さすらう花弁・10
羊と弾丸
3 さすらう花弁・10
ようやく退いた部下を横目に、支部長室の扉を叩いた。短く許可の声が返ってきたのですぐに開ける。
アリスと子どもはぴったりと撫子の後ろについて、足早に入室した。更にその後ろから部下が大股で入ってきて、扉を閉める。先ほどまでの乱暴で高圧的な態度はどこへやら、やけにぬるりとした動きだった。いつか見た南海の魚のようだ、と思う撫子の横を通り過ぎて、部下は澄ました顔で執務机の裏へまわった。
「いやぁ、実に久しぶりですな」
こちらもねっとりとした声音だった。常ならぎゃんぎゃんと不満を飛ばす口は、妙に機嫌がよさそうだ。視線が生温かい。レルガノ協会支部長ゴルは、椅子に腰掛けて待っていた。
撫子は一歩前へ踏み出した。なるべくゴルの不快な視線が、アリスや子どもに届かないように。
「お呼びだときいたが」
その無礼な態度に部下が眉を跳ね上げて口を開きかけたが、ゴルはいやいや、と片手を挙げてみせた。
夕方になる頃には食事と酒のことしか頭にないようなゴルが、今日は執務机に向かっているのが何だかおかしい。至極当然のことなのだが、この支部長が仕事をする様を見せているのがむしろ珍しいので、撫子は嫌な──非常に嫌な予感がした。
部下が不機嫌そうに咳払いした。一瞬撫子を睨みつけるのは忘れない。つまらない火種を勝手に作っては投げつけようとしてくるのだから面倒である。
そのつまらない火種を受け取ってわざわざ油を注ぐことなど、勿論撫子はしない。ゴルは粘ついた笑顔のまま続けた。
「その子かな、例のはぐれ羊というのは」
短めの首をくん、と僅かに伸ばして、ゴルはアリスたちの方を見やった。しかし仔羊は、その時すでに身体のほとんどを隠していた。アリスの腰あたりを掴む小さな手しか見えない。部下がまたも何か言いたげに顔を顰める。
しかしゴルはおやおや、と少し高い声で揶揄うように笑うと、首を元に戻した。
わざとらしい。肌がざわつくような、背骨を震わせるような不快感。
「いや、一報をきいて驚いたよ。私ははぐれ羊は初めてでね」
そこでゴルは、先ほどから不満げにしている部下を振り返った。小声だったが、いつもの尊大な口調で、茶を淹れるよう命じたようだった。
部下は恭しく頷くと、やたら手をくねくねさせながら茶器を触り始めた。
「しかし小さいね。まだまだ子どもじゃないか。本当に──」
珍しい。
にゅう、と目が半月型に歪んだ。
稀少な宝石でも見つけたような、上質の革製品でも愛でるような、そんな熱を帯びた目。
撫子はこの男を前にして、初めて悪寒を覚えた。出会ってから、畏敬は勿論焦燥も感じたことなどなかった。とにかく要求だけ喧しくて、煩わしいと思っていた。
それが今、撫子は当惑している。狩りどころかただ走ることすらできないようなゴルが、獲物をじっくり観察する手練の目をしているのが理解し難かった。
何故、そんな目で羊族たちを見るのだ。
ふと紅茶のいい香りがするのに気がついた。明らかに高価そうな茶器が、ゴルの前へ差し出される。当たり前のようにこちらの分は用意されなかったことに、撫子はついほっとした。
「親とはぐれたらしいじゃないか。旅をしていたのかい?」
いつもより高めで鼻にかかった声で、ゴルは子どもに問いかけた。やはりぞわぞわする。
「…………」
子どもは答えない。
いつものゴルなら、ここで顔を真っ赤にして怒鳴りつけていただろうが、今日は違った。奇妙な視線はそのままに、続けて話しかける。
「どこから来たのかな?」
「…………」
とうとう子どもは手まで引っ込めた。勿論答えない。
撫子は肩越しに振り返った。撫子からもアリスしか見えない。そのアリスの目線は伏せられている。石のように沈黙し固く結ばれた唇は、白い。
撫子は代わりに応えた。
「……どうやら、話せないようで」
「話せない? ふん!」
応えたのはゴルではなく部下の方だった。いつもの仕事を終え、一応上司の指示を待って黙っていたようだが、抑えきれなかったらしい。
「後ろめたいことでもあるんだろう」
部下はそのまま子どもへ苛立ちをぶつけた。放たれた悪意は、陰で息を殺している小さな羊族に鋭く刺さって──本当にこの男は羊族を保護する組織の一員なのだろうか?──ますますそのか細い身を強ばらせることとなった。
「後ろめたいだって? こんな子どもが、悪巧みなどできるわけがないだろう。な? 緊張してしまっただけだろう?」
「…………」
あくまで自分は味方だ、と思わせたいようである。ゴルは答えない子どもに憤る部下を窘めた。
このままでは埒が明かない。ゴルの用事とやらもまだきけていない。撫子は更にもう一歩執務机に近づいた。できるだけ大きく、アリスたちの盾になるために。
「用件をおききしたい。もうすぐ雪が降ってくる」
さっさと本題に入れ、という苛立ちを、こちらも強く出してやった。ゴルはさすがに眉間に皺を寄せたが、冷ややかな声音に結局目を泳がせただけだった。
「なに、親のいないはぐれ羊だというからね。魔法使いを一人、つけてやった方がいいと思ったのだ。まぁしばらくここか、私の家で過ごせばいい」
撫子はため息をつきそうになった。成果ばかり追いかけるこの男らしいと思った。はぐれ羊を早速確保しようと動いた点については評価できるだろう。だがそこに、か弱い哀れな羊族を手助けしようなどという善意はない。か弱い哀れな羊族を手柄にしようという害意はあるけれど。
「両親についてはまだ捜索しているときいたが」
「だからとりあえずだよ。早い分にはいいだろう。見つかったら一緒に保護すればいいんだ。ね、君、そうしよう。私の家に来なさい」
目線を合わせているつもりだろうが、侮蔑の籠った目で合うわけがない。子どもは答える代わりに、アリスに強く強くしがみついた。
撫子は仕方ない、という表情を精一杯作った。
「アリスによく懐いているので、こちらの家で過ごさせたい。同族だから落ち着くらしい」
「いや、しかしだな。それじゃ羊族を2人もみることになるだろう……君、えー、そう、君が」
曖昧に濁しながら、ゴルは反論した。日頃はお前だの貴様だのと呼んでいるものだから、澄ました風を装っている時に何と呼べばいいのかわからないのだ。撫子はその口ごもっているところへ畳み掛けた。
「確かに話さないが、アリスなら通じるし、暴れることもない。それはすでに昨日わかったことだ」
攻撃性はないということも、撫子は照会の書類へ記していた。幼く弱い羊族が、魔法使いを圧倒したり出し抜いたりなどできるとは思えなかったが、アリスのそばが最も安全だと強調した。
結局、撫子は2人の羊族とともに、レルガノ協会支部を出た。懸念したとおり、雪が降り始めていた。