昨日のうちに頼んでおいた簡単な朝食が届けられた。部屋まで持って来たのは女主人ではなく、手伝いの山羊族の娘だった。新しくヘガメスへやって来た若い商人一行に興味津々といった様子だったが、さすがに忙しいらしく、食べ終わった頃に下げに来るとだけいって戻っていった。何だかお喋りが大得意という雰囲気を隠そうともしていなかったので、何もきかれずにすんで撫子はほっとした。


 黒パンに茹でた豆、刻んだ根菜が入った温かいスープ。豆はほんのり甘みのある素朴な味だった。

 寝ぼけ眼だったスーリが、はっとしたような顔で撫子を見た。次いで、豆の入った椀へ視線を落とす。それがあまりにも慌てている様子だったからか、アリスが小さく吹き出した。

「撫子、スーリが心配してくれているわよ」

 口元をおさえて震えているアリスを睨んでから、撫子は仔羊を見た。椅子にちょこんと腰掛けたスーリは、眉を下げてこちらを伺っていた。気遣わしげな視線が痛い。

 そこに嘲りなどないのは、撫子もわかっていた。つまり、本当に純粋に──スーリは撫子を心配しているのである。茹でた豆を食べなくてはならない撫子を。


 撫子は少し乱暴に豆を掬って、口へ入れた。スーリが息を呑む気配がする。大袈裟に咀嚼して飲み込んでみせてから、撫子は未だに気にしているらしい無垢な仔羊をきっと見やった。

「いっておくが、そのままの豆なら平気なんだ。すり潰してあると嫌なだけだ」

「そういうのを、好き嫌いっていうのよ、撫子」

 勿論弁解じみていることなど十分わかっていたのだが、いわずにはいられなかった。案の定すかさず正論を差し込まれ、撫子は黙るしかない。

「何でも残さず食べましょう。ね?」


 子どもに案じられるわ連れに窘められるわで、平気なはずの茹で豆が、妙に苦く感じる撫子だった。




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