さすらう花弁・9
羊と弾丸
3 さすらう花弁・9
やがて広場の露天商たちが、昼下がりの休憩に入った。甘く眠気を誘うようなゆったりとした空気が漂う。子どもは堪えきれず欠伸をした。受け取ったパンは綺麗に平らげている。食欲はきちんとあるようだ。
膝上へ零れたパンの欠片を払いながら、アリスはそんな子どもをじっと見つめていた。深くかぶったフードの奥、いつもやわらかな影を落としている睫毛が重そうだった。薄い陶器のような白い頬が、そこに通っているはずの熱をすっかり忘れてしまって、震えるほどの不安を帯びているのがわかった。
子どもと出会ってから、アリスは漠然とした不安を抱えているようだった。決して言葉にしないし、表情にもあまり出さないが、子どもを見つめる時一瞬、放心しているのだ。
「──あなたのご両親、無事がわかるといいわね」
不意に、アリスは子どもへそんなことを言った。子どもがぱちぱちと目を瞬かせてから、小さく頷く。
「きっと、とても素敵な方たちなのね」
どこか諦めているような乾いた響き。子どもの両親について諦めているのではなく、もっと別の。この子どもには、本当は関係ないこと。
しかしアリスは見た目には相変わらず美しい笑顔だったので、子どもはその声音に気づかなかったらしい。期待に輝く目はどこまでも純粋にアリスを見つめ返した。
◇◇◇
遅めの昼食を終え、広場を一周してから、撫子たちは協会支部を再び訪れた。先ほどに比べて、行き来する者が増えたようだ。皆それぞれ紙の束を抱え、あっちへ渡しこっちへ流ししている。夕方というには少し早いが、受付嬢は撫子たちの姿を認めると特に困った様子もなく手招きをした。
「今終わったところよ」
受付嬢の後ろから、鼠族の男が顔を出した。照会を担当した事務員だという。
「今回いただいた書類によりますと、この羊族はどこにも記録がありません」
「…………そうか」
ため息混じりに撫子は頷いた。
恐らくそうだろうとは思っていたが、改めて事実だと突きつけられると、嘆息せずにはいられなかった。これでこの子どもがはぐれ羊だと確定したのである。
それから、と事務員は続けた。
「それからその子の親と見られる羊族も、記録がありません。今のところ、どこかで保護したという報告も……挙がってきておりません」
「────」
撫子の背後で、子どもが身を強ばらせたのがわかった。かなり期待していたのだろう。
受付嬢は眉を下げた。彼女がここまで明らかに悲しげにしているのは珍しい。
「勿論ウチはだいぶ田舎だから、報告書がすごく遅れてるって場合もあるけど──はぐれ羊が見つかったってなれば、報告書よりも先に大騒ぎになっているはずよ」
つまり騒動がきこえてこないということは、他にはぐれ羊は保護されていないということである。撫子はわかっている、と頷いてみせた。受付嬢が懸命にこちらを気遣っているのがわかった。それから、極めて珍しい事態にすぐに対応してくれたことに短く感謝を述べた。数日かかることも覚悟していたのだ。
「引き続き照会はかけるわ。まだ報告されていないだけかもしれないし」
「頼む」
「あとね、それから……支部長様がお呼びなの」
撫子はあからさまに顔をしかめた。嫌な予感しかしない。受付嬢もげんなりしているのがわかる。回れ右をして帰りたくなったし、適当な理由をつけて──雪が降りそうだからとか──誤魔化してしまおうかとまで思った。勿論それはただ先延ばしにしているだけで、嫌味な支部長のことだから、そんなことをしたら嬉々として責め立ててくるに決まっている。まだ問題を起こしていないうちから、わざわざ美味しい餌を与えることになってしまう。そちらの方が面倒なことになるだろう。
非常に不本意だという表情を隠すこともしないまま、撫子はため息をつきながら頷いた。来るのが遅いと癇癪を起こされる前にさっさと面会を終わらせよう。あの男はいつだって、怒鳴る理由を探しまわっているのだ。
わかりやすく心配そうな様子の受付嬢と事務員に見送られて、撫子たちは支部長室の扉の前へ立った。執務室の奥にある、やたらと豪奢な扉だ。ゴルが就任してからいつの間にか装飾が増えている。撫子が扉を叩こうとすると、先に扉がするりと内側から開いて、中から部下の男が顔をのぞかせた。
「あぁ、来たか」
そして壁際へ下がらせていたアリスたちを見やると、ふん、と鼻を鳴らした。まるで品定めしているような目だった。この部下自身は特段上流階級というわけでもなく、特別仕事ができるというわけでもないのだが、とにかくゴルに対して媚びへつらうのが上手いので、そこが気に入られているのだ。やけに紅茶を淹れるのが得意だったことも理由だろう。最高権力者たる支部長に露骨に特別扱いされる状況が続いたせいか、自分もそうするべきなのだと思い至ったらしく、ゴル以外には不遜な態度をとるようになっている。
撫子はこの男がはっきり苦手である。例に漏れず尊大に接してくるのだが、撫子に対しては特に顕著なのだ。
廊下へ出てくると部下は再び、ふんと鼻を鳴らした。背がひょろりと高く、撫子を見下ろす目には濁ったような侮蔑の色が篭っている。
「珍しく来たと思ったら、こちらの手を煩わせおって。貴様と違って我々は多忙なのだ」
精一杯ゴルの口調を真似ているのがおかしい。といっても、本人は真似だとは思っていない。
部下の言葉に、撫子は反論しそうになってやめた。煩わせるも何も、この部下は実のところ何もしていないのである。本来なら一緒に事務作業すべき身でありながら、彼が例のごとくこの支部長室で茶を淹れていただけなのを撫子は知っている。先ほど廊下ですれ違った事務員たちが零していたのだ──こちらがこうして書類と格闘している間、あの部下殿は茶葉を弄くり回すのにお忙しいようだ、と。
「それがはぐれ羊か」
嫌な目線が子どもを貫いた。俯いていた子どもが、素早くアリスの後ろへ隠れる。その様子に、部下は思い切り眉をひそめた。
「出来損ないの赤が、まったくとんだ厄介を持ち込んだものだ。そもそもこのレルガノに……」
「支部長はいないのか。呼んでいるときいたが、お忙しいなら改める」
なおも文句が続きそうだったので、撫子は鋭く遮った。勿論嫌味をたっぷり込めて。まともに対応するだけ無駄だ。こうやって不満をぶつけてくるのはいつものことだし、内容だって毎度同じだった。要するに他にやることもいうこともないのだ。
あからさまに邪魔されたのが気に入らなかったのか、部下はしばらく唇を震わせて何かいいたげにしていたが、結局また大きく鼻を鳴らして扉の前から退いた。どうも撫子の姿を見るとあれこれいわぬと落ち着かないらしい。