君が海を知らずとも・3
羊と弾丸
4 君が海を知らずとも・3
風の匂いが違う。
再び深く被ったフードが、はたはたと音をたてて、撫子の額を優しく掠めていく。少し擽ったかった。
ヘガメスの北端。宿を兼ねた酒場の女主人によれば、ここはニースと呼ばれているらしい。北側から東側をニースリーン平野に挟まれ、彼方に山と海を臨む集落である。レルガノや王都からやって来た者たちが最初に立ち寄る町として、彼らを明るく迎え入れる役回りだ。
住民はほとんどが農民で、平野を耕して、小麦や豆を育てて暮らしている。ゆったりと日々を過ごす中で、体力勝負の農業を活計とする住民にとって、一日の何よりの楽しみは酒だ。酒場では作業を終えたらしい者たちが、ご機嫌で麦酒を煽っていた。
何やら大盛り上がりの彼らを横目に、撫子は女主人に馬の世話代と宿代を渡す。
「新しい人け」
女主人は銀貨を受け取りながらたずねる。その手からは料理の匂いがした。食事の世話をするのが主なのだろう。撫子は頷いて答えた。
「王都ではやっていけないから、こっちへきた」
「ほうけ。貴族様でもなけりゃ、無理だっぺなぁ」
恰幅のいい女主人はやたらと舌っ足らずだった。年嵩はありそうだが、聞き慣れない訛りのせいかもしれない。幼い子どもが懸命に大人の真似をして喋っているようで、何だかちぐはぐだった。
「魔法使いは商売しちゃいけねぇのか? あの、ほら、羊族守ってるのはいっぱいいっぺ?」
「羊族を守る魔法使いは、他に商売できないらしい」
誤魔化す必要もないので素直に教える。他でもない、羊族を守る魔法使いだった撫子は、知らん顔が慣れてしまった。
たずねておきながら、女主人はあまり興味なさそうにふぅん、と鼻を鳴らした。
「不便だなや」
「まぁ、他に商売をやろうとも思わないんだろう。協会の魔法使いというだけで、相当貰っているらしいからな」
本当に他人事の振りが慣れてしまった。何だかむずむずして、宿の規則を説明する女主人へ適当に返事をして、撫子たちは酒場を出た。
荷を軽くするためとはいえ大好きな買い物であるはずなのに、アリスは何やら暗かった。疲労のせいか。スーリが心配そうに見上げている。
「気分でも悪いのか」
フードを深く被ったアリスは、ふるふると首を横に振った。それから、痛みに耐えるような顔をして、撫子の方を見た。
「ねぇ撫子、石鹸が欲しいわ」
「…………は?」
不意に発された要望に、撫子はぽかんとした。少し休みたいとか、お腹がすいたとか、そういう言葉を予想していたので、まったくの斜め上だった。とりあえず理由をたずねる。
「何で急に石鹸が必要なんだ」
「必要なのは私じゃないわ。あなたよ、撫子」
撫子は眉根を寄せた。アリスは相変わらず辛そうな表情をしていたが、やはりどこか真剣に──否、必死だった。
「はやくその色を落とさなきゃ。洗えば落ちるのでしょう?」
「…………」
ここでようやくアリスの考えがわかって、撫子の胸の奥で、ずくんと嫌な音が鳴った。それが喉の方までせり上がる。息が詰まり、身体も固まったような気がした。ぎしぎし音が聞こえてきそうなぎこちなさで、アリスから目を逸らした。
「……それより準備が先だ。はやくここを離れて」
「駄目よ。せっかくの綺麗な色が戻らなくなってしまうわ」
「…………」
撫子は黙りこくった。
◇◇◇
ニースに入るにあたり、撫子は髪を黒く染めた。潰すと真っ黒な果汁が溢れる蛇柘榴を摘み取って、濡らした髪に揉み込む。乾くにつれて、髪色は澱んだ黒に変わっていった。
赤い髪に赤い瞳。ヴェスギアにおいて、これほど知られた容姿はない。
赤き英雄の一族。
彼らは皆、優れた騎士だった。老いも若きも、男も女も関係なく。輝かしい戦歴は、そのまま一族の系図として語り継がれてきた。
その栄誉は、撫子の父、ダレンの代で最高のものとなり──そして、最後を迎えた。
東側諸国の反乱を鎮めるため、ダレンは王命を受け、見事同盟を結んだ。撫子が生まれたのは、その同盟の後である。
当たり前のことのように、決まっていたことのように。撫子は赤い髪と瞳を持っていた。周囲の者は、撫子もまた優れた騎士となって、国を轟かす武勇を魅せるのだろうと、信じて疑わなかった──撫子自身もそうだったように。
ところが撫子は、魔法使いとなった。
微量ながら魔力を有していた撫子は、騎士団ではなく、魔法使いの訓練学校へ通うことを神殿に言い渡され、騎士としての道を失った。当時、一人でも多くの魔法使いを育てることが、協会の急務だったのである。
出来損ないの赤。はずれの赤。
撫子は散々そうやって詰られてきた。
誇り高き大戦の英雄の血が絶えると、周囲は頼んでもいないのに勝手に嘆いた。
この髪を、色を、撫子が持っていることについて、喜んだり褒めたりする者などもういなかった。いっそ、そんなものは持って生まれなければよかったのだと、勿体ないことをしたと、落胆された。
たとえ騎士になれずとも。撫子は、一族を誇りに思っている。だからこそ、自分の容姿にだって、不満を持つべきではない。ない──のに。
責められるのは嫌だ。かといって、褒められるのも嫌だ。
そんな面倒な気持ちを抱えたまま、撫子はずっと過ごしてきた。
髪を切り捨てるのも、すっかり染めきってしまうのも、一族を否定したように感じてしまう。かといって持ち続けていても、ため息をつかれるか、舌打ちをされるだけだ。どうすればいいのか、撫子にだってわからなかった。
しかしこの色は、とにかく目立つ。すべてを物語ってしまう。知られてしまう。見た目だけで身元がわかってしまうのは、逃亡している身として最も痛いところである。
だから染めたのだ。一時的ではあるけれども、誤魔化せる方法として。髪の色を変えるだけで、印象は簡単に上書きできる。追跡側としても、あの出来損ないの赤が逃げ回っている、という知らせで動いているわけだから、まず赤髪赤眼に注目するだろう。別にずっと騙し通す気はない。同じところを何度も往復するわけではないのだから、通り過ぎるその時だけ、どうしても見られてしまうその一瞬だけ、赤髪赤眼など来ていないという証言を生みさえすればいい。
そして撫子は、黙々と蛇柘榴を潰し、指先で取って髪へ揉み込んだ。最初は少し、手が震えたけれど、段々と毛先に蛇柘榴の匂いが移ると、もう後戻りできないと思い知って踏ん切りがついた。
アリスの何かいいたげな視線には気づかないふりをした。これが最善の方法なのだと、無言で自分にいいきかせた。唇や喉を必死で抑えた。
たぶん、もし声に出していたら、きっとそれは、震えてしまっていただろうから。