白銀の大地より・1
羊と弾丸
1 白銀の大地より・1
風が牙をたてている。
雪はつぶてのように頬を、額をたたく。吹雪だった。
べしゃりと肌に広がって、容赦なく熱を奪う。手の甲で拭ったが、あまり変わらなかった。手も顔も、ひりつくような冷たさに濡れている。
甲高い悲鳴をあげながら、風が吹き荒んでいた。
それに混じって、ざぶざぶと雪をかく音が、周囲から絶えず聞こえてくる。
「しつこい……!」
馬を操る深緑のローブをまとった人物が、苛立ったような声をあげた。
雪にまみれて複数の白銀が、疾走する幌馬車を囲んでいた。
所詮、普通の馬の脚では彼らには敵わない。
雪狼である。
面倒な奴らに見つかった。はばからず舌打ちした。
雪原に棲む獣の一種である雪狼は、見た目こそ凛々しく美しい白銀の毛皮をもつ狼だが、その性格は獰猛だ。常に数匹程度の群れで行動し、縄張りに敵や獲物が入ると鋭い牙と爪で襲いかかる。
特に牙による一撃は強靱で、鎧を傷つけることさえあった。直接肌に触れれば瞬く間に凍りつく、氷の牙。
馬車のすぐ横を並走しているのは、群れの中でも特に大きな雪狼だった。
そもそもエサとなる獣が少ないこの極寒の地で他より大きな体を持つということは、それだけ沢山のエサを食べているということであり、つまり狩りの技術が優れているということの証である。そういった特に大きく狩りの得意な個体が、群れの長となる。
今まさに幌馬車は、雪狼の群れに襲われているところだった。
「困ったわねぇ」
のんびりとした口調で女の声が言った。少しも困っているような声音ではない。
背後の幌の中から聞こえたその声に、深緑のローブが振り返って再び舌打ちした。
他人事のようにしやがって。胸中で毒づいた。
幌の中で、2つの影が寄りそい合っていた。
豊かな金の巻き毛。ぱちぱちと瞬く宝石のように青い双眸。形のいい唇はほのかに色づいている。暗い赤のローブに包まって、何かを抱え込んでいた。
その何かは、必死に耳を塞いでいた。
花弁のように、淡くやわらかな薄紅色の髪。涙の膜が張った瞳は若葉色で、ころりと零れ落ちそうなほど大きい。こちらも暗い赤のローブに身を包み、小さな肩が細かく震えていた。まだ幼い子どもである。
金髪の女が、子どもに囁く。
「大丈夫よ。撫子が追い払ってくれるから」
撫子と名を呼ばれ、深緑のローブの人物はいよいよ苛立ってフードを外した。もう鬱陶しかった。
燃えるような赤い髪があらわになる。適当にざっくり切り落としただけのような短めの毛先の隙間から、瞳が見え隠れしている。怒りと焦りが滲んでいるその瞳は、真っ直ぐな緋色の光をたたえていた。
撫子は懐に手を伸ばした。
命令をよくきくいい馬たちだったが、もう随分前から疲労していた。
このまま雪の中を全力疾走していれば、いつかはこちらの足が折れてしまうだろう。雪狼を怖がらずに走り続けていられるだけでも、十分奇跡と言える。
伸ばした手をローブの中に潜り込ませる。
堅く乾いた木の感触。
馬車の速度が落ちた。雪狼たちが距離を詰める。
撫子は大きく息を吸って、それを抜いた。
◇◇◇
市場は昨晩の吹雪にもかかわらず賑わっていた。
中央には明るい色のレンガ石の道が敷かれ、それをはさむようにして、両脇に露店が並ぶ。調理場を外側に設置している店が多く、美味しそうな匂いが辺りを漂っている。あちらこちらで売り子が声を張り上げる。
レンガ石の上を、様々な種族の者たちが行ったり来たりしていた。
立派な角の生えた逞しい牛族。ぬらりと光る水かきを持つ蛙族。戦闘に長けた兎族が、絶えず漂う匂いに鼻をひくつかせながら露店をのぞいていく。
撫子たちは、そんな賑わいの只中にいた。
色も匂いも音も混じり洪水のようになったここでは、撫子たちの旅装束などすぐに埋もれてしまう。
撫子は中央の道をむっつりとした顔で歩いた。その後ろを、暗赤色のローブが2つ、ぽてぽてとついていく。
やがて一軒の露店に目をつけた撫子は、持っていた麻の袋をどさりと店の台の上へ投げ出した。
「…………これを」
哀れなのは店主である。いつもの呼びこみ文句も客を迎える調子も一瞬で削がれた店主は、小柄な鼠族だった。店は長く出しているのだろう。並べられた台は風雨に晒され随分変色していたし、雨避け風避けの布も継ぎ接ぎだらけだった。
丸みを帯びた小さな耳をひくりと揺らして、突然やって来た無愛想な客に驚いたようだったが、すぐに笑顔を貼りつけた。
「いらっしゃい旦那」
しかしそのまま客が何も言わないので、仕方なく出された袋の中身を覗き込んで、店主は息を呑んだ。
「こりゃ雪狼の毛皮じゃないかい! ここいらでよっく悪さするもんで、みんな困ってたんでさ。退治してくれなすったとは!」
美しい白銀の毛皮が数枚。汚れがなく毛並みもいい。これだけで上等な外套がいくつもできる。見た目もさることながら、温かさも普通の布地とは比べ物にならない。雪原に位置するこの市場では、外套は一番売れる必需品だった。
「こんな上等なモン……こりゃ、いや」
店主は急に慌てたように周囲を見回して、取り出しかけた毛皮をまた袋へ押し込んだ。身を屈めて声を落とす。そのつぶらな瞳は撫子を少し怪しんでいるようだった。
「うちだけに売ってくだせぇよ。あちこちでバラまかれたんじゃあ困りますぜ」
「そんな面倒なことするか」
撫子はげんなりしてそう応えた。
毛皮はとにかく数が必要で、いつだって一定数は売れるものであるため、どこの店も欲しいのだ。それが貴重な雪狼のものともなれば、喉から手が出るほど欲しがるのは当然だった。
店主はあちらこちらで毛皮が売られて、一枚分の価値が下がるのを恐れたのである。
撫子の言葉を聞いて店主は飛び上がるほど喜び、一旦店の奥へ引っ込むと、戻って来る時には銀貨の詰まった袋を抱えていた。
いい客だと思われたのだろう。おまけだ、と言って白の欠片を数個つけてくれた。
乳白色の小石のようなそれは、すべすべとして掌によく馴染んだ。
身体を強化するお守りとして人気の品であり、旅人ならば誰もが身につけているものだった。
撫子とてすでに複数持っていたが、多くて困るものでもないので素直に受け取った。
なるほどこういったもてなしがあるところを見ると、いい商人の店を引き当てたようだ。
撫子がずっしりと重い袋を抱えて振り返ると、しかしそこに連れの姿はなかった。
「あの馬鹿共……!」