さすらう花弁・2
羊と弾丸
3 さすらう花弁・2
訓練学校には馬やウシなどといった獣たちがいた。彼らの体の仕組みや簡単な世話の方法、そして荷車をひかせる時の操り方を学ぶためだった。当然、訓練学校へ通うことになった撫子も、その授業を受けた。
獣たちに嫌われて近づくこともできない、とまではいかなかったが、かといって特別好かれるということもなかった。撫子としては獣は好きな方だったし、うまくいかないからといって八つ当たりすることもなかったから──中には獣たちに積極的に嫌われようとするような行動ばかりする生徒もいたのだ──つまり、撫子が単純に、手綱をひくのが下手なのだ。
認めるには少し勇気が必要だったけれども、残念ながら変わりようのない事実だったので、基本を覚えて終わりにした。
今となっては、もっときちんと習っておくべきだったと歯噛みする始末だ。しかし、訓練学校でも基本以上のことを学ぶ授業はなかった。それに、あの頃の撫子は他のことに集中していたので、自分の手綱の頼りなさに構っていられなかったのである。
無理をして馬を傷つけたり、車輪を壊したりしてしまったら、長旅は困難なものとなる。それでなくとも先の見えない旅なのだ。
馬たちにも自分たちにも時折休息を入れながら、ほろ馬車はゆっくりと、しかし確実に山間を進んでいった。
◇◇◇
道は時折くねくねと曲がった。過去にここを通った者たちがより確実に、より楽に山を越えようとして自然と選んだ結果なのだろう。どこも緩やかで広い坂道になっていた。
山は丘を少し大きくしたような高さしかなかった。それらが隊列を組むように連なって、あちこちに谷を形成しているのである。街できいたところによれば、最後にひときわ大きな山脈を超えると、大きな川と平地が広がっているらしい。しかしそこからは別の領地となってしまうため、道がどのようになっているのかはよくわからないという。山が境界線になっているのだ。
アリスはそれをきいて目を輝かせた。
「それなら、海も見えるのかしら?」
撫子はあっさり否定した。
「海はまだまだ先だ。相当高いところに登れば見えるかもしれないが、しばらくは平地らしいからな」
「あら、そうなの」
見るからに残念がって、アリスは肩を落とした。
次いで、自分の腕に絡みつくようにして揺れに耐えている子どもを見て、そっとたずねた。
「あなたは、海を見たことがある?」
突然話しかけられて、子どもは少し驚いたようだった。会話に参加しているつもりはなかったのだろう。この仔羊は、撫子以上に話さない。というより、出会ってから声らしい声をきいていなかった。
子どもはおどおどとしながら、わずかに首を横に振った。
アリスがにっこり微笑む。
「私もよ。生まれてから一度もないの。本の中でしか知らないわ」
そう言うとアリスはおもむろに手を伸ばして、白茶けた布袋を足元へ引き寄せた。旅立つ前にアリスが唯一自分でまとめた荷物である。結び目をほどくと、細々とした物たちが転がり出した。
編み針や毛糸玉、お気に入りの香りの茶葉、緑色にきらめく小瓶、鮮やかな色の飾り帯。そして、質素な表紙の本。
いつもなら散らかすなと怒るところだが、撫子は何も言わずにいた。
アリスが広げた物たちを、子どもはひとつひとつ丁寧に眺めた。拾い上げたりはしなかった。それらがアリスにとって、大切な物であるとわかっているようだった。
アリスは本を手に取って、そっとその表紙を撫でた。やわらかな物を愛おしむように。ゆったりと指が動くのを、子どもが目で追った。
「この本はね、いろいろなことが書いてあるの。森や海や、お空のこと」
表紙には何も印字されていない。ただ鞣した皮を表紙にしただけなのである。装飾もまるでなく、読ませようという主張は感じられなかったが、撫子はその内容を暗誦できるほど読み込んでいた。
アリスが表紙を開いてみせた。子どもがのぞきこむ。
中の頁は表紙より更に褪色していたが、嫌な匂いはしなかった。埃がたまっているわけでもない。きちんと保管されているのだ。
アリスはぱらぱらと本をめくって、やがてひとつの絵を指し示した。
「これが海」
それはこの本の中で唯一の挿絵だった。波打ち際から水平線までを描いた、色のない絵である。一体どこの海なのか、作者自身が描いたのかどうかすらわからない。ただ、言葉だけでは表せない何かを、作者は絵で伝えようとしたのだろうということは想像できた。
ふとアリスは、子どもが挿絵ではなく──その下や、隣に並んでいる文字を、熱心に追いかけていることに気がついた。
「どうかしたの?」
その様子は今までにないほど真剣で、どこか切羽詰まっているように見えた。アリスはそっと撫子を呼んで、馬車を止めさせた。
撫子がほろの中に半身だけ入れても、子どもは本から視線を上げなかった。息を止めて、何かを、必死に探しているようだった。撫子とアリスは顔を見合わせた。下手に声をかけたら、子どもはその行動をやめてしまうのではないか、という考えが、2人の頭を同時によぎった。
そうしてどちらも黙っていると、子どもは不意に、つ、と指先で本に触れた。
否、それは、指差しだった。
「…………」
無言。しかし顔を上げて、撫子とアリスをまっすぐ見つめた。
2人がそろって子どもの指先に視線を落とす。大陸でも主要とされる文字のうち、音を表すそれが、子どもの白い指で示されていた。
少し置いてから、子どもはまた指を動かした。するすると頁をなぞって、1つの文字の下で止まる。少ししてからまた指は文字の間を泳いで、止まる。
それを何度か繰り返して、子どもはようやく、指を離した。
「…………スーリ?」
撫子は呟いた。
子どもが指し示した文字を繋げると、きちんと決まりに則った音になっていたのだ。ただ少し興味があっただけで──そもそもこれが言語だと知っていることすら驚きだったが──文字を気まぐれに追いかけていたのではないと確信した。明らかに、文字の意味や使い方を理解しているのだ。
「もしかして──あなたの、名前?」
アリスがぱちぱちと目を瞬かせて、隣の子どもへ問いかける。
子ども──スーリは、小さく頷いてみせた。