星明かりの路・3
羊と弾丸
2 星明かりの路・3
まさか逃げるなんて思わなかった。
「あのできぞこないの赤め!」
ゴルの手の中で煙管がみしみしと悲鳴をあげる。
百歩譲って逃亡が良策だったとしても、羊族まで連れていく意味はない。追われる理由が増えるだけではないか。
いつも自分を冷たく睨んでいた、あの忌々しい赤を思い返してはぎりぎり奥歯を噛み締めた。どうしてそんな目で私を見るんだ。
部下たちは終始落ち着かない様子のゴルに影響されてか、馬車の車輪を見たり持ってきた書類をめくったりして、とにかく何かしているふりを続けた。そうしないとゴルの叱責が飛んできてしまうからだ。
先ほどの新入りがまた走ってきた。
「ゴル様、その、やはり鷹はすぐには着かないだろうと。明日の夕方くらいかと」
「それで?」
「は?」
新入りはきょとんとした。彼にとってみれば、ただの途中報告だから続きなどない。先を促されても困惑するばかりだった。
しかしゴルの方は、話しかけてきたからには何か進展があったのだろう、いや、進展したに違いないと思い込んでいるから、新入りがそれ以上何も情報を持っていないとわかるや、かっと顔を赤くした。
「そんなわかりきったことをわざわざ言わんでもいい! さっさとあの赤髪と羊どもを見つけてこい!」
また怒鳴られて、新入りは飛び上がった。何もしないわけにもいかないから、自分よりは経験のある年上の魔法使いに電雷鷹がどれくらいで戻るかを改めて確認しに行ったのだ。とはいえ彼らとて持っている答えは同じなのだからあまり意味はない。
ただ突っ立って苛々としているだけのゴルよりはよほどマシだが、上司から怒鳴られればそれだけで身が竦む。そしてその上司は見つけてこい、早くしろ、くらいの指示しか出さない。周囲の部下たちもさすがに呆れ始めていた。
首まで真っ赤にしていよいよ沸騰寸前、といった様子のゴルの気を何とか紛らわせようとして、新入りは話題を変えることにした。
「こ、この雪では彼らも思うように動けないのではないでしょうか。いくら馬車とはいえ……」
「ふん、貴様らは見失ったじゃないか」
すぐさま嫌味で切り返してくるあたり、まだ冷静さは少しだけ残っているらしい。
新入りは再びせっせと墓穴を掘ってしまったことに気づいて、慌てて方向転換した。
「子どもの方はともかく、何故担当の羊族まで連れていったのでしょう。そこまで、親しかったとか」
「………………」
新入りの言葉に、ゴルは黙り込んだ。
わからなかったのではない。何となく、心当たりがあったからだ。認めたくないけれども。
撫子が危険を承知で、それでも羊族──アリスを連れて逃亡した理由に。
「親密だったとしても、こんなことになるまで巻き込むとは思えないのです。もしや、無理やり──」
「………………」
それも考えたが、ゴルはしかし納得できなかった。あの周囲を寄せ付けない、常に鋭い空気を纏った撫子が、アリスに対して一緒に逃亡するよう懇願したり、ましてや有無を言わさず馬車に押し込めたりする姿など、想像できない。あいつがそんな感傷的なものか。逃亡するなら一人で勝手にするだろう。冷たくてつまらない奴だから。
「羊族なんて、連れてまわってもかえって足手まといですし……狙ってくださいと言っているようなものでしょう。彼らも存外阿呆なのかも」
狙う、という言葉にゴルは反応した。顔がどんどん青くなっていく。先ほどまでの赤みは消え失せ、目が大きく見開かれた。どくどくと首筋や胸が激しく脈打つ。
もしや。
「もしや売り飛ばすわけでもないでしょうに、あそこまで成長した羊族なんて、もう価値が低く」
ゴルはばっと新入りを振り返った。この何もわかっていない愚か者に、思い切り怒鳴ってやった。
「うるさい! あの羊は」
あの羊は特別なんだ。
◇◇◇
「まぁ土だわ! 土が見える!」
アリスが声をあげた。
アリスの言葉通り、道はところどころ焦げ茶色の土肌を見せていた。大地を覆う雪はだんだんと薄くなり、美しい白銀は砂利混じりになって、まだら模様に変わっている。
周囲はほぼ無彩色、という景色を延々と見続けたせいか、さすがに飽きてきていたらしい。アリスははしゃいでいた。ほろの中から身を乗り出さん勢いで地面を眺めている。子どもがそんなアリスの後ろから、遠慮がちに顔を出していた。
「土が見えるなんて久しぶりだわ。ねぇ撫子、降りて歩いてみてもいいかしら」
アリスが弾んだ声でたずねた。御者台で手綱を握る撫子の顔をのぞきこむ。美しい青がきらきらと輝いていた。昼下がりの陽光を受けて光る水面のようだ。
撫子は一瞬考えたが、頷いて手綱を引き、馬を止めた。
もう長いこと馬車に乗ったままだ。足もなまってしまうだろう。
アリスは破顔して荷台から降りた。早速雪混じりの土の上へ駆けていく。久しぶりに直に踏む土の感触が楽しいようで、馬車の横を行ったり来たりしている。靴が泥だらけになっていくが、気にしていない。荷台に上がる前に泥を落とさなくては、と少しだけ後悔しながら、撫子は息をついた。
◇◇◇
白い境界線が後方へと遠ざかり、太陽が中天に差しかかった頃、撫子たちは街に辿り着いた。
なだらかな曲線を描くいくつかの丘の上にできた大きな街である。周囲に巡らされた壁は石造りで、美しくなめらかだった。ずいぶん昔からあるらしく、その表面は苔むしている。
門は解放されていた。
見張りをしているような者もおらず、のんびりと穏やかである。
舗装された道はあったが、通行人の多い中を馬車で通れるほどの幅はない。ちょうど昼時で天気もいいとあって、街は賑わっているようだ。
門の近くにあった宿屋に馬車と馬を預け、撫子たちは街の中心へと向かった。
撫子たちの眼前には青い湖が広がっていた。この街の中心である。地形の隆起によってできたこの湖こそ、街の始まりだった。
風がやわらかく湖面をくすぐって、きらきらと光がはねている。
湖を囲むようにして、大小様々な店が立ち並ぶ。広場として人々の交流の場と、市場として交易の場を、うまく兼ねているのである。
「素敵なところね」
アリスが撫子の隣で呟いた。頬は上気して薄く薔薇色に染まっている。そこへ長い睫毛が蝶の羽のように影を落としているのを見つめていると、それが強く羽ばたいて、撫子を見つめ返してきた。
「ねぇ撫子。素敵ね」
そう繰り返して、アリスは傍らの子どもへも微笑んだ。子どもは前を向いたままだったので、その表情は見えない。しかし、アリスと繋いだ手は緊張していないようだった。
またあのそわそわとした感覚が、撫子の胸にやってきた。むず痒くなって、撫子は適当に目に入った店を指さした。
「昼食にしよう」