あなたにお礼を伝えたく
列車に揺られていた。静かな窓の外は雨が降っているのだろう。窓に落ちる雨粒は夜の光に照らされて、斜め下へと伸びていく。
一体どれくらい眠ってしまっていたのだろう。外は既に日が落ちて長いようだ。カタンカタンと揺れるリズムが心地よく、私はふたたび眠りを貪ろうとする。何故かとても疲れていた。どうして、そんなに疲れているのだか。
私はいつも通り銀行に出勤し、窓口での業務と融資相談に来たお客様にお茶を入れた。それから、二時頃にお茶を配り、最後の勘定締めもつつがなく終わった。午後五時頃帰路へ。
それから、いつも通りに駅に着き、いつも通りに改札をくぐった。いつも通り……。いや、雨が降ってきていた。あ、傘がないわと思いながら、列車に飛び乗った。
少しずつ夢から覚めていく頭が夢から覚めない体を億劫に思い、羞恥を私に思い出させた。
そして、そっと周りを見回す。
乗客は私だけだった。人に居眠りを見られなかった安心感から、ほっと息をつく。嫁入り前の娘が、と親にはよく言われるのだ。
嫁入り前の娘が夜に歩き回るだなんて。
私はその言葉にいつも不服を感じていた。
「すみません。勝手させて頂いています」と口で言いつつ、歩き回っているのではなくて、仕事をしているのだと言いたくなる。遅くにといっても八時までには帰るように仕事も切り上げるようにしている。
窓の外はいつもよりも夜が深い気がする。
今は一体どこの駅なのだろう。乗り過ごしていないと良いのだけれど……。
車掌も来ないまま、私はただ列車に揺られ続けた。
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蒸しっとした夏の空。今にも雨が降りそうな重さで湿度を保ち、そのまま太陽がその湿度を蒸発させてしまったような気だるい空気が東口にもまとわりついていた。
定年を迎えた吾妻は再任用制度を使って、今も梅ヶ谷駅に留まることになった。
「夏も終わりかぁ」
独りごちた吾妻の耳には蝉の声がまだわんわん響いてくる。しかし、それもお盆を過ぎた辺りからぴたっと鳴き止んでしまうのだ。意外と蝉はお盆までお経を唱え続けている坊さんなのかもしれないな。
吾妻はそんなことを頭に浮かべ、お盆の入に入った今日を思う。
去年定年退職をしたのだが、減給でよければと人事の奴に声を掛けてもらった吾妻は、再任用で梅ヶ谷駅での配属を続けてもらえることになった。業務も今までと違い、駅員室の留守番に勝手なボランティアである傘貸し出しだけだ。おそらく会社としてはこの留守番業務に重きを置いていて、知識はあるが低賃金で動かせる人材と吾妻がぴったりだったのだろう。しかし、吾妻としては傘立て業務に重きを置いていた。それは、人事の奴も今の駅長も苦笑いで承諾してくれている事項であり、吾妻も留守番業務に穴を開ける気はない。
その上、今や陰でいや、むしろ表向きにも「傘のおじさん」と呼ばれているのだ。親しみを込めての渾名であり、馬鹿にしての渾名でもある。なんといっても、吾妻は毎朝ここに傘立てを出して、勤務終わりにここの傘立てをしまうということをしているのだ。若い奴らにとってはおそらく面倒なオヤジなのだろう。
しかし、雨の日に傘を忘れてしまった人たちは安心した表情を浮かべながらその傘を取っていく。そして、次の朝、返してくれるのだ。
「さて」
腰に手をやり、柄の部分のアルコール消毒もしっかり終えて、傘立ての準備を終えた吾妻の頭が思い出に浸りそうになった時、声を掛けられた。
「おはようございます」
今では毎日にっこり笑顔を向けてくれるお嬢さんだ。彼女にとってはおそらく親しみを込めての「傘出しおじさん」だ。彼女は一度「いつもありがとうございます」と恥ずかしそうに手作りのパウンドケーキを持ってきてくれた、優しいお嬢さんだ。会社で色々あるだろうけど、元気に挨拶してくれるということは、頑張っている証拠だろう。
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列車の中は静かだった。他に乗客はいないのだろうか。世間はお盆休みに入ったというのにと、私はふと不安になって連結部分の向こうに視線を投げていた。蛇腹が揺れるガラス二つ分の扉の向こうは雨のせいで濁って見えない。
遅くなってしまったらお父さんに怒られるのだろうな……。家に入れてくれるのかしら?
お盆なのに帰るのが遅いとどやされるのかしら。だから、仕事なんてするなって言われるのかしら。
特に資産家というわけではない。前庭があったり垣根があったりする家でもない。ガラガラと音の鳴る磨りガラスの扉を開けばすぐ玄関。オリンピック前景気に乗っかって少し羽振りが良くなったくらい。だから、私は何不自由なく学校へと通い、働きたい思いを募らせ始め、たくさん勉強をして行員になった。
働き始めてみれば、父母共に私を認めてくれると思ったから。
しかし、実際は……。大切にされていると考えれば良いのか、世間体を気にしているのか、父母共に私が行員を続けていることに不満しかないようだ。
いつもよりも明るい列車の照明を仰ぎ見て、大きく息を吐き出した。
誰もいない車両。まだ駅に着きそうにはない。
大きく伸びをしてみれば、地味な色のロングスカートから白い自分の脛が伸びてきた。
職場では短いスカートのコンパニオンみたいな格好なのだが、父母の言葉が頭に過ぎってしまう弱虫なのだ。
Aラインのワンピースに可愛いハイヒール。町に歩くみんなみたいな。窓口に来る着物の奥様のご令嬢みたいな……。
あんな格好出来る家庭に生まれたかったな。
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「吾妻さーん、ちょっと来てください」
吾妻が駅員室の留守番をしていたら、急に高梨に呼び出された。連れ出された場所は東口だ。
「ほら、これ」
高梨の指さす向こうには雨に濡れた番傘が畳まれてあった。
「これ、吾妻さんのです?」
バカ言うなよ。番傘なんて一体いつの人間が差すっていうんだ?
「いや」
吾妻が否定すると今度はどんどんと背中をたたかれる。
「なんすか、この傘。お化けっスか?」
「お化けな分けないだろう? 番傘って言ってな……」
番傘と効いても全くピンときていない表情で、高梨がもう一度「やっぱお化けっスかぁ」と繰り返していた。
吾妻は肩でため息をついて高梨の教育係の枚方を思い、ご愁傷様と心で呟いた。
そして、番傘と言えば吾妻にとっては越智さんと結びつくものになる。
越智さんは年齢で言えば三十歳ほど上の先輩で、六年前、鬼籍に入った大往生の大先輩だ。吾妻が新人で梅ヶ谷駅に配属された時の今で言う教育係のような先輩。この傘立ても越智さんの影響だった。雨の日に困っていたご婦人に番傘を貸してあげたことをきっかけにして、それ以降は雨の日は必ず傘を用意するようになったと、聞いたことがある。
越智さんが定年までここで続けた仕事であり、吾妻が退職の数年前から始めて、今に至る。傘立てを置いていなかった時期が長くあったため、当時のことを知るお客さんはいないだろうが、いまでも喜んでくれる人も多い。
「東口はこの辺りの人にとっての玄関口だからな。ご近所の方がきっちりと返してくれることが多い」
越智さんが教えてくれた大切なことの一つだったが、まだ若かった吾妻には全く分からなかった。吾妻はその濡れている番傘を手に取り、広げてみた。藤色和傘に太陽が柔らかく差し込んでくる。
「あ、あ吾妻さん。呪われますよっ」
慌てた高梨を軽く睨み返した吾妻が言った。
「バカ。乾かしてやらないとダメになってしまうだろう?」
傘は古いものだが、丁寧に使われているようで傷みなどはみられなかった。
※※※※※※※※
私、急行列車にでも乗ってしまったのかしら。
まぁ、遅くなってしまったら、もうどう足掻こうと同じなのだけど。やっぱり、雨の暗闇を歩くとなると心細い。駅舎で電話を貸してくれると良いのだけど。
母なら迎えに来てくれるかもしれない。わずかな期待を胸に、視線を窓の外へ向けた。
ずいぶんと町の方へやってきたみたい。
あ。
遠くに見えた駅らしき白い光にやっと安堵のため息をついた。
※※※※※※※※
「やっぱ吾妻さんって、あれっすよね」
何故か吾妻に懐いている新任の駅員、高梨はとても気さくに吾妻に話しかける。
「あれとは?」
吾妻もこそあど言葉でよく喋るようになってきたと妻に言われるのだが、彼には負けるような気がする。
「ほら、あれっス。あれ」
東京でオリンピックが開かれるのが二回目だということを話していたら、いきなり『アレ』呼ばわりだ。最近の若者は本当によく分からない。こういうのがもてるのだろうか? 吾妻は首を傾げながら高梨に忠告する。
「あまりしゃべってると枚方に叱られるぞ」
そんな忠告も聞かずに高梨はよく喋った。「あれっス」に始まり彼のつまらない質問に答えると「吾妻さん、尊いっスねぇ」と貶されているのか、褒められているのか分からない言葉で締められる。枚方が新人の時の方がまだましな気がするのは、吾妻がまだ再任用ではなく正社員として見られていたからだろうか? 再任用の吾妻しか知らない高梨にとっては、近所のおじさんに少し毛が生えた程度の大人なのかもしれない。
まぁ、平日のお昼間はそれほどお客様もいないことだし、枚方の昼休憩が終わるまでなら目をつぶってやるか。
吾妻は諦めて彼の話に耳を貸していた。
「あ、そうっス。あれね、やっぱり傘お化けっスよ。きっと……」
そう言いながらスマホの画像を見せてくる。高梨の顔を見れば全く悪気はない。もう少しものを考えて言えないものかねぇ。吾妻はそんな感想を抱いてしまう。そして、「傘お化けかぁ」と苦笑しながら、彼に向かう。確かに高梨は意味不明に番傘が置かれていればお化けと思ってもいい年格好の若い子だ。しかし、吾妻にとっては心外である。何にしろここに傘を返してくれるということは、返してくれた人の感謝もあるのだ。そう言い返そうとして、高梨が思い出したように笑った。
「吾妻さん、あれっス。生き字引きっス」
はいはい。せめて物知りと褒めてくれないもんかね。
高梨のニヤニヤ顔を見ているとそんな気がしてきた。
※※※※※※※※
白い光を外へ漏らしていた扉が私の背後で音を鳴らして閉まってしまった。
降りた駅は「梅ヶ谷」
どうやら、終点まで乗ってしまったらしい。そして、列車はそのまま回送の文字となり、同じ線路を帰って行った。呆けて列車を見送っている私の上に雨が降り注いでいた。着ているブラウスが肌にくっつき始めて気持ち悪い。なんだか付いていない日だわ。そう思いながらとぼとぼと屋根の下にあるベンチに腰掛けた。
雨は止みそうもない。
蛍光灯の光に雨だけが輝いて落ちていく。ホームにも誰もいない。終点だから今から列車に乗ろうとする人が並んでいても良いはずなのに。
初めて降り立った終点の駅。国鉄も走っている大きな町だ。どうせなら、休日に遊びに出かけて百貨店で流行の服を見て、お洒落な喫茶店でプリン・ア・ラ・モードを食べて友達とおしゃべりをしたかったな。
でも空は暗く、雨が降っている。この中を歩いて帰らなくちゃならないのだろうか。いつまで経っても帰りの列車はやってこなかった。
お月様やお星様くらい見えればこんなに気持ちも沈まなかったかもしれない。
疲れた。まぶたが岩のように重たくなって落ちてきそうになるのを我慢する。
「あっ」
いつの間に現れたのか、駅員さんがホームに立っていた。
駅員さんが私にとって唯一開かれた光に見えた。
※※※※※※※※
さすがに吾妻も驚いた。まさか高梨がこの梅ヶ谷沿線で起きた事故を知らなかったとは。
「いや、だって、吾妻さんは生き字引きだし。ねぇ、枚方先輩っ」
上がりが一緒だった枚方は制服を脱ぎながらいきなり声を掛けられて「はぁ?」という声を上げた。
「あのさ、お前。吾妻さんは大先輩だぞ」
「知ってますよぅ」
知ってて馬鹿にしているのなら、より質が悪い。そう思うのはもちろん吾妻だけではなく、枚方も同じようだった。
「吾妻さん、すみません。ちゃんと指導しておきますから」
駅員帽をロッカーに掛けて私服に着替え終わった枚方が頭を下げていた。
「あ、それよりもちゃんと手を合わせて帰れよ」
吾妻が言うのは駅員室にある神棚のことだ。社の方針で各駅に神棚があり、乗客乗務員の無事な帰路を願うように設置されてあるのだ。そして、今日はその無事がなされなかった日。
雨による落石に気付いた運転士がブレーキをかけたが、車輪がスリップ横転。たくさんの負傷者をだし、死者が一名出てしまった。年若い女の子だったそうだ。
「分かってますよ」
枚方は悟りの域に入ったような微笑みを見せて、ロッカー室から出て行った。彼が出て行くのを確かめた高梨がクスクス笑いながら音量を下げた声で軽口を叩いた。
「枚方先輩、お化けが怖いから絶対ちゃんと祈ります。だから、吾妻さんが心配しなくても大丈夫っスよ」
まぁ、私だって越智さんの昔語りがなかったら覚えていないのだろうけどな。
吾妻はそう思いながら先のお返しとばかりに高梨の背中に軽く張り手を食らわした。
「あんまり先輩を馬鹿にするな。バカ」
※※※※※※※※
駅舎に連絡が入ったのは夜だった。山手の方から雨が降り始めていたということが影響したのだろう。帰宅時間で車両にはまだたくさんの人が乗っていた。
ホームから見上げた空は既に暗い。『梅ヶ谷』と書かれた板を照らす蛍光灯に大粒の雨が光って落ちてきていた。そして、祈った。大きな事故になっていませんようにと。
一応、国鉄と市バスに振り替え輸送を依頼したから、下りのお客さんは一時間ほど前に全員いなくなった。そして、終点であるここに上りのお客さんはいない。だから、静まりかえったホームに既に人はいない。
それなのに、背後で土を踏む音が聞こえた。
私が振り返ると雨に滲む景色にまだ少女と呼べそうな女性が立っていた。いつからいたのだろうか。脱線事故のせいで列車は一向に戻ってきていないというのに。改札をくぐった人も見かけなかったというのに。
「どうされました?」
蛍光灯に照らされた少女の顔は雨も相まってより青白く浮き出るようだ。
「雨で……帰れ……ません。列車も……きません」
「……そう、ですね。急に降ってきましたものね。列車も事故があったから当分来ないと思います」
私は少女を見て「お急ぎのところ申し訳ありません」と頭を下げていた。
「傘……忘れて」
「傘……あぁ、傘なら……ちょっと待っててください」
私は東口の傘をすぐに思い出し、急いで階段を上り、改札を飛び出した。
中央改札口を右へと折れ、東口出口へと到着すると、今時、毛嫌いされただろう番傘だけが一本残っていた。
残り少ない番傘のそれは一番に思い入れのある一本だった。
不安な表情を浮かべていた少女を思い出しながら、ホームに戻りつつ私は不安を感じていた。
しかし、その『不安』はごちゃ混ぜの感情からできあがっているようで、いなくなってても不安で、いても不安という不思議な状態だった。番傘を抱えた私がホームに立った時、果たして、彼女はそこにいた。
ゆらゆらと揺れる蜃気楼のような儚さを持って、彼女が私に気がついた。
「すみません、遅くなってしまって。あと、こんなものしか残ってなくて……」
しかし、彼女は静かに頭を下げて「ありがとうございます」と囁いた。それから、細い腕でその傘を抱いた彼女が私とすれ違い、改札へと続く階段へと歩いて行く。
しばらくその小さな背中を見つめていた。
「あ、返すのはいつでも良いんでね。臨時のバスか国鉄の方で振り替え輸送してますから」
その声が届いたのかどうかは分からない。声を掛けた時はもう彼女の姿は闇の中に消えていた。
※※※※※※※※
同僚に別れを告げた後、東口の傘立てを取り込み忘れていたことに気がついた。こんなことは初めてだ。やはり、再任用という形で少し気が緩んでいるのかもしれない。
高梨なら「年ですもんね」と軽口をたたきそうだが、吾妻自身それを認める気はさらさらない。
東口に出ると、東山公園から響く蝉の声が夕方最後の一仕事をしていた。吾妻は東口で再び首を傾げてしまった。お昼に干しておいた傘が見当たらないのだ。雨も降っていないのに、持って行くなんて。
ハタと蝉の声が止まった。と思えば、暗雲が立ちこめた。
ぽつり……
雨粒が吾妻の頬に落ちてきた。最近の空は読めない思っていたが、まさかこんな急転するとは。そう思いながら、吾妻が空を見上げると声を掛けられた。
「お……さん」
越智さんと聞こえた気がした。しかし、耳を疑い「傘おじさん」の「おじさん」の方かと思い直した。しかし、もう一度呼ばれた。
「おちさん」
今度ははっきりと。
少女と呼べそうな女性が立っていた。吾妻の親戚の大学生のお姉さんが来ていたような余所行きの白ラインが裾に入った鴇色のワンピース、髪は編み込みにして丁寧に結われていた。そして、その手には大切に番傘が抱かれていた。
「越智……ですか?」
尋ね返した言葉に少女はにっこり笑って傘を差し出す。
「ありがとうございました。やっと返しに来れました」
一つぽつりと。しかし、雨はそれ以上降ってこなかった。吾妻は差し出された傘に手を伸ばし、受け取ると、少女がその微笑みを空に向けた。
「――――待ち遠しいですね」
「……」
「……あずまさん」
知った声。高梨だ。
「何してるんスか? ぼんやりして」
「あ……あぁ。高梨か。忘れ物か?」
蝉の声がわんわんと東口にも降り注いでいる。空は晴れ。私服に着替えて吾妻から見ればチャラ男感が増している高梨。お洒落パーマに桜色のシャツ、濃紺のスラックス。
「あ……昭和三十九年八月十三日」
事故のあったその日。
オリンピックの年のお盆の入りに貸した番傘がまだ返ってこないんだけど、あの子ちゃんと家に帰れたのかな……。
越智さんの言葉が脳裏に響いた。若い吾妻が「番傘ですか?」と今の高梨のように軽く時代遅れを指摘した時の言葉だ。
「帰ってきましたよ……ちゃんと東京オリンピックの年に」
吾妻は空に言葉を向けた。
「うっわ。吾妻さん独り言? もう、どうしたんスか? てか、オリンピック延期ですよね」
「あぁ。待ち遠しいな。おい、ちゃんと手合わせてきたのか?」
訝しげな表情を浮かべていたと思ったら、後ろめたい表情を見せる。そんな高梨に吾妻は一睨みした。
「え、あ、その傘ちゃんと乾いたんですね」
オリンピックの空、白黒テレビを前にしてもカラーの記憶が残る開会式の空。青い空に白い五輪が浮かんだ日。
楽しみにしていたのだろう。
越智に代わり、来年は何か関連グッズでもお供えしておきますね。
「ちゃんと手、合わせとけよ」
〇〇〇〇〇
窓の外を見る。あの駅員さんいるかしら。
開会式までまだ時間があるから、予定を聞いて、もし、もし、よかったら一緒にカラーテレビで見ませんかって言ってみよう。
近所の人も来るみたいだから、一人くらい増えてもきっと父母ともに怒らないだろう。いや、むしろカラーテレビを前に自慢気に胸を張るかもしれない。
こっそり座布団で座席を確保しておくのも良い。
だって、恩人だもの。傘を貸してくれた優しい駅員さんだもの。
蝉は変わらず夏を惜しんで鳴いていた。
※国鉄→昭和六十二年までのJRの呼称。