さすらう花弁・8
羊と弾丸
3 さすらう花弁・8
カウンターには蜥蜴族の女が座っていた。レルガノ協会支部で働く受付嬢だ。彼女は撫子を見るなり、にんまりと笑った。縦長の瞳孔が悪戯っぽく歪む。
「あらぁ、珍しいこと。おはよう赤髪さん」
「支部長はいるか」
「……もう、挨拶くらいしたらどうなの」
受付嬢はくるくると艶やかな長髪をいじりながら、不満そうにため息をついた。少し悲しげなその仕草は、今まで恋に敗れたことなどない、性別も種族も関係なく魅了する彼女の武器である。ただし撫子にはそれが通じない。
「支部長様ならいるわよ。昨夜は遅くまで飲んでいたみたいだけど。執務室に入ったきりだから、またあの新入りちゃん虐めているんじゃないかしら」
「羊族の照会をかけたい」
撫子の言葉に、受付嬢は息を呑んだ。
羊族の照会。どの羊族がどこでどのように生活しているか、どの魔法使いが担当か、とにかくその羊族に関する事柄はすべて記録されている。それは協会を運営するうえで最も重要だった。協会が関与した羊族はもらさずそこへ書き記してあるため、逆にいえば協会が関知していない羊族ははぐれ羊だということになる。だから魔法使いが身元のわからない羊族を保護した時は、その記録がないか確認するのだ。
受付嬢は目を細めてアリスの方を──正確には、更にその後ろにいる子どもを見やった。
「照会って……もしかして、その小さい子? 確かに見たことない子だけど」
自分のことだとすぐにわかったのだろう、子どもは思い切り肩を揺らしてアリスの背に隠れた。フードは被ったままだ。その顔はよく見えない。アリスが子どもを庇うように、後ろ手に丸く縮こまった肩を抱く。
「昨日、森に一人でいたんだ」
撫子がこれ以上はきくな、とばかりにそっけなくいう。というより、きかれても撫子にもわからないのだ。だが協会の管理する記録には、髪や瞳の色、性別や年、果ては病歴まであるから、細かく探せば確認くらいはできるだろう。
困ったように小さく唸って、受付嬢は手元の書類をぱらぱらとめくり始めた。
「私初めてよ、照会なんて。ここには何年かいるけど」
それは自分もだ、といいかけて撫子はやめた。
「それじゃあ、これ書いてくれる? 確認に使うらしいから」
◇◇◇
撫子たちは別室へ案内された。照会のために使う部屋らしい。撫子も初めて入る部屋だ。
机と椅子が数組と、壁に明かり取りの窓があるだけの、簡素な部屋だった。最低限の機能だけとりあえず揃えた、そっけない箱といった方が正しい。執務室からも外からも、中が見えないように工夫されているようだ。何の装飾もないのっぺりとした石の壁が、中に入る者をむしろ拒むような冷たさを放っている。
「さすがに寒いでしょ? 鉱炉を持ってきてあげる」
受付嬢はそういって一旦出て行き、すぐに戻ってきた。手には鋳鉄でできた小さな籠がある。籠には黒い炭のような鉱石がいくつか詰まっていた。詰めた鉱石を発熱させることで、持ち歩ける暖炉として重宝されている道具である。
受付嬢は鉱石を長い爪で引っ掻いた。きりり、と甲高い音がして、爪先と鉱石の表面が仄かに赤くなる。小さな火をおこす魔法だ。鉱炉はやがてちりちりと爆ぜながら発熱し始めた。
「書き終わったら持ってきてちょうだい」
今度こそ扉は完全に閉められて、部屋には撫子たちだけとなった。
アリスと子どもは壁際に並べられた椅子に腰掛けた。その足元へ鉱炉を置き、撫子は机へ向かう。
机がやけに白く光っている、と思ったら、それは薄く積もった埃だった。この部屋が長いこと使われていないことは明白だ。下手に払ったら、舞い上がったそれらが喉を容赦なく襲うだろう。
差し出された紙は少し日に焼けていた。普段から取り出されることすらないのだ。項目がびっしりと連ねられ、細かく特徴を記せるようになっている。
名前も出自もわからない、まだ声もきいていない。ありとあらゆる特徴を書き込まねば、何も引っかからないかもしれない。撫子は子どもをちらちらと見ながら、筆を走らせ続けた。
◇◇◇
街は昼時を少し過ぎたところだったが、まだ活気に満ちていた。中央広場には円を描くように露店が並び、あちこちで売り子が盛んに声を張り上げている。香ばしい匂いが食欲をそそった。
空には相変わらず雲が留まっていたが、街を行き来する顔は皆明るい。冬もそろそろ終わりが近づいている。これから暖かい芽吹きの春がやって来るのだ。厳冬を越えようとするレルガノは、いよいよ喜びに溢れている。
できるだけ項目を埋めて提出したが、やはり名前がわからないことには時間がかかるらしい。とりあえず夕方までに何とか終わるよう努力するから待っていてくれ、と受付嬢に伝えられた撫子たちは、協会支部を出て街中を歩いていた。
アリスに従ってぐるぐると街をまわる。買う物が増えているのは、やはり撫子の勘違いなどではなかった。何度か預けた馬車まで荷物を置きに戻った。アリスは終始笑顔で、買い物を堪能しているように見えた。
一方でただ手を引かれるままの子どもは、俯きがちでいまいち反応がわかりにくかった。とりあえず嫌だ、というわけではなさそうだが、楽しんでいるようにも見えない。
すると一行は、ある露店の前で立ち止まった。正確には、アリスが釘付けになってしまったのだ。もうもうと調理場から煙を広場へ流し、その匂いで道行く者を引き止め財布を取り出させているようだ。
足を止めた撫子たちを、露店の売り子は当然見逃さなかった。素早く出来たての品を手に取ってこちらへ歩み寄ってきたと思ったら、舌に油でも塗っているかのような早口で宣伝し始める。
売り子によれば、この店の一番人気はパンに肉と野菜を挟んだものだという。パンは最初からあえて堅めに焼き、かぶりつくとまずそのパリパリとした食感と小麦の香りが口いっぱいに広がる。そんなパンに大きく切れ目を入れて、葉野菜と一緒にじっくり焼き上げた塩漬け肉と、細切れにして茹でた根菜を挟んでいる。そこへ更に辛味のある香辛料を振りかけて出来上がり。
まだこちらが何ともいっていないうちから、売り子はもう3人分のパンを準備している。アリスも目をキラキラさせて、すっかり受け取る気でいた。こうなっては断るわけにもいかない。どちらにしろ昼食はとろうとしていたし、今から探し回るより気に入ったものを選んだ方がいいだろう。
出かける前に比べだいぶ軽くなった財布をしまいながら、撫子はパンを受け取った。売り子の言葉通りパンはほかほかと温かく、香辛料の心地よい刺激臭が湯気と一緒に鼻先を掠めていく。広場に設えられた長椅子に座って食べることにした。
「とっても美味しい。お外で食べるなんて、久しぶりね」
アリスは何口か頬張って、にこにこしながらそういった。
肉の脂と塩加減が絶妙だ。根菜もシャキシャキとして瑞々しい。少し心配で隣の子どもの様子を見てみたが、食べづらくはなさそうだ。小さく顎の弱い子どもでも無理なく食べられるよう、肉も野菜も細く切っているのだろう。
寒さが増したような気がした。空は先ほどよりも薄暗い。