さすらう花弁・5
羊と弾丸
3 さすらう花弁・5
やがてきいきいとした声がきこえなくなると、トラヴィスはそこで急に大きなため息をついた。
「あぁ、つまらんことをした!」
新入りは一瞬、それがトラヴィスの発したものだとは思わなかった。あまりにも、先ほどまでの口調とはかけ離れていたせいで。
トラヴィスは何度も咳払いしている。
「まだ喉がイライラする。何だって俺がこんな芝居をせにゃならんのだ」
やれやれ、と肩を大きく回しながら、トラヴィスは支部長椅子に乱暴に座った。上質な革の椅子が悲鳴をあげる。
どれもこれもまるで別人のような振る舞いだった。
「あの......」
「なぁあんた、悪いがお茶を頼めるか。あぁ、別にナトヴァスのじゃなくていい」
戸惑いながら、新入りは慣れない手つきで茶を淹れ、トラヴィスに差し出した。新入りが淹れるとゴルが不味いと怒鳴るので、普段はもっぱらあの部下の男が担っていたのだ。またひっくり返されたらどうしようと、新入りは身体をぐっと縮こまらせてトラヴィスの反応を待った。
果たして茶を受け取った男は、何の躊躇いもなくそれを飲み干した。
「美味い。喋りすぎて喉が渇いて仕方なくてな」
「あの、トラヴィス……さま?」
だみ声が新入りを貫くことはなかった。それが予想外で、この後にどうすればいいのかがわからない。とりあえず名前を呼ぶと、トラヴィスは怪訝そうな顔で新入りを見上げた。
「何だ、そのトラヴィス様って。そりゃあんたから見れば俺は身分こそ偉いだろうが、崇め立ててほしいわけじゃない。神殿長でいい」
これもまた思いがけない言葉だった。
最初にこの協会支部へやって来た時ゴルは真っ先に、自分は何より重要で立派な役職である、また周囲にもそれを示さなければならない、だから常に敬意を見せろ、と早口で語った。その敬意というのが、新入りにとっては貴人のように接することだったのだ。会う機会はさほどなかったが、この接し方は神殿長に対しても求められた。
神殿長、と新入りは自信なさげに続けた。
「あのゴル──支部長は、どうなるのですか」
「まぁ殺されはしないだろうさ。レルガノはこの国じゃ王都の次くらいに神聖な場所だからな。協会どころか神殿からも汚職者が出たなんてことになったら、そのありがたさに傷がつく。病でおかしくなったとでも理由つけて牢屋行きだな」
「汚職者、というと……あの、一体、何の不正売買をしていたのですか?」
トラヴィスはだからこれさ、と先ほどの紙束を指で叩いてみせた。
「こいつは覚書だよ。領収書ともいえる」
そして、ひどく怖い目をした。
「羊族の売買だよ」
◇◇◇
「買い足しておいてよかったわねぇ」
鍋をかきまわしながら、アリスは誰にともなくそういった。
木が倒れ、広場のようになっている所で馬車を停めた。少し道から外れたそこは、火をおこすのにちょうどよかった。下草もなく、土がむき出しになっている。今までの旅人たちも、ここを使ってきたのかもしれない。
水の音を頼りに少し茂みをかき分けると、小川が流れていた。桶に汲み上げて、夕食の準備を始めた。
撫子がナイフでパンを切り分けている間、アリスが豆とカブを銅鍋で煮込む。街で安く売っていたのを買ってきたのだ。
スーリはその隣で本を抱えて、焚き火をぼんやりと見つめていた。一応、火の番をアリスに頼まれたのである。
木をくり抜いて作った器に、ほかほかと湯気をたててスープが注がれる。程よくとろけた具材がたくさん入ったそれは、アリスがよく作る料理だった。
スーリの元へやってきた器には、細切れになった干し肉が多めに入っていたが、同じくらい野菜もごろごろしている。器を両手で受け取って中身を見るなり、スーリは困ったような顔をした。少しの間一緒に過ごしてわかったことだが、野菜が苦手なようだ。勿論アリスはわざとそうしたのだった。
パンは茶色い堅めのものだ。そのまま食べるのは難儀なので、スープに浸してやわらかくする。
レルガノのみならずヴェスギアでは、古くより続く信仰のため、食前に神へ感謝の言葉を述べる者が多い。しかし撫子とアリスにその習慣はない。スーリも最初からそのような素振りを見せなかった。だからこの旅では、全員に料理が行き渡ったら、その時が食事開始の合図になるのである。
アリスの作ったスープはやはり美味かった。
とりあえず一口飲んでみたスーリは、再び情けない顔になった。ぎこちなく隣のアリスを見やる。
「お野菜たっぷりよ。甘くておいしいでしょう?」
質問のはずなのに、肯定以外の答えを許さない雰囲気なのは何故なのか。
撫子は器を見下ろした。どうやらスープがどろどろしているのは、野菜をすりおろして煮込んだかららしい。何としてでもスーリに野菜を食べさせようとしている。執念深い。しかも陰湿である。
アリスはあくまでたおやかに微笑んでいて、スーリはどこまでも悲愴な面持ちでいる。助けを求めてか、スーリは撫子へ視線を送ったが、撫子とて料理に関して意見できるような立場にない。諦めて食べろ、と目で返して、撫子はスープを飲み込んだ。
するとアリスが撫子を示していう。
「ほら、撫子もちゃんと豆を食べているでしょう?」
ぐっ、と撫子が噎せた。何度か咳をしてから、余計なことを言うな、と射殺さんばかりの勢いでアリスを睨む。しかし料理人はどこ吹く風だった。
スーリはぽかんとして撫子と器を見比べた。手元のスープには、野菜と一緒に豆が入っている。試しに豆だけ口へ運んでみると、味がよく染みて、ほろほろほどけて美味しい。
「撫子はね、豆が苦手なのよ」
だからあなたも頑張って食べなさい、とはあえていわないところがまた、意地が悪い。アリスにとって野菜も食べることは決定事項なのだ。やはり陰湿である。
「…………」
撫子はしばらく黙って顔ごと視線を逸らしていたが、やがて気まずそうにぽつりといった。
「……いいから食べろ」
アリスは満足そうである。
とうとう見放されたような気がして、スーリは途方に暮れた。しかし食べぬわけにはいかない。意を決して野菜を掬い、恐る恐る口に入れる。
野菜嫌いたちが悪戦苦闘しているのを、アリスは嬉しそうに見守るのだった。