白銀の大地より・3
羊と弾丸
1 白銀の大地より・3
ぱちぱちと火が爆ぜる。雪をかいて作った焚き火は美しく燃えている。赤赤と輝き周囲を照らす炎を見つめ、撫子は火の番をしていた。
そこへ、子どもを寝かしつけたアリスがやって来た。
「よく寝てるわ」
「疲れたんだろう」
なんということもない会話をしつつ、2人は並んで座った。
昼間ずっと歩き通しだった馬たちの、しかし穏やかに鼻を鳴らすのが聞こえる。
しばらく黙っていると、アリスが不意に小さく声をあげた。
「綺麗ねぇ」
アリスの視線を辿って、撫子は上を見た。満天の星空だった。冬の寒さに磨かれた星たちの、荘厳な輝き。冷たい空気のせいか、暖かい時期のそれよりずっと透き通って明るく見える。
視線を戻すと、アリスはまだ星を見つめていた。
深い星の海が、宝石の瞳の中に広がっている。
「……もうだいぶ来たのかしら」
小さな唇がそっと音を紡ぐ。問いかけというより独白に近く、どこか達観しているようだった。
撫子はふるふると首を横に振った。
「まだ少しも来ていない。雪がなくならないからな」
「そうかしら」
そう言って、アリスは頭を撫子の肩に寄せた。コツンと固いものが当たる。昼間、市場では深く被っていたフードが外されて、それはあらわになっていた。
羊族。
美しい巻角をもち、他の種族と同じように、人間族と共に暮らす獣人族の一種。
彼らの角は、骨は、非常に稀少で最も美しいとされ、あらゆる物をさしおいて高値で取引される。肌も髪も、肉ですら。
アリスはその羊族だった。
アリスがうりうりと角を当ててくる。
「まだ少しも、遠くへ来ていないのかしら」
あの家から。あの森から。
◇◇◇
しんしんと雪が積もる。先日軽くしたばかりの屋根が、空から落ちてくる雪を背負って、わずかに悲鳴をあげていた。そうして真っ白に雪化粧を施された小さな家の庭へ、ぽつりぽつりと足跡を残していく。
「あらあら、お疲れ様!」
アリスの家の中は、暖炉がよく燃えていた。時折みしみし柱が鳴る。雪の重さに家が鳴くのだ。しかし、森で幾年星霜の時を過ごしたエインシ杉を使った家は、しっかりと耐えているようだった。
ローブを脱いで、撫子はふかふかの椅子に腰を下ろした。心地よい感触に包まれる。
丁寧に磨き抜かれたテーブルの上に、香りのよい紅茶が並んだ。
「この前買ってきた茶葉で淹れてみたのよ」
アリスがむんと胸を張って嬉しそうに言った。しかしその茶葉を選んでやったのは撫子である。撫子はげんなりしながらも紅茶を手に取った。
「雪がやっとおさまってきたわねぇ。寒いのは苦手なのに、冬は困ったものだわ」
生まれた時からこの地に住んでいるくせに、アリスはそんなことを言う。
ヴェスギア王国、その北西端。
山に囲われ谷に沿ってできたレルガノ地方は、ヴェスギアの中でも最も雪深い場所として知られている。毎年厳しい寒さと大雪によって冷たく閉ざされるそこは、白銀の地と呼ばれることもあった。
その白銀に染まった森は深く、日中も暗い。住むにはおおよそ適さないと言える森の中、街からはかなり離れた場所に、アリスの家はあった。
アリスの談によれば、アリスが幼い頃にわざわざそこへ家を建てたのだという。
街へ買い出しに行くのも、かなり苦労しなければならない。しかし引越しを提案することはしなかった。撫子もアリスも。そもそも雪が降るのは冬の間だけで、暑い夏などはむしろ快適だった。常に木陰があり、山の上の方で冷やされた風が、家に向かって吹いてくるからだ。
撫子もまた、苦労することを不快だと感じない性質だったので、立地について改めて問題視されることはなかった。
レルガノにはほぼ中央に一本、川が走っている。豊かな水が流れるこの川は、魚が獲れるだけでなく水路としても大きな役割を果たした。
上流で伐採した木々を舟に載せ、下流の街まで運ぶのである。深い森を抜け険しい谷の道を歩くより遥かに安全で、何より早い。運搬にかかる時間と労力の大幅な縮小により、レルガノは古くから木材加工で栄えてきた。
アリスの家は、そんなレルガノの中でも指折りの職人たちによって建てられた、かなり贅を凝らしたものだった。
並べてある調度品もどれも美しく、いつも誇らしげにその濡れたような輝きをたたえていた。
しかし撫子は、アリスが家について何か自慢するように話す姿など見たこともなかった。
「今年もずいぶん降ったわねぇ」
窓の外へ視線を向けながら、アリスはのんびりそう言った。白く細い指が茶碗の持ち手をつまみ、琥珀色の水面が揺れる。
撫子も同じように窓を見やって、次いで先ほどまでの肉体労働を思い出してしまって顔をしかめた。日頃怠けているつもりはないが、やはり雪を集めて運ぶのは辛いものがある。
積もりに積もった雪は、庭を容赦なく覆って歩きにくいことこの上ない。雪かきを定期的にしなければ、あっという間に家に閉じ込められてしまう。そしてその役割は、当然のように撫子である。
とはいえ、近くに雪を流せる川がないため、とりあえず道を作って、邪魔にならないよう端へ寄せるしかない。おかげで庭のあちこちにうず高く積まれた雪の塊が、まるで彫像のように立っている。
「あの子たちにも名前をつけてあげなくちゃね」
アリスの声は弾んでいる。こちらの苦労は特に気にならないらしい。
撫子はやはりげんなりしながら、熱い紅茶を流し込んだ。