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羊と弾丸  作者: 哀雨 ザラメ
4 君が海を知らずとも
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君が海を知らずとも・1

羊と弾丸


4 君が海を知らずとも・1



 ヴェスギアは、西側から中央にかけておおよそ山麓地、やや南寄りから平野が広がり、東側諸国とは陸続きである。領内の海岸線はそこまで多くない。南側も他国と隣接しており、水路よりも陸路が発達してきたのはそれが所以である。広大な乾いた大地を耕して、地道に種を撒き、芽吹いた歴史は村を生み町を呑み込み都市を繋いで、やがて国となった。小麦と豆は貿易の要だ。


「山がないのねぇ」

 アリスはほぅ、と息をもらした。

 ようやく道が平らになって、羊族たちは馬車を降りた。動きたくて仕方なかったのだという。休憩の他にはほろの中で座りっぱなしだったから、ずっと我慢していたのだろう。

 本を抱えたまま、スーリもまた馬車の横を並んで歩いた。表情の変化に乏しい彼女も、目を丸くして辺りを見渡している。


 周囲にはどこまでもやわらかな緑の絨毯が広がっていた。

 冬草の下からのぞく若草たちが、さわさわと波打つ。春の訪れだ。ヴェスギアでも南海に近いここは、国で一番はやく春が来る、と謳われる。最大の産業である畑作は、このぽっかりと空が開けた平野で営まれるのである。

 厳寒と山嶺のレルガノとはまったく違った景色に、羊族たちは見蕩れた。

「こんなに真っ直ぐ空が見えるなんて!」

 アリスは思い切り万歳をした。やっと腕を大きく広げて息ができる、と嬉しそうに小さく跳ねてから、スーリを振り返る。はしゃぐ年上の同族にとまどいながらも、スーリも真似して深呼吸した。


「ここを思いっきり駆け回れたら、きっと世界一楽しいでしょうね」

「きっと世界一怒られるぞ」

 勿論冗談よ、とは応えたものの、撫子はこの大喜びの羊族が、今にも若緑の上へ寝転びはしないだろうかと少しヒヤヒヤしていた。どうも気分の上がり具合がいつもと違う。ほろの中に半ば閉じ込めていたのが、よほど退屈だったか。

 とにかく草地は踏むなといいきかせて、撫子は山中で会った炭焼きを思い出していた。




 ◇◇◇




「兄さんら、ずいぶんとおっもしれぇ道から来なさるね。こっちゃあ辛かったのじゃないですか」

 真っ黒になった鼻の頭を拭いながら、男はたずねた。しかし手の甲も汚れているから、あまり変わらなかった。否、手の甲どころでなく、服も髪も髭も黒くなっている。常に火を覗き込んで、黒煙を浴びているのだから当然だ。

 あの時見た手袋は、もしかしたらこの男のものだったのかもしれない。


 木々は疎らになり、やわらかな陽光がそこかしこに射し込む。木の葉や茂み、下草たちも、その光を精一杯全身に受けて、すっと透き通った色で揺れている。

 撫子たちを都合よく隠してくれる陰は、もう少ない。むしろここからは、先の見えないくらい平坦な大地が広がっているのだ。フードだけでは誤魔化しきれない巻角は、他人に見せてはならない。それにもう冬も終わり、旅人とはいえ常時フードを深く被っているのは、逆に目立ってしまう。それなら最初から、存在ごと隠してしまった方がよいだろう。わざわざ何人旅なのか、周囲に教えてやる必要もないのだ。


 炭焼き男は濃い眉をぽりぽりと掻いた。その眉も煤まみれで、もはや元の色がわからない。目元の皺の具合や、節くれだった指からして、老齢に近いのだろうということは見て取れた。

 男の背後には、ちろちろと煙の昇る炭焼き小屋がある。どうやら火を消して、後始末に入るところだったようだ。

 撫子はなるべく素知らぬ振りをした。

「楽な道があったのか」

「あっちの方にね。少し遠回りだけんど。他のひとたちも、大方通りますわ」

 撫子は困ったような顔をしてみせてから、沈んだ表情で語った。商売を始めたばかりで、右も左もわからない、とにかく港近くに行きたい。

 炭焼きの男はふんふんと頷いて、そんならこの道を行きなさい、と背後の道を示した。

「この先に店はあるか。少し荷を整理したい」

「へぇ、小さい町がありますから。このまま降りて行けば見えます」

 感謝の意を伝え、撫子は御者台へ乗り込んだ。ついでに、ほろの中へ手を伸ばして、小さな瓶を取り出す。中では濃い緑色が、光を反射させながらたぷたぷと揺れている。栓をしていても独特な匂いが鼻を突く。調合したばかりの塗り薬だった。


 火傷に効くからと、炭焼きに手渡した。炭焼きはわかりやすく慌てふためいた。

「い、いけません、いけませんよ。儂ぁ、こんなのいただくような()()じゃねぇです」

 ひどく脆い物でも扱うかのように、炭焼きは瓶を撫子へ戻そうとする。そこには行き過ぎた謙遜──歪められた彼の自己認識があった。

 炭焼きは一年のほとんどを山中で過ごす。木を伐り出し、それを燃やすための小屋を建てる。そして一度火をつけたら、炭になるまで離れられないのだ。きちんと燃えているか確認するだけでなく、火が山へ燃え移ったりしないように見張っていなければならない。

 滅多に人前へ出てこない、山中で火を扱う者。炭焼きは、集落の中ではかなり異質な存在である。彼らは大抵は遠巻きにされる。その煤はどんなに拭っても落ちないし、匂いはどんなに流しても消えない。隠していたってすぐに炭焼きだと知れる。


 この炭焼きの男も──ひょっとしたら、すぐそこにあるという小さい町と、あまりいい関係が築けていないのかもしれない。

 同情しているのではない。ただ、逃げ場もないまま、周囲から遠ざけられる感覚を。馴染めず、認められず、あまつさえ責められる時の、肌を刺すような空気を。撫子は、知っている。知っているから、気づかないふりができなかった。

 だから、同情というよりは同意だ。

 わざわざ説明なんてしないけれども。

「それで商売するんだ。使ってみて欲しい」

 それだけ言って、撫子は御者台へ登り、今度こそ手綱を握った。馬たちが歩き出す。


 炭焼きは、瓶を持ったまま、ただこちらを見送っていた。

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