さすらう花弁・11
羊と弾丸
3 さすらう花弁・11
「ねぇちょっと!」
アリスたちを連れて支部を出たところで、背後から声が追いかけてきた。振り返ると、書類の束を抱えたままの受付嬢が、慌てたように走ってきた。
「今きいてきたんだけど」
息を整える間もなく、受付嬢は続けた。
「その子、あなたたちの家でみるの? 支部長様がえらい不機嫌だったわよ」
「自分の家に連れていく気だったからな。横取りされたとでも思っているんだろう」
「それだけならいいけど」
撫子の前までやって来て、受付嬢は一瞬ちらりと周囲を見渡す素振りをした。それだけで、彼女が今からどんな話をしようとしているのかわかった。撫子は少しだけ受付嬢の方へ耳を寄せた。本当に少しだけ。ちょっと傾いただけのように。
受付嬢の瞳が、警戒と困惑で揺れている。
「支部長様、このところお屋敷の家具を売りに出しているの。お気に入りの椅子とか、棚とか。使用人も何人か追い出してる」
「お得意の癇癪というだけではなさそうだな」
「そうね。切羽詰まっているみたい。勿論口になんて出さないけど、バレバレよ。いつものアレで大負けしたの」
いつものアレとは、賭博行為のことだ。
聖職ではないにせよ、協会で働く者は清廉潔白、無欲であることとされている。協会の目的はカネ儲けではない。やったからといって何か罰があるわけでもないのだが、支部長でありながら賭博に勤しむゴルについては呆れている者が多かった。何せ支部長としての業務より熱心なのだ。
褒められたことではない、ということはさすがのゴルもわかっているようで、大っぴらに勝ったの負けたのと騒ぐことはしなかった。もっとも、周囲は態度ですぐにわかるのだが。
撫子は賭けに負けて執務室で物に当たり散らす上司を思い出して、ため息をついた。どうやらとうとう、協会の備品を引っくり返すだけでは足りなくなったらしい。
「相手がかなり悪かったらしいわ。珍しく工面に必死だもの」
受付嬢もまたため息をついた。そしてすぐにその目付きを鋭くして、更に声をひそめた。
「問題は、その工面の仕方がカネ遣いより荒いってこと。噂くらいきいたことあるでしょ」
「…………!」
撫子ははっとして、受付嬢を見た。思わず顔ごと動いたので、受付嬢の真剣な瞳を真正面から受け止めることになった。周囲を魅了してやまない彼女の双眸が、僅かな怒りと不安で揺らめいているのがわかった。
その一瞬だけの視線の交差を、受付嬢はすぐに外した。すっと身を離すと、先ほどまでのやり取りなどなかったかのように艶然と微笑む。
「わかったわ。照会は続けるから、安心してちょうだい」
「…………助かる」
いつもの妖艶な様子に戻った受付嬢の背後に、撫子はよく知る人物の姿を捉えた。お茶を淹れる以外にも仕事を命じられることがあるのだな、などと考えながら、気づかないふりをした。一応隠れているつもりだったらしいが、気配に敏感な蜥蜴族は欺けない。彼らは肌で周囲を探るのに長けているのだ。
受付嬢はさもご機嫌だといわんばかりの軽やかさで協会支部へと戻っていった。遅れて監視係をしていた部下が、こちらをちらちらと伺いながら彼女を追いかけていく。あれではまったく隠れていないし隠せていない。動きもばたばたとしていて滑稽だった。やはり彼はゴルの後ろで茶を淹れているのが一番いいのだろう。
撫子は受付嬢の機転に感謝しながら、今度こそ歩き出した。それまで後ろに退って黙っていたアリスが、不意に撫子の隣へやって来た。
「怖いお話?」
アリスのきこうとしていることがわかって、撫子は一瞬迷った。あまりきかせたくはない。愉快な話ではないのだ。子どもを振り返る。両親の行方を憂いているのか、ずっと顔を伏せて震えていた。
その両親のことについて、撫子はつい考えてしまうことがあった。しかし受付嬢も他の事務も、協会支部としては調査を取り止めるとはいわなかった。まだ悲観するには早いという期待と、しかし正直なところ望みはかなり薄いという諦念が、撫子を苛む。多分、誰もが何となく考えているだろう。
子どもの両親は、もう。
◇◇◇
不意にぐわんと頭を揺さぶられたような感覚がして、スーリは目を覚ました。薄暗い視界の底に荷袋や木箱が見える。柔らかい温もりが自分を支えているのがわかった。
「起きたの?」
横から聞こえてきた声に頷こうとして、それが想像していたのと違うものだったことに、スーリは飛び跳ねそうになった。否、実際に、慌ててがばりと身を起こしていた。次いで、相手が気を悪くしたかもしれないと身構えた。
しかし相手は驚くことも不快そうにすることもなく、たおやかに微笑んでいた。
「その本、すっかり気に入ったのね」
スーリはいわれて初めて、自分が本を抱えたままだったことに気がついた。まるで盾のように、お守りのように、腕がしっかりとそれを抱き込んでいる。少しだけ腕が痛むのは、硬い本の角が当たっていたからだろう。
責めている様子はない。スーリは本を見下ろして、再度抱え直した。何だか手放す気になれなかった。本当に盾かお守りになっているのだ。この優しい同行人たちが、もし本を取り返そうとしてきたら、きっとどうしたらいいかわからなくなるだろうとスーリは思った。重くて硬くて、古い革と紙の匂いがするこれに、すでに愛着が湧き始めている。
足元がガタゴトと揺れる。そこへ混じって、馬たちの鼻息と、車輪が軋む音。いつもの水晶燈はついていないのに、荷台が次第に明るくなってきているのに気づく。朝なのだ。
「ねぇスーリ、髪を梳かしてもいいかしら」
アリスの声はいつも優しく、丁寧に耳に届く。控えめでありながらどこか拒めない、不思議な力のある声だった。相手が本当に嫌がることはいわない、というのも心得ているのだろう。スーリはこくんと頷いて、背中を向けた。背後で彼女が嬉しそうに微笑んだのがわかる。
「あなたの髪は本当に綺麗ね」
噛み締めるようにアリスはそういった。髪を梳く度に彼女はこれを呟いたが、スーリはまだその後に言葉が続きそうな気がしてならなかった。彼女がいいたいのは、自分への褒め言葉だけではないような。というより、本当にいいたいことを誤魔化そうとして、思わず零れてしまうのではないかと。
そしてその本当にいいたいことは、アリスが最も恐れていることなのではないかと。