君が海を知らずとも・2
羊と弾丸
4 君が海を知らずとも・2
たっぷりと風を孕んで、遥か先まで緑が押し寄せているかのようだ。
しかしよく目をこらすと、ぽつぽつと違う色が浮かんで見える。あれが炭焼きの話していた、小さな町なのだろう。
ほろの中へ羊族たちを戻し、馬車をゆっくり進めた。馬たちの負担が気がかりだった。休憩もあったとはいえ、ほぼ歩き通しだ。初めから荷物は絞ったつもりだが、軽いのに越したことはない。旅は──まだ続くのだから。
撫子は細く息を吐いた。指先が冷たい。
町の入口には、木を組んだだけの簡素な門があった。その木というのも細く、少し小突けばバラバラに壊れてしまいそうだった。
しかし本当に門を小突こうものなら、周りに控える門番たちに突き回されることになる。彼らはひとたび敵と見るや、冷静かつ容赦のない動きで追い詰める。ヘガメス領の誇る警護隊である。
ヘガメスは、ヴェスギアの食料庫という別名を持つ。大国を支える最大の農地として、軍事的にも重きが置かれる。他国と隣接していることも大きい。
つまりこの領地に配置されているのは──ヴェスギアの中でも、指折りの兵力。
勿論彼らとて、気に入らぬからといきなり殴りかかってくるわけではない。のんびりとした空気がそうさせるのか、むしろ剣や槍を持つ兵士としては穏やかな方である。彼らが苛烈な光を宿らせて、研ぎ澄まされた武勇を敵の喉元へ疾走らせるのは、攻撃された時のみなのだ。
だから、と、撫子は手綱を握り直す。
このヘガメスで少しでも不審だと思われたら。怪しまれたら。あっという間に取り囲まれてしまうだろう。そして羊族たちは、協会ヘガメス支部で保護され、撫子は協会本部に連行される。どんなに弁明したところで、撫子が協会に反旗を翻し、逃亡していることに違いはない。待っているのは投獄だ。協会所属の魔法使いが、護るべき羊族を無理矢理連れ回しているという絵にしか見えないのだから当然である。
門が近づいてくる。周りにある柵も簡単なもので、やはり少し蹴っただけで倒れそうだ。
端の方へ寄ってから、馬車を止めた。案の定、門番だろう鎧姿の男がこちらへやって来たからである。鎧は王都の騎士ほど頑強ではない。機敏に動けるよう計算した鎧なのだ。
「商人の方ですか」
門番はにこやかである。見慣れぬ者にもまずは礼を重んじる。ただ追い返せばいいというわけではない。日々通る者の顔を覚えて、知らない顔には声をかけて探る。最初から不審感を露わにしては、わかるものもわからない。
撫子は素直に答えた。
「最近始めたばかりなんだ」
「ほう、それでこちらへ?」
首を傾げ、門番は重ねて問う。
その疑問は予測していたので、撫子はごく自然に、困ったという顔をしてみせた。
「調合専門でな。王都じゃあまり相手にされない」
「なるほど、あちらはもう大勢いますからなぁ」
朗らかに頷いて、門番は納得したようだった。
調合専門──つまり魔法を使った薬品や、加工品を扱う商人。商品の生産自体は魔法使いならば可能だが、それを専門に王都で儲けようとすると、かなりの悪手となる。
王都は当然ながら、ありとあらゆる技術の最高峰が集う。すでに古い商家や組合が強大な影響力と求心力を持っている。周囲はすべてが最先端で最大勢力、彼らと渡り合えるだけの実力がなければならない。
そして王都には、魔法使いを訓練する王立学校がある。卒業すると、魔法を扱う職へ就く権利が与えられる。協会所属を希望する者がほとんどだが、調合を得意とする魔法使いが、薬師や調合師を目指すことも珍しくなかった。つまり、王都にはどんどん優秀な調合専門の商人が生まれるのである。
もはや飽和状態となりつつある王都での商売選びの難関さは、他領でも知れ渡っていた。王都では勝負できない新参が、こうして少しでも競合のいない他領へ、と流れてくるのだ。
門番も、そうした事情は承知していたようだった。
「このあたりじゃ、調合専門というのはあまりいませんな」
「それなら何とかやっていけそうだ。安心したよ」
「中を見てもいいですかな」
笑顔のまま、門番はほろの方を見やった。流石にここでおしまい、とはいかない。
それも予測していたので、撫子はああ、と頷いてから、申し訳ないが、と付け加えた。
「実は連れが……やっと寝たところでな。どうも山道でこたえたらしい。だから」
「あぁ、勿論そっと見ます。あなたもお疲れのようですな」
そうして、門番はほろを本当に少しだけ捲って、中を覗いた。図々しくないところも、彼らの美点なのだろう。
そろりと首を回して、門番は検分を終わらせた。荷台には瓶だの植物の束だの、すり鉢だのも積み込まれていたし、薬品の匂いがこもっている。やっと寝たという連れも、不自然に背中を向けたりせず、座ってローブに包まっていた。隣に小さいローブも丸まって、穏やかに寝息をたてている。
門番は撫子を振り返った。気遣わしげな視線だった。
「いや、ご家族でしたか。確かにぐっすりですね」
お子さんもまだ小さいですな、と門番は続けた。撫子は頷く。別に嘘はついていない。
「どうも、ありがとうございました。道が少し狭いので、馬車で通る時はお気をつけて」
「こちらこそありがとう」
軽く頭を下げて、撫子は御者台へ上がった。手綱を握ろうとした時、門番はふと思い出した、というようにそれを追った。
「あぁ、旦那さん、すみませんが顔を見せていただけませんか。お顔を覚えるのも我々の仕事でして」
「…………あぁ、これは失礼を」
一瞬、手綱を握った拳が揺れそうになって、撫子は冷や汗をかいた。そのつもりはなくとも、馬たちを走らせてしまうところだった。
撫子はフードを外した。
そこから現れた、暗い黒髪。
顔にかかった毛先を払って、撫子は門番を真っ直ぐ見た。冷たい印象こそあるものの、どことなく垢抜けない普通の若者に見える。思っていた以上に年若かったからか、門番は少しだけ面食らったようだったが、特に訝しがることはなかった。結構です、と手を翳して、門番は今度は本当に嬉しそうに笑った。
「ようこそヘガメスへ。成功をお祈りしていますよ」
門の方へ促され、撫子はフードを被ってまた黙礼した。ゆっくりと馬車を道へ戻す。
道は僅かに狭まっていたが、周囲の通行を妨げるというほどではなさそうだった。
馬車は静かに、町へと入った。