1 俺とアイツの異世界行
「クラスに最低一人は、絶対に気が合わないヤツっているよね。ちょっと話してるだけでも、『あ、私コイツのこと好きになれないわ』ってなるようなヒト。私にとってのソレは、まさにキミなんだよね。ヒカリ君」
俺たち二人しかいない放課後の教室で、アイツは吐き捨てるようにそう言ってのけた。
窓から差し込む夕陽に照らされたその利発そうな顔には、隠そうともしていない侮蔑と嫌悪の色がありありと浮かんでいる。
黒縁メガネの奥の目が、冷淡に俺を見据えていた。
……普通、面と向かってこうも容赦の無い言葉を吐かれた暁には、どうしようもなく凹むか、あるいは頭の中の血管が沸騰するかのような怒りが沸き上がるか、あるいはその強すぎる言葉をすぐに飲み込むことができず、ただただ戸惑ってしまうか――その三通りのいずれかの反応を返すものなのだろう。
俺も、通常ならそのいずれか――おそらく俺の場合は怒るパターン――に、当てはまるリアクションを取っていたはずだった。しかし、そうはならなかった。そうはならなかったのだ。
俺とアイツは、その数十秒後には、それどころじゃない事態に直面していた。
俺とアイツは、放課後の教室から、見たこともない場所に――俺たちの住んでいる世界とはまったく別の世界、いわゆる異世界に、移動してしまっていたのだから。
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いつの間にか途切れていた俺の意識は、全身に感じる微かな震動と、耳に飛び込んでくる雑多な喧噪に促されるようにして、ゆっくりと目覚めていった。
重い瞼を開けると、一瞬だけ視界がぼやけた後で、赤茶色のモノを映し出す。
それが、レンガ造りの路面であることに気付くのには、さほど時間はかからなかった。
「な……んだ……?」
瞼を手の甲で擦りながら、俺はうつ伏せの状態から上半身を起こす。
俺は、薄暗い路地裏の、大通りから五メートルほど離れた場所で倒れていたようだ。左右には、路面と同じレンガ造りの建物が、壁と壁の隙間もロクに無いくらい密集して建っている。窓が三列ずつあるので、三階建てのようだ。
俺の眠りを妨げた微かな震動は、大通りを行き交う人の足音で、耳に飛び込んできていた――いや今も聞こえるが――喧噪は、その人々が会話する声だったということも、すぐに理解できた。
服に付いた土埃を払いながら、俺は前後交互に視線を向ける。
人がすれ違うことはできる程度の幅しかないこの裏路地には、通行人はいなかった。俺はズボンのポケットに手を突っ込み、左ポケットには財布、右ポケットにはスマートフォンがあることを確かめる。寝ている間に盗まれたりはしていないようだ。
それは良かったが――そもそも根本的な疑問が解決していない。
出来ることなら考えたくもないことだったが、そうも言っていられないだろう。俺は、明らかにありえない現象に見舞われている。そもそも、大通りを行き交う人の髪の色や服装――それらは、遠目にも現代日本の街中でお目にかかることのできないようなものばかりだった。
俺は、緊張と動揺で心臓の鼓動が速まっていくのを感じながら、胸にそっと手を当てて、あえて考えるのを後回しにしていたその疑問を口にした。
「ここは……どこだ? どうして――俺は、ここにいる?」
自分に言い聞かせるようにそう呟いたことで、ほんの少しだけ余裕ができた。
目が覚める直前の記憶を振り返りながら、胸の鼓動が鎮まるのを待つ。
俺の名前は、日野ヒカリ。
高校二年生。
二年一組の副委員長を諸般の事情で務めていて、今日もアイツ――クラス委員長の守山くるみと、委員会の事務仕事をするために居残りをしていたんだった。
そのときに、色々あって、あんな風に面と向かってキツいお言葉をもらって。
そのすぐ後だった――と、思う。意識が、プツンと途切れたのは。
「外国……じゃ、ないよな……」
煉瓦造りの建物と路面は、写真やテレビで見たヨーロッパの古い街並みによく似ている。
しかし、それが誤りであることは――より正確に言えば、ここが俺の元いた世界とはまるで異なる場所、いわゆる異世界であることは、大通りを行き交う人々を見ていれば明白だった。
「コスプレとかじゃ、ない、よな……」
大通りを行き交う人々は、革でできているとおぼしきローブを着ていたり、夕陽を浴びてキラキラと輝く銀色の鎧を纏っていたり、はたまた水着同然の露出度の高い服装だったりした。スーツや学生服、その他現代日本で違和感の無いファッションの人は一切見当たらない。
髪の色も、黒や茶色もいるにはいるが、金髪銀髪はもちろんのこと、赤・青・緑・黄・ピンクといった戦隊モノの基本色に加え、オレンジ・紫・灰色、さらにはそれらの混色まで彩りみどりだ。
そこまでならまだ、コスプレイヤーの集団ということで無理やり納得することもできるかもしれなかったが、決定的なのは、行き交う人々の中に、明らかに人間ではない生物が含まれていることだった。
全身緑色の二足歩行のトカゲのような生物。
猫のような耳を持つ毛むくじゃらの生物。
人の上半身に馬の下半身の、ケンタウロスのような生物。
さらにはヒトの形ですらない、地を這って進むドロドロのスライムのような生物(?)。ゼリーのような半透明の身体の中に、目玉のようなものがある。それだけではなく、内臓と思われるモノまでほんのり透けて見えている……!
思わず目を背けた俺は、今度は翼をはためかせて飛んでいる鳥人のような生物の存在に気付く。
――これはもう、認めるしかなかった。
この世界は、俺のいた世界とはまるで異なる世界だ。
ゲームや映画でしかお目にかかったことのないような多種多様な生物が、当たり前のように存在し、当たり前のように生活している。
俺は、クラクラと目まいがするのを感じながら、半ば無意識にスマートフォンを取り出した。
――当然のように、『圏外』の文字が無常に表示されていた。
「どうすりゃ、いいんだよ……」
自分が今置かれている状況を理解したことで、俺はかえって焦燥感に見舞われていた。
追い打ちをかけるように、俺は行き交う人々が交わしている言葉が、日本語でも英語でもない、恐らくはまったく未知の言語であることにも気付いてしまう。
俺はこの世界において、何かの間違いで紛れ込んだ異物だ。
どうしてこんなことになったのかは分からない。
そして、これからどうすればいいのかも分からない。
それこそゲームや映画の世界なら、この後何かに巻き込まれたりして、そのうちに自分がこの世界でやるべきことや、元の世界に戻る方法が分かってきたりするものだが、現実(こんな世界で『現実』というのもおかしいが)は無常だ。
誰かが話しかけてくるわけでも、何かが起きるわけでもなく、かといって大通りに飛び出していく勇気があるわけでもなく、裏路地の壁にもたれかかるようにして、そのまま無為に時間を過ごすこと三十分。
「あー……腹減ったな……」
いつもなら、家に帰って夕食を食べているような時間だ。
いつまでもここに突っ立っているわけにはいかない。
食べるものを探さないといけないし、寝る場所だって必要だ。
そのためには、まずは大通りに出ないと始まらないことは分かっている。
だけど、俺の服装、学校指定のごく標準的な学ランという服装は、この世界にとっては標準的どころかおそらく奇抜なものだろうし、そもそも会話ができないようでは、にっちもさっちもいかないことは明らかだ。
この世界の法制度や道徳観が現代日本と同じであるとは限らない以上、俺のような不審者は牢屋にでもぶち込まれるか、最悪の場合殺されるかもしれない。
そう思うと、背筋が寒くなった。
……身振り手振りででも、なんとかコミュニケーションを図れないだろうか。
元の世界に戻る方法は一旦置いて、どうにかこの世界で寝食を確保する方法をあれこれ考えながらも、俺は未練がましくスマートフォンの『圏外』の表示が切り替わるのを期待して、何度か画面を確かめたりもした。
そうこうしているうちに、またしても三十分が経過。
俺は、俺が自分で思っていた以上にチキンだったことを痛感し、ため息をついていた。
「行くしかないよな……行くしか……」
俺は、自分に言い聞かせるようにそう呟きながら、ズボンの尻ポケットに後ろ手で触れた。
教室での委員会関係の居残り作業で使用していたカッターナイフを、そこに入れたままだったのを思い出したのだ。
正直心もとないが、もし何か身を守らなければならない事態に直面したら、そのときはコイツを頼りにするしかなかった。
カッターナイフにほんの僅かな勇気をもらって、俺は意を決して歩き始める。
……前後の通りを見比べて、心もち人が少ないほうを選んでから。
――そのときだった。
「ん、ううん……」
俺の真後ろから、誰かが呻く声がしたのは。
「!」
思わず飛び上がりそうになりながら、俺はすぐさま振り返る。
そこには、先ほどまでいなかったはずの、そして、ここにいるはずのない人物が、一時間前の俺のように、うつ伏せになっていた。
「も、守山……!」
鼻の下までずれた眼鏡を寝ぼけまなこで直しながら、うつ伏せのまま俺を見上げた、セーラー服姿のその女は。
クラスメイトであり、学級委員長であり、どうやら俺を嫌っているらしいことが今日確定した女。
守山くるみに、違いなかった。