3.言ってないことの方が多い
ギイ・ルブランはルブラン家に迎え入れられた養子である。
元を辿れば出自不明の孤児院育ちでしかない小童が、あれよあれよと瞬く間に国内屈指の大富豪の家に引き取られたのだからそれは当然話題になった。ルブラン家当主の隠し子だとか大金持ちの道楽だとか、面白おかしく飛び交った邪推の類に関しては大人たちが対応したので実のところギイは良く知らない―――――知る必要も、なかったので。
「そもそも、私の婚約者があなたであると把握している人間がこの学校内に存在するとは到底思えないのだけれど………あなた、誰かに教えてあげたの?」
「いいえ、それはありえません。レディ・ルブランの仰る通り、僕が貴女の婚約者であるとは友人であるポールを含め誰一人想像すらしていないでしょう―――――ギイ・ルブランはルブラン家に迎え入れられた養子であって、グレイス・ルブランの義弟であるとの認識しかないと思われます」
ひそひそと聞こえ続けていた雑音がぱったりと止んだので煩わしさが減って何よりだ、と言わんばかりの晴れやかさでギイはきっぱりと言い切った。でしょうね、と頷くグレイスもまた晴れ晴れとした表情をその美しい顔に浮かべている。
「ええ、普通はそう思うでしょう。あなたが我が家の養子になったことは別に秘密でもなんでもないもの―――――将来的には婿になる予定で引き取ったとは言ってないだけで」
しれっ、とグレイスは真実を述べた。ギイと彼女からしてみれば、別に秘密でも何でもない。敢えて吹聴することでもなかったので言わなかっただけである。しかし周囲には寝耳に水で、案の定聞き専に徹することの出来ない輩が現れた。
「そっ………え、婿って………えっ?」
「ぎぎぎぎぎ義理の弟と婚約なんてそんな恋愛小説の定番みたいな………ッ!?」
「お、お金の力で美少年の義弟を手に入れるだけでは飽き足らず最初から毒牙にかけるつもりだっただなんてそんな、ななななななんって狡猾な女なの………!!!!!」
口早に紡がれる嫌味のような何かには僻みの類が混ざっている。お喋りに興じていた一団が明らかに動揺しているというか面白いぐらいに混乱しているのだが、ルブランの名を持つ一組の男女はまるで聞こえていませんよと軽やかに無視を貫いた。
なお、内心では盛大に手を叩いて嗤っているであろうグレイスはこの程度では完璧と讃えられた美貌をまったく崩すことはないのでギイは素直に感心している。尊敬、と言い換えてもいい。
「あ………あああああああ、だからギイはグレイス嬢を一度も『姉』とは言わなかったしグレイス嬢もギイのことを『弟』と扱わなかったのか! 姉弟じゃなくて婚約者だから!」
独り言にしては大きな声は、お喋りな集団の後方席あたりから唐突に発生したものだった。それは友人の某侯爵家次男坊の声に似ていたような気がしたが、ギイは敢えて触れることなく優雅な所作で紅茶を含む。
「ま、まぁギイ様がルブラン家のお嬢様の婚約者だというのは確かに驚きの新事実ですけれども………あの方がギイ様を冷遇していたのもまた事実に変わりないのではなくて?」
「そう、そうですわよねぇ! 婚約者であるなら尚更、仲睦まじく同じところに住んで親交を深めればいいだけの話ですもの!」
「あくまで、あくまでお互いの呼び方や接し方については婚約者としての対応だったから姉弟の距離感ではなかったと言われましても説得力がありませんわよねぇ………!」
びくっ、と身体を強張らせていた女子たちが精一杯虚勢を張るように、止めればいいのに次から次へと強気な言葉を並べ立てるのをグレイスは冷静に聞いていた。そして彼女がどう返すのかを待つ姿勢だったギイの耳が、ちょうど雑音が途切れたタイミングで何気ない友人の呟きを拾う。
「あれ………? んん? グレイス嬢の婚約者がギイ、ってことは―――――あれ? ボクの兄さんの婚約者は誰? 婚約者に会いに行くってルブラン邸にめちゃくちゃウキウキ通い続ける兄さんは………えっ、まさかあのオディロン兄さんが婚約者でもない女性のおうちに数年単位でお邪魔し続ける迷惑行為常習犯!? その場合問題があるのはグレイス嬢よりボクの兄さんの方なのでは!?」
後半はもう呟きどころではない絶叫に近いものがあったが由緒正しきブノワ侯爵家の嫡男に奇行と虚言の疑いありと身内の口から迸ろうものなら野次馬の興味はそちらに移った。言われてみればそれもそうだ、みたいな空気が場に満ちる。
ポールは本当に愉快な芸風の持ち主であると惜しみない称賛の拍手を送りたいギイの目の前で、それまで周囲の様子など一顧だにしなかったグレイスが初めて視線を動かした。
「あの子―――――オディロンの弟にしては、随分と好感の持てる子ね」
「あとでポールに伝えておきます」
「ええ。よくぞ言ってくれたわ、と存分に褒めていたと伝えて。それにしても、あの男を実の弟の視点から盛大にこき下ろしてくれる貴重な人材を今まで見落としていたなんて………なんてもったいないことを」
「あれはあれで兄上を普通に慕っている弟ですよ。少々面倒な気質持ちですが、僕の善良なる友人なのです。レディ・ルブランにおかれましては何卒ご容赦いただきたく」
畏まって頭を下げるギイの姿を見た者は、対面席で優雅に微笑むたった一人しかいない。
分かっているわ、と応えた彼女は唇の端を吊り上げる。新しい玩具を見付けて煌めく緑の双眸は嗜虐性に富んでいて、けれどグレイスに合っていた。
偶然なのか故意なのか、カフェテリアに居合わせていたポール・ブノワに集まっていた注目を再び掻っ攫うように絶世の美女は口を開く。それは誰もが知りたい答えで、同時にこの場に集うほとんどが知らないであろう『真実』へと踏み出す第一歩だ。
「正直ね、あのオディロン・ブノワが大嫌いなだけで彼の血縁者に至るまで毛嫌いするつもりはないのよ、私。だけどアイツ、アイツだけは嫌。無理。絶対に認めない。存在は視界に入れたくないし、声なんて聞きたくもないし、同じ空間で同じ空気を吸うのでさえも業腹だわ。そこまで究極的に嫌っている男の婚約者だなんて勘違いされる度に虫唾が走ってしょうがないけど―――――でも、ミレーユ姉さんがあのクソ野郎の婚約者だと周知されるよりはよっぽどマシよ」
あなたには悪いけれど、と静かな闘志を燃やして嘯くグレイスの放つ明確な殺意に、ギイは動じたりはしなかった。彼女に幻滅することもなければ臆する要素も何もない。お喋りな女子たちや無責任な野次馬や愉快な友人が気圧されたとしても彼だけは例外なのである―――――だって、ギイは知っている。
ルブランの家名を名乗ることになった経緯も踏まえれば最初から、彼はちゃんと知っていた。
「ご心配には及びません。レディ・ルブランがその件に関しては受け流しの姿勢を貫いていらっしゃることは重々承知しております………すべてはレディ・ブランシュのためと、存じ上げておりますので」
それは誰だ、と誰もが聞きたい誰も知らない人の名前に、グレイスだけは陶酔にも似た艶やかさでふんわり微笑んだ。
「ええ、そうよ、ギイ・ルブラン。あなたとは家族になってもいいけどあの男と縁戚になるなんて私は未だに認めていないわ、認めてたまるものですか―――――どうして私の大事な従姉をあんな男のお嫁さんにしないといけないのよそんなムカつくことしなくたってミレーユ姉さんは私が幸せにしてみせるのにッ!!!!!」
豹変どころではない感情の発露が雄叫びと化して大気を揺らす。え、と広がっていく周囲の困惑は予想の範囲内だったので、ギイはさして慌てることなく一口分の紅茶を飲み込んだ。
「従妹に終生養われるより幸せな人生をお約束します、というのがプロポーズの文言だったそうですよ」
「はあ? 調子に乗ったわね外面詐欺師―――――ミレーユ姉さんが小さい頃から私の家で一緒に暮らしてるのはあくまで療養のためであって似非紳士に嫁ぐためじゃない!!!」
絶世の美女、と名高い大富豪の娘は心のままに吠え立てる。コーヒーを一気に飲み干して空っぽになった瀟洒なカップをソーサーへと叩き付ける様はおよそ良家のお嬢さんとは思えない気迫と怒気に満ちていたが、度肝を抜かれた野次馬連中は唖然と口を開くばかりで誰も何も言えなかった。
「ええ………ボクの兄さんにあそこまで辛辣になれる女性ってこの世に実在するんだ………はっ! オディロン兄さんの婚約者ってグレイス嬢じゃなくて彼女の従姉だったの!? 思い返せば『ルブラン邸に居る婚約者に会いに行ってくる』と出掛けることはあってもグレイス嬢に会いに行くとは言ってなかった気はするけどそういうことなのオディロン兄さん!? そういう大事なことはきちんと教えておいてほしい!!!!!」
騒がしいポールの説明文っぽい主張に関しては事情を知らない面々全員概ね同意見だったと思う。