星明かりの路・5
羊と弾丸
2 星明かりの路・5
湖が、まるで果実酒のように鮮やかな赤色に染まって揺れている。
夕焼けを呑み込んでいく湖を背に、撫子たちは占い師の家へと向かっていた。
地形の隆起によってできた湖は、街の大切な水源である。街を囲む石垣の向こう側、離れたところには山麓が連なっている。そこから少しずつ窪んでいくように大地は低くなり、一番低いところに水が溜まって湖ができた。そのため、街は外側へ向かうにつれて緩やかな上り坂になっている。
占い師の家は街の北端──山々に最も近く、中心の街から最も遠い場所にあった。
街の傾斜は北側が特にきつく、道が敷かれているとはいえ歩きやすいわけではなかった。しかしアリスも子どもも、しっかりついてきた。
占い師の話はあちらこちらできくことができた。
占い師というのは魔法使いとは異なる存在である。魔法使いは訓練学校で学び、最終試験を合格すれば名乗ることを許される。それに対し、占い師においては未だ学校というものが存在しない。だから占い師になりたければ直接弟子入りして学ぶしかないのである。
占い師についてきいてまわったところによると、街の者なら誰でも知っている老女だという。ひどく年をとっており、めったに外へ出てこない。街では変わり者だと評する話もあったが、嫌悪している様子はなかった。占いの実力は本物で、皆信頼しているらしい。昔から何か新しいこと、大きなことをする際は、皆そろってこの占い師を訪ねてきた。
突然街の変わり者について知りたいと言ってきた若い撫子に、人々は最初怪訝そうな顔をしたが、撫子がしっかりと旅装していたのと、これから大きな取引があるとそれとなく匂わせると、あっさり納得した。後は相手が勝手にあれこれ想像して詮索してくる前に、立ち去ればよかった。
ぽつりと黄色の灯りが見えた。太陽は石垣に隠れてしまって、あたりは薄暗くなっていた。
今にも崩れ落ちそうな、古い家だった。
家というより、最早ただの倉庫に近い。それも朽ちかけの、簡素な造りで、灯りさえついていなければ住居とわからないような。
おまけに周りは野草が跋扈して、家の扉まで覆いつくさんとする勢いである。
灯りが、ぽっと一瞬強く光った。
撫子が扉を叩こうと拳を上げると、それを遮るように中から声が聞こえてきた。
「おいで」
撫子は拳をそっと下ろして、扉を開けた。
◇◇◇
扉は見た目に反して軋むことなく静かに開いた。
家の中は外よりも暗かった。小さな蝋燭がちりちり燃えて、懸命にあたりを照らしている。
灰色の塊が椅子に腰掛けて、こちらを見ていた。
古ぼけたローブは床にまで伸びている。しわの深く刻まれたあごと細い手首が見えなければ、生き物だとすらわからないほど、微動だにしなかった。
「来るのはわかっていたよ」
乾いた声。何故か砂の匂いがする。
お座り、と老婆が自身の向かいを指さした。黒く変色し、背もたれをなくした椅子があった。
振り返ると、アリスと子どもは扉の前で何やら留まっていた。子どもがアリスの手を強く引いて、入りたがらないでいるようだった。どうも家の中が怖いらしい。アリスは困ったように笑って、外を指さしてそっと扉を閉めた。
結局一人になってしまった撫子は小さくため息をついて、示された椅子に腰掛けた。
老婆は黒い壺を持っていた。
「誰に聞いて来なすったね」
撫子は素直に情報源の店の名をいくつか挙げた。
老婆がふぇふぇと笑った。黄色い歯が見えた。
「あぁ、あそこは娘を占ってやったからね。そうかいそうかい」
そこで老婆は少し黙った。手の中の壺が、わずかな明かりを反射してぬらぬらと光っていた。それを見つめながら、撫子は老婆の言葉を待った。
やがて老婆は、撫子をまっすぐ見つめた。
「お前、魔法使いだね」
ゆっくり、酒でも舐め取るように老婆は言った。問いではなく断言だった。確認でもなく、話のつなぎだった。
撫子は無言のままでいた。老婆は肯定を待っていたわけではないようだった。すぐに壺に視線を戻したので、撫子もそれを追った。
「昔はもうちょっと、有り難がられたもんさ。それが皆死んじまった。今は占いができるだけの、アタシ一人」
そこで老婆はふぅ、と息をついた。
「いつの間にか魔法使いは特別になっちまったからねぇ。今の若い奴らは皆学校を出て──お前もそうだろ──アタシを知らないまま大きくなった子どももいる。おかげで商売あがったりだよ」
そう言ったが、老婆は誰かや何かをひどく恨んでいるというわけではなさそうだった。ただ久しぶりに話し相手ができたから、つい憎まれ口が出た、という感じ。実際、声を大きくしたり撫子を睨んだりすることもなかった。
その目は、いつの間にか撫子の背後──扉の、更にその向こうへと向けられていた。
「うん?」
老婆はぴたりと硬直した。乾いた呼吸音が聞こえた。
そうしてどこかぼんやりとした口調で、言った。
「お前、とんでもない奴を連れているね」
それが何を意味しているのか、撫子はすぐわかった。だから言った。
「この旅を、占ってほしい」
「………………」
老婆は黙り込んだ。
実のところ撫子は、占い師を今まで見たことがなかった。撫子の通った訓練学校でもその存在には触れないようにしていたし、生まれ育った地にも占い師はいなかったから、関わることもなかった。
彼らがどのように占うのか、何故過去や未来を知りうるのか、彼ら以外に詳しく理解することはできない。完全に口伝なのである。
そして彼らはすすんで自分たちの占いを見せびらかすようなことはしなかった。実際に占ってもらった者に他の者が詳細をたずねても、要領を得ない答えばかりで、占いの結果以外のことを何故かうまく話せなくなる。その現象も含めて、占い師は謎に包まれた存在だった。
果たして目の前の占い師は、不意にぽつりと零した。
「どうしても、一緒に行くのかい」
撫子は間髪入れずに答えた。
「旅の理由そのものだ」
それを聞くと、老婆は長いため息をついた。身体中の空気が抜けていくようだった。そして自分の吐き出した空気でも探すように、しばらく宙を見つめた。
否、探しているのは、撫子の未来か。
「行かなくたっていいし、帰らなくたっていい」
老婆は撫子をまっすぐ見ていた。いつの間にか、撫子の方が老婆から視線を逸らしていたことに気づいた。
たるんだ瞼の下に、穏やかな金色の瞳が見えた。
「どちらを選んでも苦しいさ。けれどお前は、行くことに決めたんだろう。言い訳じゃなくて、理由のためにね」
撫子は頷いた。親に諭される子どものようだと思った。
「それなら、今の自分のことを信じておやり──外にいる子たちのこともね」
老婆はそう言うと笑った。気持ちのいい、いたずらっぽい笑顔だった。
「そぉら、もうお行き。あの子らが待ってる」
撫子もまた、口元が緩んだ。この一見偏屈そうな占い師が、街でずっと必要とされている理由が、わかった気がした。