君が海を知らずとも・4
羊と弾丸
4 君が海を知らずとも・4
撫子が神殿へ連れて行かれたのは、7つになった時だった。これは王都に暮らす者たちにとっては通例である。親に手を引かれて、魔力の有無を調べてもらうのだ。
魔力の有無は神殿にのみ所持が許された、魔水晶に触れるとわかる。魔法使いの育成は神殿と協会が連携して行っていたが、まず適性を判断することが、神殿の役割だった。魔力がある者が触れると、水晶が輝く。光の強さや色により、魔力の量も測る。光が強ければ強いほど、色が濃ければ濃いほど、魔力が多いとされる。
そして撫子は微量な魔力により、騎士への期待を胸に触れた魔水晶を、仄かに水色に光らせたのである。
神殿での託宣があってから、撫子の訓練学校への入学準備は着々と進められていた。否、というより、淡々と、である。主に進めているのは学校側の者たちで、撫子は流されるまま渡されるままだった。赤き英雄の一族だからと、せっせと気を回したらしい。
神殿からのお言葉に反することなどありえない。こと王都においては尚更だ。望もうと望むまいと、わかろうとわかるまいと、それは遂行されなければならない。立ち尽くす撫子をよそに、周囲が勝手に整えてくれるところだけは幸いだった。そうでもしなければ、撫子は何の準備もなしに学校へ向かっただろう。
そう──学校へは向かっただろう。何も持たないままでも。撫子もまた、神殿の言葉を無視することなど考えられなかった。だから悲しくて悔しくて、どんなに嫌でも、逃げるという選択肢は元からない。
しかしその先はまるで想像できなかった。自身に魔力が流れていて、学校で魔法を学ぶなど、夢にも思わなかったのだ。
やがてどうやら撫子が魔法訓練学校に行くらしいということが近所に広まって、元々あった奇異の目たちは爛々と輝いた。若干ながらあった英雄の娘への敬意も、憐憫や嘲笑へとすり変わる。それは父にも向けられたから、余計に腹立たしく、そして情けなかった。赤い髪のくせに。赤い瞳のくせに。どうせなら母に似ればよかったものを。出来損ない、はずれ。石を投げつけられることこそなかったが、影で囁かれる言葉の礫は、撫子を鋭く射抜いた。
だから撫子にとって赤い髪は、誇りであると同時に悔恨の象徴なのだ。
「石鹸は──もし、売っていたらでいいだろう。他に買う物がある。そっちが先だ」
アリスの目を見ていられなくて、撫子は視線を合わせぬように顔を逸らした。たまたま視線の先にあった店へ向かい、あたかも目当てがあったというように、そのまま店の扉へ手をかける。勿論よく考えて選んだわけではない。勢いよく扉を開けると、びっくりしたような顔の主人がいた。
◇◇◇
中央を縦断する道に沿って、同じような外観の建物が並ぶ。入口に掲げられた看板で、どれが何の店なのかはわかるようにしてあった。看板はきちんとした組合に入って、真っ当に商売している店だという証である。さすがヘガメスの入り口というだけあって、どこもかしこも看板を出していた。こそこそしなければならないような店などないのだ。
飛び込んだ店が提げていた看板には、薬瓶の絵が描かれていた。人の良さそうな主人は、ニースでただ一人の医者だという。しかし魔力がないため、効果の高い薬は調合できない。それゆえ、ここにあるのは他の商人から買い付けてきたものか、主人自ら調合した簡単な薬だけだ。
門番が話していたように、調合したばかりの薬は喜ばれた。傷につける塗り薬よりも、胃腸に効く飲み薬の方が高く売れたのは、ニースの大酒飲みたちの長年の悩みのせいだろう。しょっちゅう胸や胃を焼いている彼らが、主な客になるのだという。買い取った店の主人は、困ったように笑っていた。
ついでに道中で狩った獣の皮も売れた。開けた大地のヘガメスでは、大型の獣はなかなか見られないので貴重らしい。その代わり港に揚がる魚が主な食物になるわけだが、鱗や鰭では寒さはしのげない。冬の海風はひどく冷たいのだ。
「もうちっと東ならな、森があっけどなぁ」
いそいそと獣皮を奥へ仕舞いながら、蛙族の主人は愚痴を零した。ニースリーン平野近辺では獣があまりとれないため、獣肉は手に入りにくく、高価なのだという。おまけに木材も高い。森や山林がもう少し近ければ違っただろうと、宿屋に食料を卸している主人はため息をつく。
「まぁその代わりナトヴァスもラーダラも近ぇからよ。香辛料は安く買えっかんな、飯はうめぇど」
魚を焼いたり蒸したりするのに、香辛料は欠かせない。暖かい地方でなければ育たないものも多く、西南の国からの輸入に頼っていた。ヘガメスはそういった西南との貿易も担っているのだ。
ついでに美味い飯屋も教えてもらったので、撫子たちはそこで夕食をとることにした。
◇◇◇
「…………」
「…………」
「…………」
沈黙。
例によって周囲の卓は騒がしいのに、撫子たちはまるで葬儀でもしているかのように静かだった。初めて会う者同士での食事だってもう少し会話があるだろう。あまりに異質なその空気に、周りの飲んだくれたちもただ遠巻きに見るだけである。
こんな時に気の利いた振る舞いでもできればいいのだろうが、撫子にそんな柔軟さはない。幼いスーリにそんな役割が期待できるはずもなく、哀れにもただ口へパンを運ぶだけだ。
魚に香辛料を擦り込んで焼き上げた店自慢の料理も並んでいたが、アリスの前に置かれているため誰も手をつけない。先程から店の看板娘がぴょこぴょこ跳ねながら卓の世話を焼いているが、まったく食事の進まない撫子たちの卓は無視である。近寄り難いのだろう。
アリスの手は、膝の上で固く握られたままである。何も食べていない。
「…………」
撫子は口を開きかけたが、結局パンごと飲み込んだ。怒ったような言い方しかできないと思ったのだ。結局仔羊と一緒にパンをひたすら咀嚼するしかない。そうして器からパンがすっかり無くなりそうになった時、アリスが不意に、残ったパンへ手を伸ばした。
撫子とスーリは揃ってびくりとして固まった。パンの欠片を摘んだまま、アリスの動きを目だけで追う。あたかも小動物が驚いた時の反応である。
アリスはそんな2人を見て、少し呆けたようにしてから、すぐに破顔した。
「あらあら、2人とも同じ顔」
それから魚料理の盛られた器を卓の中央へ寄せて、食べましょうと結んだ。その表情は柔らかく、幾分空気も和らいだようだった。
相変わらずパンを摘んだまま、撫子とスーリは顔を見合わせた。アリスは鼻歌混じりに、それぞれの器へ魚料理を取り分けていく。
ようやく食事が始まったような気がして、パンばかり詰め込んでいた2人は、こっそり安堵のため息をついた。