【江戸時代小説/男色編】大江戸奉公恋模様
ひ(し)とに惚れるたァ、こうゆうことを云うんでィ。
「おんどれ、いっつも下向いとんな。道端になんぞ金子(銭)でも落ちてんのかいな」と番頭に言われた。
だが、あっしは「お疲れ様でございます」とへこへこして、番頭とは決して目を合わせない。
なぜか。
だれにもわかるまい、この気持ち。それは畏怖しているのではなく、渇望だった。このひ(し)とが欲しいという羨望の眼差し。
向けてはならないことは百も承知だ……特に番頭のような屈強な男相手に、あっしのような下賎上がりの手代が、やっていいことと悪いことがある。
目を合わせたが百年目と思いながら、あっしは番頭の背ばかりを目で追っているのだった。
遡ること数年前。
元々、寺稚児だったあっしは、ある夜初めて僧侶に呼ばれて寝所へ行ったら、てっきり般若湯盛りの相手だと思っていたところ、性行為の相手をさせられた。
菊座(肛門)を無理やり開かされるあまりの痛さに暴れに暴れて寺から逃げ出した。
山奥深くの夜遅く、足元もおぼつかない。
あっしは崖から川に落ちて町まで流された。
「居酒屋のおやじ、一杯飲ましやがるから、こんなに遅くなちまったじゃねえか」
甚兵衛という男が行灯持って、ちょうど夜道を歩いていた。
甚兵衛はそばの川の水の音がなにやら騒がしいのを気にして覗いてみると、まだ年端もいかない童子が一人、流され溺れかけていた。
甚兵衛はそいつを引き上げてやったが、童子は意識をなくしていて、どこから来たのか聞こうにも聞けない。仕方がないので自分の家に連れて帰った。
家は香の専門店で甚兵衛はその番頭を務めている。この辺りでは有名だった。
童子は川の水で汚かったので、甚兵衛は上さんを呼んで風呂に入れることにした。
童子の体を洗っているとそいつが目を開けたので甚兵衛は安堵したが、童子は状況が読めないからかひどくおびえて縮こまった。
甚兵衛はこのとき、この童子が川で溺れかけていたのにも、なにか訳があるに違いないと勘づいていた。
童子はふと尻を重点的に洗い始めた。白い肌が桃のように真っ赤になるまで擦るもんだから、甚兵衛はおかしいと思って、止めろと止めに入った。
すると童子は泣いて、深夜の長屋に泣き声が響いた。
甚兵衛もその妻も頭を抱えたが、童子は泣き疲れるとやがて眠った。
翌日の昼頃、あっしは知らない部屋の天井を見て起きた。
ヘンな匂いがしたので、そのほうに歩くと、ここは香の店だということがわかった。
そそくさと出る準備をして店を切り盛りする男に声をかける。
「大変お世話になりました。このご恩は必ずお返しいたします」
頭を下げ、店を出ようとしたところ「おい、どこ行くんでい。てめぇの居場所はここだろうが」とさも当然というように呼び止められた。
ここにいていいということなんだろうかと、おろおろしていると「だれも取って食ぃやしねぇよ。堂々としてろィ」と叱られた。
そして、名前はなんだと聞かれたので、干支の辰に樹木の樹で辰樹と答えたら「てめぇの名は、今日から辰之丞だ。精々奉公に励みな」と返ってきた。
「わかったンなら、返事しな」
「はいッ。精一杯、働かせていただきます」
番頭から新しい名前と働き口ももらったあっしは、その日からこの店で丁稚奉公することになった。
店で忙しなく働き始めて、二、三日した時のこと。
逃げた寺の僧侶が線香を求めてやってきた。
あっしは見つかりたくなくてわざと後ろ向いて香を並べたり奥の間と行ったり来たりして顔を合わすことなくやり過ごそうとした。
この様子をおかしく思ったのか甚兵衛に呼びつけられ、問いただされた。
「ちょいと具合が悪いんで、せっかく来てくれたお客様に移っちゃいけねぇと思いまして……」と苦しい言い訳をする。
番頭は「おめェの存意(考え)はよくわかった。こちとら客商売だ。風邪移ったとうわさされりゃ商売あがったりだ。奥で休んでろ」と辰之丞の体を労ってくれた。
奥に下がり、表の様子を伺っていると、番頭と僧侶の会話が聞こえた。盗み聞きしていると、やはり僧侶は自分を探して聞き回っていることがわかった。
「ときに、迷い子を探しているのですが、先ほどの丁稚がそれに似ていましてね。あの子はいつからここに」と僧侶が不審を打ってきた。
それを聞いた途端、甚兵衛は「あいつァ、わしの弟の子でい。弟夫婦が風邪っぴきなったってんで、ちょいとうちで預かってンでい」
そう番頭がうそをついたんで、もしかしたら番頭は、あっしが寺を逃げ出してきたこと、風呂に入れたときに尻をあんなにも擦ったこと、すぐに出ていこうとしたのも僧の追っ手があるからだと……そのすべてを、お見通しなんだと、あっしは思った。
「アンタの探してる子じゃあねぇヨ」と言って番頭は僧侶を追い払った。
それから幾年月が過ぎ、丁稚から手代にまでなったあっしは、番頭の甚兵衛に対して、見つかっては終いの岡惚れ(密かに想うこと)している。
ある日のこと。隣の店の組頭が慌てて店先に見えた。
「おい、甚兵衛さんヨ。今し方、着いた漁船がくじら捕まえたって言うんで、見てきちゃどうかね。ありゃあ、滅多に見られるモンじゃねぇよ」
それを聞いた甚兵衛。
「ナンだぁ。くじらだとォ。そりゃ貸本でしか見たこたねぇナ。おい、ちょっくら出てくらぁ。店番頼んだゼ」
お上さんは頭を下げて見送った。
あっしも店番だと思っていたが、甚兵衛は「おめぇも来い。社会勉強だ」と言って無理やり連れて行かれた。
例の漁船近くまで行くと既に人だかりができており、その中心に横たわるくじらは一丈(約三メートル)ほどの小振りなやつだった。
「くじらはヨォ、陸の上では生きらンねぇ」
親方は生き生きとした顔で教えつくれる。
「くじらは、深いふかい水ン中で泳いで生きて、んでも呼吸すンのに水面から顔出して、お天道さんを拝まなきゃなンねぇ。ひ(し)とも同じよォ。地べたばっか見てねェで、たまにゃ天を仰ぐぐれぇしねぇと、気が滅入っちまうヨ。ナァ、そう思うだろ、辰之丞」
ふと、微笑みながらこちらを向かれて、あっしは驚いてとっさに目線を下へ逸らした。
不意打ちをくらって、返す言葉も見つからない。
心の臓がばくばく、破裂しそうンなって、どうしたらいいかも皆目見当がつかない。
「そ、そろそろ店に戻らねぇと上さんばっかりじゃかわいそうだ。あっしは先に店に戻りやす」
番頭とふたりで出かけたことなんて一回もなかったから、これ以上一緒ンいるとおかしくなっちまうと思ったあっしは、店に逃げようと踵を返した。その時だった。
柳の葉が顔面をなでて目がくらみ、雑草に足を滑らせて川ン中に一直線。頭から水を被って、上も下も分からない。
すると、も一つ大きな水の音。
「辰之丞、こっちだッ」
番頭は岩につかまりながら片手を出して、あっしの襟元を掴んだ。
「ぐっ……ごほっ、ごほッ」
番頭によってあっしは岩に掴まることができて、どうにか顔を水面から出すことができた。
「ほら、前見てねぇからこうなるンだ」
番頭は愚痴を言いつつも「おい、だれかこいつを先に引き上げてやっつくんねぇか」と、くじら見物の野次馬に呼びかけてくれる。
野次馬がてんやわんやする中で、あっしはこの際だからと常日頃の思いを打ち明けた。
「ごほっ……あっしはね、番頭を包む水になりてぇぐらいにゃあ、あっしはアンタに惚れてますよ。番頭に首ったけなんです」
言えば困らせるだろうと思っていたが、番頭はニッと口角上げて江戸ッ子の笑みを見せて言った。
「おぅおぅ、そうかぃ。わしゃぁ、てっきり嫌われてンのかと思ってたヨ。好かれてるたァ、嬉しいモンだ」
なんてひ(し)となんだろうと番頭の言葉は心に染みた。
泣きそうな顔を隠すためそっぽ向いて「番頭はあっしの恩人ですから嫌ったりなんかしませんよ」と告げる。
「おうよ。わかったから、とりええず、こっから抜け出すの、手伝っつくんねぇか」
「ええ、勿論」
あっしが伸ばした手を番頭が取り、ふたりして笑い合ったのだった。
おしまい
参考:落語『首ったけ』『百年目』